<1912年(明治天皇大喪の礼の時の漱石)>
夏目漱石(1867年~1916年)(本名・夏目金之助)と言えば、誰でも知っている「明治の文豪」で、今なお多くの愛読者がいます(私もその一人です)。
今年(2023年)は、漱石生誕156年、漱石没後107年になります。
私の高校時代の国語教師が、漱石を「今読んでも古さを感ぜしめない。そこが戯作趣味が抜けない尾崎紅葉などと違う所だ」と評していましたが、まさにその通りだと私も思います。
明治時代に評判だった「金色夜叉」で有名な尾崎紅葉や、「不如帰」で満都の紅涙を絞ったと言われる徳富蘆花などは、今では読む人もあまりいません。
ところで、漱石の「作家生活」の期間は、『吾輩は猫である』の執筆を始めた1904年から『明暗』執筆途中の49歳で亡くなった1916年までのわずか10年余りです。
このような短期間に後世にも読み継がれる数多くの名作を残したことは、驚嘆に値します。
漱石の一生は、明治という時代とともにありました。日本が近代国家となり、国家システムや政治だけでなく、文化も文学も生まれ変わっていく激動の時代の中で、漱石は「小説家として新時代のスタンダードを作った人物」と言っても過言ではありません。
では、漱石はなぜ東大の講師という安定したエリートの地位を捨てて、先行き不透明で不安定な人気商売でもある小説家という職業を選んだのでしょうか?
1.漱石が東大の講師を辞めて小説家になった理由
(1)きっかけは高浜虚子から神経衰弱の治療の一環として創作を勧められたこと
漱石は大学予備門時代の1889年(明治22年)に正岡子規(1867年~1902年)と出会い、多大な文学的・人間的影響を受けました。また子規の家で、当時15歳の高浜虚子(1874年~1959年)と出会っています。
1904年(明治37年)の暮れ、高浜虚子から神経衰弱(*)の治療の一環で創作を勧められ、処女作になる『吾輩は猫である』を執筆したのが、小説家になったきっかけです。
(*)当時は、現代のように細かく区分され きちんと診断基準のある精神病とは違い、けっこうアバウトで、「神経が参ってるな」と取れる症状が出ている場合、 だいたい「神経衰弱」と言われたようです。 芥川龍之介も「神経衰弱」でした。
漱石は、幻聴や被害妄想・追跡妄想などの症状に悩まされたようです。
私の個人的な意見ですが、神経衰弱やうつ・ノイローゼなど精神的に不安定な状態の時は、「運動」など体を動かすことも良いと思いますが、「創作」のような創造的作業に目を向けることも有効なように感じます。
ロンドン留学中、自室に閉じこもりがちだった漱石を見兼ねた下宿の女主人が、気晴らしの運動として自転車に乗るよう勧めたことが、『自転車日記』という短編に描かれています。しかし、自転車に乗ったこともない漱石は悪戦苦闘したようです。
文章を書くことによって内に籠って堂々巡りするような精神状態から自分の心を解放し、苦悩を昇華・解消することができるからです。
『吾輩は猫である』は最初に子規門下の会「山会」で発表され、好評を博しました。1905年(明治38年)1月、『ホトトギス』に1回の読み切りとして掲載されましたが、好評のため続編を執筆しました。
この頃から作家として生きていくことを熱望し始め、その後『倫敦塔』『坊つちやん』と立て続けに作品を発表し、人気作家としての地位を固めていきました。
漱石の作品は世俗を忘れ、人生をゆったりと眺めようとする低徊趣味(漱石の造語)的要素が強く、当時の主流であった自然主義とは対立する余裕派と呼ばれました。
1906年(明治39年)、漱石の家には小宮豊隆や鈴木三重吉、森田草平などが出入りしていましたが、作家としての名声が高まるにつれて来客が多くなり、仕事に支障をきたしはじめ、鈴木が毎週の面会日を木曜日と定めました。
この日は誰が来てもよいことにしたので、漱石の書斎は多くの門下生が集まって語り合うサロンのような場になり、やがて「木曜会」と呼ばれるようになりました。
1907年(明治40年)2月、一切の教職を辞し、池辺三山に請われて朝日新聞社に入社しました(月給200円)。
これについては、『入社の辞』という文章があります。
当時、京都帝国大学文科大学初代学長(現在の文学部長に相当)になっていた狩野亨吉からの英文科教授への誘いも断り、本格的に職業作家としての道を歩み始めました。
同年6月、職業作家としての初めての作品『虞美人草』の連載を開始しましたが、執筆途中に、神経衰弱や胃病に苦しめられました。
