南方熊楠の博物学・生物学・民俗学など多方面にわたる学問的業績とは?

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南方熊楠

南方熊楠については、前に「南方熊楠は博覧強記の博物学者で語学の天才!」「知の巨人南方熊楠の面白い奇行・エピソードをご紹介します」「知の巨人南方熊楠と同じ慶応3年(1867年、1868年)生まれの有名人とは?」という記事を書きました。

天才的な語学力を駆使してアメリカ・キューバやイギリスを股にかけたエネルギッシュな彼の行動力や驚異的な記憶力のエピソード、常軌を逸した狂気じみた奇行エピソードが多いことから、そちらの話題への興味の方が先行し、彼の学問的業績についてはあまり知られていません。

現在放送中のNHK朝ドラ「らんまん」の主人公のモデルである植物学者牧野富太郎の生涯にも似ている側面もありますが、「日本植物学の父」と呼ばれる牧野は東京大学理学部植物学教室の助手・講師として46年間にわたって東京大学に奉職し、65歳には東京大学から理学博士号を授与されています。

これに対して牧野富太郎より5歳年下の南方熊楠は、生涯定職に就かず無位無冠であったことから、彼の学問的業績については正しく評価されているとは言えません。

そこで今回は、南方熊楠の学問的業績にスポットを当ててわかりやすくご紹介したいと思います。

なお、彼の著作を原文で知りたい方には、多くの著作が揃っている「青空文庫」(無料のインターネット電子図書館)をご覧になることをお勧めします。

1.南方熊楠の業績

彼は現在の和歌山県和歌山市に生まれ、東京での学生生活の後に渡米。さらにイギリスに渡って大英博物館で研究を進めました。多くの論文を著し、国内外で大学者として名を知られましたが生涯を在野で過ごしました

彼の学問は博物学・民俗学・人類学・植物学・生態学など様々な分野に及んでおり、その学風は、一つの分野に関連性のある全ての学問を知ろうとする膨大なものであり、書斎や那智山中に籠っていそしんだ研究からは、曼荼羅(まんだら)にもなぞらえられる知識の網が生まれました。

日本が長い鎖国時代から文明が開化していく激動の時代に、日本を飛び出してアメリカに行き、そこでの学問に飽き足らず、また学問に対し自由で貴賎のないロンドンで東西の文献・書籍・美術品や考古学資料などに埋没して、なりふり構わず学問を追求したことが挙げられます。

そこでは、英国第一の週間科学誌、『ネイチャ-』に「極東の星座」の発表に端を発し、同誌に「拇印考」など50回にも亘る寄稿や、また随筆問答雑誌『ノ-ツ・アンド・クィアリ-ズ』に帰国後もふくめ数百の論考、随筆を寄稿しています。

彼彼自身『ノ-ツ・アンド・クィアリ-ズ』のことについて、「小生でなければ解決の付かぬ問題多く・・・」と述べているように、イギリスにおける彼の学問的地位は学者の間でも非常に高かったことが窺えます。

持って生まれた人並みはずれの記憶力と、十数カ国に通じる語学力を備え、厖大な数の書籍を筆写し、実証的な文献の精密調査と比較文学的検証が相乗的に蓄積され、そこから無尽蔵ともいえる論考や随筆の発表として発展していきました。

熊楠の代表作といわれる「十二支考」はその象徴でもあります。

帰国後は、日本に多くの総合雑誌や専門雑誌が登場したこともあり、彼は「神社合祀反対」も含め、これらの雑誌に矢継ぎ早に寄稿していきました。

生物学、民俗学、民族学、宗教学など人と自然の関わりを鋭く見てきた彼は、地域の人々の心のよりどころの神社や、住民に密着した自然環境の一つである森が強引に合併され、失われていくことに強い怒りを覚え、神社合祀反対運動を展開しました。

その中でも特に顕著なことは、東西の考証事例を縦横に用いた柳田国男との多数の往復書簡であり、柳田国男を創始者とする日本民俗学の誕生と発展に多大な影響を与えました。

熊楠が心に決めて生涯貫いたのは、青年時代に知った『カ-チス、バ-クレイ菌蕈類標品彙集』に匹敵する「日本産菌類の彩色生態図譜」を大集成することでした。

5000種の収集を目標に掲げましたが、彼の心身の衰えもあって、4500種・15000枚の彩色図譜が完成したところで、継続することができなくなりました。

この中には新属発見の「ミナカテルラ・ロンギフィラ」、「粘菌生態の奇現象」、「魚に寄生する藻」の発見など、菌類・粘菌類・藻類などについての世界に誇れる数々の業績があり、その分野の発展に多大な功績をあげました。

