大河ドラマ「どうする家康」に登場する阿茶局とは?才色兼備の側室で家康の信頼も厚い

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阿茶局

今年(2023年)のNHK大河ドラマ「どうする家康」に登場する人物の中には、一般にはあまり知られていない人物もいます。

家康の側室としては、すでに於愛の方(西郷局)・お葉(西郡局)・お万が登場していますが、10月から突然側近のような形で登場した側室阿茶局には、驚いた方も多いのではないでしょうか?実は、私もその一人です。

私は、松本若菜さん(冒頭の画像)が演じることになった阿茶局がどういう人物だったのか大変興味があります。

そこで今回は、阿茶局についてわかりやすくご紹介したいと思います。

なお、「どうする家康」の概要については、「NHK大河ドラマ『どうする家康』の主な登場人物・キャストと相関関係をご紹介。」という記事に詳しく書いていますので、ぜひご覧ください。

余談ですが、江戸時代の将軍で、正室・継室や側室の数でトップはやはり初代将軍・徳川家康(1543年~1616年)で、合計22人以上いたと言われています。

二番目に多いのが「オットセイ将軍」と呼ばれた11代将軍・徳川家斉(いえなり)で、正室・継室や側室が合計17人以上いたということです。ただし40人以上いたという説もあります。

現代の価値観では、戦国武将達が多くの側室を持っていたことに、ひどく嫌悪感を抱く人も多くいることでしょう。しかし、明日をも知れぬ戦乱の世で、御家を存続させるため、多くの子を儲ける必要があり、ひとりの女性だけでは限界があるので、仕方のないことでもありました。

1.阿茶局とは

阿茶局相関図家康家族相関図

NHK大河ドラマ「どうする家康」では、次のように紹介されています。

阿茶局(あちゃのつぼね)は、武芸をたしなみ、家康が数々の戦にも同行させた美しさと才覚を兼ね備えた側室です。元は武田家臣の娘で、秀忠の後見役も務めました。

豊臣家との最終決戦の際には重要な交渉役を担うことになります。「側室にして同志、信頼厚きパートナー」です。

徳川家康には22人以上の側室がいましたが、その中でも一番信頼を得た側室で、側室でありながらまるで正室のように振る舞い、2代将軍・秀忠も実母のように慕った女性です。

阿茶局は大坂冬の陣で家康の代わりに徳川の代表として和議の交渉を行いました。その後、秀忠の娘・和子の入内に付き添う大役を任されて、天皇から官位を賜った数少ない女性です。

2.阿茶局(雲光院)の生涯

阿茶局

(1)甲斐武田氏の家臣の子として生まれる

阿茶局(あちゃのつぼね)(1554年~1637年)は、甲斐武田氏の家臣・飯田筑後直政 (なおまさ) の娘です。名を須和 (すわ)と言います。直政は武田氏の家臣でしたが、武田氏と今川氏の和睦に伴い、今川氏の家臣となりました。

(2)今川氏の家臣と結婚

そうした縁もあり、阿茶局は、天正元年(1573年)19歳で駿河今川氏の家臣・神尾孫兵衛忠重(久宗)と結婚し、2人の男児(神尾守世、神尾守繁)を授かりました。

しかし4年後に夫は亡くなり、寡婦となった阿茶局は、路頭に迷いました。

(3)家康に請われる形で側室となる

生活に困窮した須和は子供を連れて浜松城下で商品売買を手掛けて、浜松城内に出入りできるまでになります。

天正7年(1579年)浜松城内で徳川家康に見初められた須和は、25歳で家康に請われる形で側室となります。

彼女はとても聡明で、3人いた側室の中でも才色兼備で、武士のたしなみである馬術や弓術にも長けていたため、家康に寵愛されました。

「阿茶局」と称するようになったのは、この頃からです。阿茶局は、妻妾中「才略第一の人物」として、戦場にもしばしば同行しました。

天正12年(1584年)「小牧長久手の戦い」の際にも従軍していましたが、戦場で流産してしまいました。そして最終的に、家康との間には、子宝に恵まれませんでした。

天正17年(1589年)、側室の於愛の方(西郷局)が亡くなると、秀忠・忠吉兄弟(二人とも於愛の方の子)の養育を担当することになります。ちなみに、阿茶局の子・神尾守世は、秀忠の御伽衆となっていました。