1908年(明治41年)3月23日に平塚明子(平塚らいてう)と栃木県塩原で心中未遂事件を起こした門下の森田草平の後始末にも奔走しました(塩原事件)。
1909年(明治42年)、親友だった南満州鉄道総裁・中村是公の招きで満州・朝鮮を旅行しました。この旅行の記録は『朝日新聞』に『満韓ところどころ』として連載されました。
1910年(明治43年)6月、『三四郎』『それから』に続く前期三部作の3作目にあたる『門』を執筆途中に胃潰瘍で長与胃腸病院(長與胃腸病院)に入院しました。
同年8月、療養のため門下の松根東洋城の勧めで伊豆の修善寺に出かけ、菊屋旅館で転地療養しました。しかしそこで胃疾患になり、800 gにも及ぶ大吐血を起こし、生死の間を彷徨う危篤状態に陥りました。これが「修善寺の大患」と呼ばれる事件です。
この時の一時的な「死」を体験したことは、その後の作品に影響を与えることとなりました。漱石自身も『思い出すことなど』で、この時のことに触れています。最晩年の漱石は「則天去私」を理想としていましたが、この時の心境を表したものではないかと言われます。
『硝子戸の中』では、本音に近い真情の吐露が見られます。同年10月、容態が落ち着き、長与病院に戻り再入院しました。その後も胃潰瘍などの病気に何度も苦しめられました。
1911年(明治44年)8月、関西での講演直後、胃潰瘍が再発し、大阪の大阪胃腸病院に入院しました。
1912年(大正元年)12月には、『行人』も病気のため初めて執筆を中絶しました。
1913年(大正2年)は、神経衰弱、胃潰瘍で6月頃まで悩まされました。
1914年(大正3年)9月、4度目の胃潰瘍で病臥しました。晩年は病との闘いを続けながらの執筆が続きました。作品は人間のエゴイズムを追い求めていき、後期三部作と呼ばれる『彼岸過迄』『行人』『こゝろ』へと繋がっていきます。
1915年(大正4年)3月、京都へ旅行し、そこで5度目の胃潰瘍で倒れました。6月より『吾輩は猫である』執筆当時の環境に戻り、『道草』の連載を開始しました。
1916年(大正5年)には糖尿病にも悩まされました。その年、辰野隆の結婚式に出席して後の12月9日、体内出血を起こし『明暗』執筆途中に自宅で死去しました。
(2)大学時代から発症した神経衰弱
漱石は1890年(明治23年)、創設間もなかった帝国大学(のちの東京帝国大学)英文科に入学しましたが、この頃から厭世主義・神経衰弱に陥り始めたともいわれます。
(3)最初建築学を志望したが断念し、文学で金字塔を打ち立てることを決意した
漱石は若い頃に自分の進路を考えた時のことを、のちに次のように振り返っています。
よく考えて見るに、自分は何か趣味を持った職業に従事して見たい。それと同時にその仕事が何か世間に必要なものでなければならぬ、なぜというのに、困ったことには自分はどうも変物である。当時変物の意義はよく知らなかった。然し変物を似てみずから任じていたと見えて、とても一々こちらから世の中に度を合せて行くことは出来ない。何かおのれを曲げずして趣味を持った、世の中に欠くべからざる仕事がありそうなものだ。(中略)
そこで、ふと建築のことを思い当たった。建築ならば衣食住の一つで世の中になくてかなわぬのみか、同時に立派な美術である。趣味があると共に必要なものである。で私はいよいよそれにしようと決めた。(『処女作追懐談』)
また談話筆記『落第』では、次のように述べています。
美術的なことが好(すき)であるから、実用と共に建築を美術的にして見ようと思った。
文章によって人生を革新させる力をもつ文学、一方モノをつくることで人々の生活を豊かにする建築、いずれにおいてもデザインすることの中心的な目標は人の心や行動を動かすこです。
言葉や材料(素材)という要素を分解したり組み合わせたり、「術」を用いて創造するという点は作家も建築家も同じです。
漱石は、建築科の教室で授業を受けているところを親しい友に見咎められます。そして、「建築よりも文学のほうが幾百年幾千年の後に伝える大作を作れる」「建築より文学を選ぶべきである」と幾度となく忠告を受け、再び文学の道へ進むことを心に決めました。
この経緯については、『東京高等工業学校での講演筆記』に書かれています。
しかし“文学というデザイナー”と考えれば漱石の作品には人の心や行動を動かす、つまりデザインの中心的目標があります。そのため100年、いや200年後も人の心の中で生き続けるゆるぎない力を持っているのです。