南方熊楠を尊敬していた小泉信三(1888年~1966年)は、「在野無援の一私学者でこれだけの造詣と業績とがあったことは、日本の学問の歴史に伝ふべきことである」と賛辞を送っています。ちなみに小泉信三は、皇太子明仁親王(現在の上皇さま)の教育責任者を務めた経済学者です。

2.生物学者学者としての業績

(1)粘菌の新しい「属」の発見

ミナカテルラ・ロンギフィラ

彼は粘菌の研究でよく知られていますが、特に「ミナカテラ・ロンギフィラ」(Minakatella longifila、「長い糸の南方の粘菌」の意。現在の標準和名はミナカタホコリ)は、分類学上の新しい「属」を発見したとして菌類を研究する世界中の学者たちに大きな衝撃を与えました。発見当時、彼はどこの研究機関にも所属していなかったのだからなおさらです。

(2)ネイチャー誌に史上最多の51本もの論文を発表

南方熊楠・ネイチャー投稿南方熊楠・ロンドン抜書

1893年(明治25年)のイギリス滞在時に、科学雑誌『ネイチャー』誌上での星座に関する質問に答えた「東洋の星座」を発表しました。

また東洋図書目録編纂係として勤務していた大英博物館の閲覧室において、「ロンドン抜書」と呼ばれる9言語の書籍の筆写からなるノートを作成し、人類学や考古学、宗教学、セクソロジーなどを独学しました。

さらに世界各地で発見、採集した地衣・菌類や、科学史・民俗学・人類学に関する英文論考を、『ネイチャー』と『ノーツ・アンド・クエリーズ』に次々と寄稿しました。

生涯で『ネイチャー』誌に51本の論文が掲載されており、これは現在に至るまで単著での掲載本数の歴代最高記録となっています。

(3)「日本産菌類の彩色生態図譜」の作成

南方熊楠の菌類図譜

彼は、帰国後、「隠花植物」(花をつけないで胞子で繁殖する植物)の採集に精を出しました。この中でも大量の資料が残されているのが菌類です。彼は日本の菌類の多様性に気づき、採集された材料に基づいてそれを記録しはじめたのです。

菌類図譜は、採集された材料を、その特徴とともにA4程度の厚紙に描画・記載したものです。資料の識別のためF(Fungi菌類の頭文字と思われる)を付した番号が与えられており、典型的には次の4つの要素を含みます。

①きのこ自体の乾燥標本(多くはスライスされたきのこ)を貼り付けたもの

②彩色図(きのこの水彩画。乾燥してしまうと生物学的特徴が失われるので、これを水彩画によってとどめたもの)

③胞子(雲母板に胞子を落下させたものを紙で包んだもの)

④記載:英文で試料の菌学的性状を記したもの

しかし、これらの4つが必ずあるとは限らず、一部の要素が欠けているもの、1枚のシートにおさまらず、複数のシートにまたがっているものなど、おそらく紙資源の節約のため、複数のF番号が1枚のシートに集めたもの、などがあり、管理を難しくしています。

(4)生態学(ecology)を日本に導入

生物学者としては粘菌の研究(70種類の粘菌を新しく発見)で知られていますが、キノコ・藻類・コケ・シダなどの研究もしており、さらに高等植物や昆虫、小動物の採集も行なっていました。そうした調査に基づいて生態学(ecology)を早くから日本に導入しました。

明治政府の行った「神社合祀政策」(*)対し生態系保護と民間信仰の側面から強く反対しました。この活動は現在の「エコロジスト(ecologist)」( 生物と環境の相互作用を研究する生態学者。また、自然環境の保護を唱える人)の始まりと言われています。

(*)神社の合併政策のこと。神社整理とも呼ばれ、複数の神社の祭神を一つの神社に合祀(いわゆる稲八金天神社)させるか、もしくは一つの神社の摂末社にまとめて遷座させ、その他の神社を廃することによって、神社の数を減らすというもの。

彼は庶民の生活と結びついていた神社が消えることで民俗文化が途絶え、神社林によって保たれていた生態系が崩れることを危惧しました。

南方二書

彼は神社合祀政策に反対する2通の手紙を書き、柳田国男を通じて東京帝国大学の教授に送っています。この手紙は柳田によって「南方二書」と名付けられ、有識者に配布されました。

「南方二書」とは、熊楠が東大植物学教授であった松村任三(まつむらじんぞう)(1856年~1928年)に宛てた二通の長文の手紙(手紙は1911(明治44)年8月29日と31日に書かれている)です。手紙という形ですが、これは熊楠の「熊野の森」物語です。