阿茶局は、大変聡明な女性だったようで、大奥の統制に努めていたのも、そうした才覚の表れの一つです。

慶長8年(1603年)2月12日に家康は征夷大将軍に就任して徳川幕府を開きました。

大坂城にいた淀殿は、臣下である家康は豊臣秀頼を関白にするものと思っていましたが、慶長10年(1605年)に秀忠が2代将軍となったことで両家の対立が深まっていきます。

慶長19年(1614年)11月に徳川軍vs豊臣軍の大坂冬の陣が起こりました。

大坂城を約20万の軍で包囲した徳川方は降伏を促しましたが、兵糧不足などもあり和議の方向へ話が進んでいきました。

同年12月3日からは豊臣方の織田有楽斎を通じて和平交渉が行われました。

12月8・12日には織田有楽斎と家康の重臣・本多正純・後藤光次との間で書を交わしますが、交渉はまとまりません。

12月15日には豊臣方から「淀殿が江戸に人質となる代わりに、籠城浪人の加増を条件とした和議案」が出されましたが、家康は拒否しました。

12月17日には朝廷より後陽成上皇の使者として、武家伝奏の広橋兼勝と三条西実条が家康に和議を勧告しましたが、家康は拒否しました。

そしてもつれた和議の交渉役として阿茶局に声がかかったのです。

側室の女性が徳川幕府の大役を任せられるのは前代未聞のことです。

豊臣方の交渉役淀殿の妹・常高院(京極高次の妻)であったことも大きいですが、家康・秀忠が阿茶局に絶対的な信頼を寄せていたことが窺えます。

12月18日徳川方の京極高次の陣で和平交渉が行われ、徳川方阿茶局と本多正純豊臣方常光院と大蔵卿(大野治長の母)でした。

和議の条件として豊臣方は本丸を残して二の丸・三の丸を破却して南堀・西堀・東堀を埋める。
また、淀殿を人質としない代わりに大野治長・織田有楽斎から人質を出すこと。

徳川方は豊臣秀頼の身の安全と本領安堵に、城内の浪人についての不問である。

和議はこの他に、秀頼及び淀殿の関東下向をしなくて良いこと、大坂城の破却と堀の埋め立ては、二の丸が豊臣家で三の丸は徳川家の分担にすることが決められました。

阿茶局は家康から申し付けられた条件を相手方に納得させることに成功します。これにより阿茶局の名は全国に知れ渡ることになりました。

しかし家康は約束を破り、大坂城の外堀・内堀を埋め、二の丸・三の丸を破却し大坂城を丸裸状態にしてしまいました。

翌年の大坂夏の陣で、真田幸村率いる部隊が家康の陣に肉薄した時も、阿茶局は家康の側にいました

この戦いで豊臣家は滅亡し、家康・秀忠親子は名実共に天下人となりました。

(4)家康の死後も特別扱い

家康には22人以上もの側室がいたと言われていますが、その中でも阿茶局は特別扱いを受けた側室です。

元和2年(1616年)家康は病で倒れますが、阿茶局に「江戸に行って残された秀忠を助けるように」と頼みました。

秀忠はその時37歳で、江戸城の奥には御台所のお江春日局もいたので、阿茶局は奥ではなく、江戸城内に屋敷と化粧料300石を与えられて暮らしました

元和2年(1616年)、家康の死後、側室は全員落飾しましたが、家康の遺言により、阿茶局だけは髪を下ろしませんでした

その後も、阿茶局の活躍は続きます。元和6年(1620年)秀忠の五女・和子 (かずこ、のちの東福門院)が後水尾(ごみずのお)天皇に入内した時、阿茶局は母親代わりとして上洛したのです。

元和9年(1623年)に皇女(のちの明正天皇)出産の際にも上洛して世話をしたと言います。官

こののち、阿茶局は、後水尾天皇から従一位民部卿の官位が与えられました。そのため「神尾一位局」や「一位の尼」などと呼ばれるようになったと言われています。

寛永9年(1632年)、秀忠が没すると剃髪して雲光院と号しました。これは、慶長6年(1601年)に家康に許可されて江戸馬喰町に建てた寺の院号です。

その後、寛永14年(1637年)1月22日、83歳で亡くなりました。