さすがに、一時建築を志しただけあって、漱石の作品には都市や住まいへの鋭い観察が随所に登場します。また、物語の舞台となる建物や街並みの描写を通じて、文明開化を目指す明治の日本が急速に西洋化していくことへの反発、日本的文化や精神、慣習への愛着も垣間見えます。
たとえば、『吾輩は猫である』は、文明開化の時代と人間社会を猫の視点で風刺した、漱石初の長編小説ですが、猫の飼い主で、漱石自身がモデルとされる珍野苦沙弥先生の狭くて古い日本家屋と、実業家の金田氏の広くて新しい洋館との落差を、猫がつぶやくシーンがあります。
漱石は、明治期に建てられた西洋館を「傲慢」、「能も無い構造」と形容し、当時、世間がありがたがっていた「近代化」や「西洋」を、猫の目を借りて批判しています。
(4)東大での講義が前任者の小泉八雲に比べて不評で嫌気がさした
漱石は1903年(明治36年)1月20日に英国留学から帰国しました。3月3日、東京の本郷区駒込千駄木町57番地(現在の文京区向丘2-20-7、千駄木駅徒歩約10分。現在は日本医科大学同窓会館。敷地内に記念碑あり)に転入しました。
1903年(明治36年)3月末、籍を置いていた第五高等学校教授を辞任し、同年4月、第一高等学校と東京帝国大学の講師となりました(年俸は高校700円、大学800円)。当時の一高校長は、親友の狩野亨吉でした。
東京帝大では小泉八雲の後任として教鞭を執りましたが、前任者であった八雲の、一度口を開けばたちまち教室全体を詩的空気に包み込み酔わせてしまうような講義に対し、漱石の分析的な硬い講義は不評で、学生による八雲留任運動が起こったり、不平不満を陰口にされて貶(けな)されるなどしました。川田順のように「ヘルン先生のいない文科に学ぶことはない」と法科に転じた学生もいました。
(5)大学で英文学論を極めるよりも、小説執筆による自己表現に興味を覚えた
大学で英文学論を講義しても、学生に理解されず不評であったことから、自身の文学理論を小説を通して多くの人々に知ってもらうこと、彼の個人主義の考え方(『私の個人主義』)を小説執筆によって自己表現することに興味を覚えたのではないかと私は思います。
具体的には近代社会と人間との関係性や人間の成長、恋愛や心の葛藤、倫理観とエゴイズムなど近代知識人が抱える問題を様々な角度から捉えて、巧みな心理描写と軽妙なユーモアを交えて描きました。そして、人間の本質や人生の意味を探究しました。
人間はある目的を以て、生れたものではなかった。これと反対に、生れた人間に、始めてある目的が出来て来るのであった。最初から客観的にある目的を拵らえて、それを人間に附着するのは、その人間の自由な活動を、既に生れる時に奪ったと同じ事になる。だから人間の目的は、生れた本人が、本人自身に作ったものでなければならない。
これは代表作の一つ『それから』からの引用ですが、漱石自身の人生観が如実に表れています。
(6)小説を通じて社会風刺・社会批判を目指した
漱石は若い頃の愛読書としてスウィフトの『ガリバー旅行記』を挙げています。『ガリバー旅行記』は日本では童話のように思われていますが、原書は痛烈な社会風刺小説です。
漱石は、明治新政府による「文明開化」「欧化政策」や「富国強兵」に批判的な考えを持っていましたので、スウィフトと同様に小説という手法によって社会風刺・社会批判をしたいと考えたのではないかと私は思います。
(7)小説の執筆などの創作活動を通じて神経衰弱からの脱却を試みた
これは高浜虚子の勧め通りとも言えますが、高浜虚子はほんの軽い気持ちで「先生、ひとつ気分転換に小説でも書いたらどうですか?」と言ったのではないかと私は想像します。
それを真面目な漱石は、「そうだ、小説を書くことによって神経衰弱が治るかもしれない。ひとつ実証実験をしてみよう」と真剣に受け止めて、小説を書き始めたのではないかと私は思います。
なお、高橋正雄氏の医学博士の学位論文「精神医学的にみた漱石文学 : 作品世界の病跡学的研究」には次のように書かれています。
漱石は、第I期(筆者注:20代)と第II期(筆者注:30代)とでほぼ同一内容の妄想を体験しつつも、それに対する反応は、松山行という逃避的なものから、千駄木に残って戦い抜くという戦闘的なものへと変化しており、その時彼の創作も、自らの「神経衰弱」体験を中心にすえた戦闘的なものへと変質している。そして、このような観点からすれば、あの『草枕』冒頭の「どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る」という一節も、漱石自身の心情と創作の秘密を開示したものであったことがわかるのである。