同年9月、この二通の手紙は柳田國男の手によって刊行され、志賀重昂ら数十名の識者に配布されました。全国でも強力に神社合祀が進められていた三重県と和歌山県下の現状を具体的に詳しく報ぜられています。

神社合祀反対運動を進めるなかで、熊楠は「エコロジー(エコロギー)」という言葉を使っています。2000年代になって進められてきた印象の強いエコロジーですが、南方熊楠は明治時代から提唱していたのです。

余談ですが、東大植物学教授であった松村任三は、後に「日本植物学の父」と呼ばれた小学校中退の牧野富太郎を東大植物学教室から何度も追い出そうとした因縁浅からぬ人物です。

(5)環境保護活動により熊野の「世界遺産」を生んだ

現在は「紀伊山地の霊場と参詣道」という名称で世界遺産として国内外の多くの人を魅了している熊野古道。実はここには南方熊楠のエコロジー活動のおかげで守られた自然があります。

1906年、明治政府は神社合祀政策として、一町村に一社を標準と定め、神社は整理・統合されました。熊野は自然崇拝に加えて修験道や仏教が混在していることもあり、数多くが廃社され、神社の林も伐採されてしまいます。彼はその森林伐採が生態系を崩すと考え、反対したのです。

反対運動にもかかわらず、合祀され伐採された森林もあったものの、一部は現在でも残されました。現代では一般的な環境保護活動も、当時は珍しいものでした。そのため熊楠は、エコロジーの先駆けとも呼ばれるのです。そして熊楠が守った自然は、今は外国にも知られる熊野古道として、世界遺産に認定されたのです。

(6)昭和天皇への進講と粘菌標本の献上

南方熊楠・キャラメル箱

1929年に、昭和天皇に進講し、粘菌標本110種類をキャラメル箱に入れて献上しています。

(7)南方二書

南方二書

同年9月、この二通の手紙は柳田国男の手によって刊行され、志賀重昂ら数十名の識者に配布されました。全国でも強力に神社合祀が進められていた三重県と和歌山県下の現状を具体的に詳しく報ぜられています。

3.民俗学者としての業績

(1)民俗学研究の多くの著作・論文・ノート・日記

彼は生物学だけではなく、民俗学の分野にも著書を残しています。

民俗学研究上の主著として『十二支考』『南方随筆』『南方閑話』などがありますが、そのほかにも、投稿論文、ノート、日記の形で学問的成果が残されています。

英語に達者で、フランス語やラテン語の書物も読めたことから、著書の『十二支考』では干支の動物について世界各国のあらゆる伝説や説話などを紹介しています。

『南方随筆』『南方閑話』でも博覧強記ぶりは発揮されています。自由な語り口で書かれたこれらの著作は、現在の私たちが読んでも面白いです。

(2)民俗学者柳田国男との文通による交流と民俗学雑誌への論文投稿

柳田国男

柳田国男(1875年~1962年)は、熊楠のことを我々の仲間はみんな日本民俗学最大の恩人として尊敬していると記しています

二人の交流は、1911年(明治44年)3月、柳田から熊楠に宛てた書簡に始まりました。山神とオコゼに関する熊楠の論文がきっかけとなりました。それまでに、柳田は『遠野物語』などを出版、民俗学の先駆けとなる研究を始めており、一方、熊楠も民俗に関するさまざまな論考を学術雑誌に発表していました。

1913年(大正2年)、柳田国男が田辺に来て熊楠と面会し、交流が始まりました(熊楠47歳、柳田39歳)。この時、熊楠は緊張のあまり酒を痛飲し、泥酔状態で面会したということです。この時の模様は柳田の著書「故郷70年」に詳しく書かれています。

熊楠は8歳年下の柳田に対し、大きな影響を与えるとともに、高級官僚だった柳田から多くの支援を受けています。熊楠の神社合祀反対運動に対して、柳田はさまざまに助力をしました。また、柳田の創刊した『郷土研究』に、熊楠はたびたび寄稿しました。

交わされた文通は、熊楠からは160通を越え、柳田からのものは74通に及びます。内容は、民俗学上重要なものが多く、柳田は熊楠の書簡を「南方来書」と題した冊子にまとめ、大切にしていました。

柳田が日本独自の民俗学を目指したのに対し、熊楠は世界の民俗を比較し、性文化も含めた民俗学を目指していました。考え方の違いは、次第に二人の交信を遠ざけました。

しかし、南方熊楠を「日本人の可能性の極限と称賛した柳田は、没後の『南方熊楠全集』出版を強く奨励しました。


南方熊楠 菌類図譜 [ 萩原博光 ]


南方民俗学新装版 南方熊楠コレクション (河出文庫) [ 南方熊楠 ]