「改元」を機に「十干・十二支」について考える

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干支

皆さんは、「十干・十二支」を全部正確にご存知でしょうか?知っていても、漢字で全て正確に書けるという人は少ないのではないでしょうか?

江戸時代、骨董の世界では「日付」を入れる習慣がありました。その際、「元号」と「十干・十二支」という「干支(かんし)」を併せて書くことが多かったのです。

「干支(かんし)」は、十干と十二支とを組み合わせた60を周期とする数詞です。

1.十干

これは、中国の「陰陽五行説」に基づくものです。

十干は、甲(こう)・乙(おつ)・丙(へい)・丁(てい)・戊(ぼ)・己(き)・庚(こう)・辛(しん)・壬(じん)・癸(き)の総称です。

これに、「五行(ごぎょう)」の木(き)・火(ひ)・土(つち)・金(か)・水(みず)を結び付け、さらにそれぞれ「兄()」(陽)と「弟()」(陰)を配して、甲(きのえ)・乙(きのと)・丙(ひのえ)・丁(ひのと)・戊(つちのえ)・己(つちのと)・庚(かのえ)・辛(かのと)・壬(みずのえ)・癸(みずのと)と呼ぶのです。

2.十二支

十二支は、生まれ年を表す「干支(えと)」で馴染み深いものです。

ね・うし・とら・う・たつ・み・うま・ひつじ・さる・とり・いぬ・いの総称です。

漢字では、子(し)・丑(ちゅう)・寅(いん)・卯(ぼう)・辰(しん)・巳(し)・午(ご)・未(び)・申(しん)・酉(ゆう)・戌(じゅつ)・亥(がい)と書きます。

3.十干と十二支との関係

十干と十二支とを組み合わせた60を周期とする数詞が「干支(かんし、又はえと)」です。

甲子(きのえね、又はこうし、かっし)、乙丑(きのとうし、又はいっちゅう)、丙寅(ひのえとら、又はへいいん)、丁卯(ひのとう、又はていぼう)、戊辰(つちのえたつ、又はぼしん)・・・と続きます。

4.今年はどんな年か?

ちなみに今年(2019年)は、「己亥(つちのとい、又はきがい)」です。

「己」は土の性質を表し、田畑を耕しコツコツと努力して地道に進化していく粘り強さを表す意味があり、「亥」は水の性質を表し、植物などの命が種子の中に閉じ込められた状態を意味します。

したがって、「己亥」の年は土と水の「相克」の関係で「新しいことに挑戦するよりは、今現在の状況を維持し、守りの姿勢に徹した方がよい」と言われています。

5.「干支」を冠した施設名・歴史的事件・著作・俗説

(1)阪神甲子園球場

高校野球や阪神タイガースの本拠地として有名な「阪神甲子園球場」は、完成したのが大正13年(1924年)8月1日で「甲子」の年に当たっていたので、このように命名されました。

(2)乙巳(いっし)の変

「乙巳の変」は、645年に蘇我入鹿が、中大兄皇子に暗殺され、蘇我一族が滅亡した事件で、「大化の改新」の端緒となりました。「乙巳」の年に当たっていたので、このように命名されました。

(3)壬申(じんしん)の乱

「壬申の乱」は、672年に起こった古代日本最大の内乱です。天智天皇の太子・大友皇子に対して、皇弟の大海人皇子(後の天武天皇)が地方豪族を味方に付けて反旗を翻したものです。「壬申」の年に当たっていたので、このように命名されました。

(4)戊辰(ぼしん)戦争

「戊辰戦争」(1868年~1869年)は、明治政府を樹立した薩摩藩・長州藩・土佐藩を中核とした新政府軍と、旧幕府勢力および奥羽越列藩同盟が戦った日本の内戦です。1868年が「戊辰」の年に当たっていたので、このように命名されました。

(5)辛亥(しんがい)革命

「辛亥革命」(1911年~1912年)は、清で発生した共和革命で、古代より続いた君主制が廃止され、孫文らを指導者とする共和制国家である「中華民国」が樹立されました。1911年が「辛亥」の年に当たっていたので、このように命名されました。

(6)甲子夜話(かっしやわ)

「甲子夜話」は、平戸藩主の松浦静山の随筆集です。藩主を退いて隠居した後の1821年の甲子の夜に書き起こされたことから命名したものです。1841年まで20年間にわたって書き続けられ、正編100巻、続編100巻、第三編78巻に及ぶ大著作です。

(7)丙午(ひのえうま)

「丙午」については、有名な俗説(迷信)があります。「丙午生まれの女性は気性が激しすぎて、夫を不幸にする」というものです。

これは江戸時代に実際に起こった「八百屋お七の事件」(*)に由来する俗説ですが、広く信じられてきました。

(*)八百屋お七の事件とは

江戸本郷駒込の八百屋の娘お七(1668年~1683年)が、天和2年(1682年)の大火の際、避難した円乗寺の寺小姓山田佐兵衛と恋仲になり、再会したい一心で放火し、火刑に処された事件です。井原西鶴の「好色五人女」に書かれて以来、多くの歌舞伎・浄瑠璃に脚色されて広く知られるようになりました。彼女は丙午生まれだったのです。

「丙午しっかり重荷つけてくる」という川柳があるくらいで、江戸時代、不幸な丙午生まれの女性は、よほどの持参金付きでもなければ生涯孤閨を守っていく以外に生き方はなかったそうです。

そのせいか、この丙午の年は、出生数・出生率ともに極端に低くなっています。直近は1966年(昭和41年)でした。次は2026年ですが、果たしてどうなるでしょうか?

ちなみに「丙午」というのは、「陰陽五行説」によれば、火と関係が深く、「丙」は「火(ひ)の兄(え)」で陽の卦になり、四季で言うと夏、方位で言うと南であり、「午」も陽の卦で、陽の重複だから「丙午の年には火災が多い」ということになっていました。



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