更に、第II期と第III期(筆者注:40代)を比較すると、第II期と第III期における「神経衰弱」の描き方には若干の相違がある。それは「神経衰弱」の原因に対する考え方で、第II期の作品では「神経衰弱」が文明開化によって引き起されるという考えを繰り返し述べているのに対し、第III期には,同じ「神経衰弱」的な人物を描きながら、文明開化への言及がほとんどなくなることである。即ち、第II期の漱石は、「神経衰弱」という問題を社会因的にのみ捉えていたのに対し、第III期では、個人の過去や性格といった内的因子を重視するようになっているのであって、こうした「神経衰弱」に対する認識の変化が、第II期の明るい文明批評的な作品から、第III期の暗い内面的な作品へという作風の変化に対応している。そしてそれと同時に、彼の描く幻聴的な体験が、空間的にも心理的にも自己由来性を意識したものになるなど、第III期における漱石の「神経衰弱」や自己に対する認識は、格段の深まりを見せている。
このように、創作活動を通じて「神経衰弱」からの脱却という一種の思考実験を試み、数々の優れた洞察をなしえた漱石であるが、彼自身は自らの第IIIの病期を予防することができず、彼の描いた「神経衰弱」者同様、遂にその病いから癒えることのないまま亡くなっている。しかし、漱石が「神経衰弱」の実態とその癒しの可能性を追求した過程は、直接的には彼の作品を通して、また、間接的には森田正馬(筆者注:精神科医で、神経質に対する精神療法である「森田療法」の創始者)に影響する形で、多くの人々の心を癒しているのであって、そこに文学と精神医学の幸福な結合の実例を見ることができる。また、漱石の作品は、その優れた表現と洞察力で、病者が何を考え、何を望み、また、周囲をどう見ているかといった、いわば病者の側から見た病いというものを教えてくれると同時に、そもそも精神障害を抱えながら偉大な創造をなしえた漱石という人間自体が、社会的差別や偏見に苦しむ病者の慰めとなりうる存在のように思われる。
なお漱石の考え方に関しては、『予の描かんと欲する作品』(談話筆記)『創作家の態度』(講演筆記)や『現代日本の開化(明治四十四年八月和歌山において述)』(講演筆記)、『作物の批評』『田山花袋君に答う』『自然を寫す文章』『写生文』『人生』『点頭録』『道楽と職業』『中味と形式(明治四十四年八月堺において述)』(講演筆記)『文芸と道徳』(講演筆記)『文芸とヒロイツク』『文芸の哲学的基礎』(講演筆記)『文芸は男子一生の事業とするに足らざる乎』(談話筆記)『文士の生活 夏目漱石氏-収入-衣食住-娯楽-趣味-愛憎-日常生活-執筆の前後』(談話筆記)『文壇の趨勢』(談話筆記)『模倣と独立』(講演筆記)も参考になると思います。
「青空文庫」のリンクを貼っておきましたので、興味をお持ちの方はぜひお読みください。
2.漱石の神経衰弱の原因
漱石の神経衰弱は、大学時代から始まっていますが、その後も病状を悪化させる原因になるような色々な出来事がありました。
(0)幼少期の複雑で不幸な家庭環境
実際の神経衰弱を発症したのは大学時代ですが、それ以前の幼少期の環境も影を落としているようです。
彼は8人兄弟の末子として生まれたことや実家の家運が傾きつつあったことも影響してか、彼の誕生はあまり歓迎されませんでした。
そのため、生まれてすぐに古道具屋(一説では八百屋ともいう)に里子に出され、その後1歳の時に塩原昌之助の家に養子に出されました。
その後、塩原昌之助の女性問題が原因で、7歳の時に一時生家に戻ったりしました。そして養父母が離縁した9歳の時に生家に戻りました。
このように幼少期、養家をたらい回しにされる複雑な家庭環境で生まれ育ったため、彼は神経質で精神的にも不安定な子供でした。
しかし、彼は非常に頭がよく、負けず嫌いな性格でした。
(1)近親者との相次ぐ死別と失恋もどきの事件と肺結核の発覚
1893年(明治26年)、漱石は帝国大学を卒業して高等師範学校の英語教師になりますが、日本人が英文学を学ぶことに違和感を覚え始めました。2年前の「失恋もどきの事件」(*)や翌年発覚する肺結核も重なり、極度の神経衰弱・強迫観念に駆られるようになりました。
(*)1887年(明治20年)3月に長兄・大助と死別、同年6月に次兄・夏目栄之助と死別し、さらに1891年(明治24年)に、三兄・夏目和三郎の妻・登世と死別しました。漱石は登世に恋心を抱いていたとも言われます。
その後、鎌倉の円覚寺で釈宗演の下に参禅をするなどして治療を図りましたが、効果は得られませんでした。
1895年(明治28年)、東京から逃げるように高等師範学校を辞職し、菅虎雄の斡旋で愛媛県尋常中学校(旧制松山中学、現在の松山東高校)に英語教師として赴任しました。
松山は子規の故郷であり、ここで2か月あまり静養しました。この頃、子規とともに俳句に精進し、数々の佳作を残しています。
赴任中は愚陀仏庵に下宿しましたが、52日間に渡って正岡子規も居候した時期があり、俳句結社「松風会」に参加し句会を開きました。これはのちの漱石の文学に影響を与えたと言われています。
(2)新婚当時の鏡子夫人のヒステリーと自殺未遂事件
1896年(明治29年)、熊本市の第五高等学校(熊本大学の前身)の英語教師に赴任しました(月給100円)。
親族の勧めもあり貴族院書記官長・中根重一の長女・鏡子と結婚しますが、3年目に鏡子は慣れない環境と流産のためヒステリー症が激しくなり白川井川淵に投身を図るなど順風満帆な夫婦生活とはいきませんでした。
家庭面以外では漱石は俳壇でも活躍し、名声を上げていきました。
(3)ロンドン留学時代の勉強のし過ぎと窮乏の不安や孤独
1900年(明治33年)5月、文部省より英語教育法研究のため(英文学の研究ではない)、英国留学を命じられ、9月10日に日本を出発しました。
最初の文部省への申報書(報告書)には「物価高真ニ生活困難ナリ十五磅(ポンド)ノ留学費ニテハ窮乏ヲ感ズ」と、官給の学費には問題がありました。
メレディスやディケンズをよく読み漁りました。大学の講義は授業料を「拂(はら)ヒ聴ク価値ナシ」として、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンの英文学の聴講をやめて、『永日小品』にも出てくるシェイクスピア研究家のウィリアム・クレイグ(William James Craig)の個人教授を受け、また『文学論』の研究に勤しみましたが、英文学研究への違和感がぶり返し、再び神経衰弱に陥り始めました。
「夜下宿ノ三階ニテツクヅク日本ノ前途ヲ考フ……」と述べ、何度も下宿を転々としました。このロンドンでの滞在中に、ロンドン塔を訪れた際の随筆『倫敦塔』が書かれています。
1901年(明治34年)、化学者の池田菊苗と2か月間同居することで新たな刺激を受け、下宿に一人籠って研究に没頭し始めました。その結果、今まで付き合いのあった留学生との交流も疎遠になり、文部省への申報書を白紙のまま本国へ送り、土井晩翠によれば下宿屋の女性主人が心配するほどの「驚くべき御様子、猛烈の神経衰弱」に陥りました。
1902年(明治35年)9月に芳賀矢一らが訪れた際には「早めて帰朝(帰国)させたい、多少気がはれるだろう、文部省の当局に話そうか」と話が出たためか、「夏目発狂」の噂が文部省内に流れました。
漱石は急遽帰国を命じられ、同年12月5日にロンドンを発つことになりました。帰国時の船には、ドイツ留学を終えた精神科医・斎藤紀一(斎藤茂吉の養父)がたまたま同乗していました。精神科医の同乗を知った漱石の親族は、これを漱石が精神病を患っているためであろうと、いよいよ心配したということです。
漱石はロンドン留学時代を「もっとも不愉快な2年間なり」と書き残す一方で、この経験が「余を駆って創作の方面に向かはしめた」とも書いています。
なお、漱石の留学中のことについては、『文学論』序に書かれていますので、ぜひご覧ください。
(4)教え子である旧制一高生・藤村操の投身自殺
また、ロンドン留学から帰国後に教師となった旧制一高での受け持ちの生徒に藤村操がおり、ある授業中に態度の悪さを漱石に叱責された数日後、華厳滝に入水自殺してしまい、それに伴い一高の生徒や同僚の教師達だけでなく、事件に衝撃を受けた知識人達の間で「漱石が藤村を死に追いやった」と謂われのない噂が囁かれることとなりました。なお漱石は、藤村に関し『草枕』の中で言及・批評を行っています。
こうした職場での風評被害に苛まれて苦悩した結果、とうとう漱石は神経衰弱が悪化し、授業中や家庭において頻繁に癇癪を起こしては暴れまわるようになり、欠席・代講が増え、妻とも約2か月別居しました。
1904年(明治37年)にはある程度落ち着きを取り戻し、明治大学の講師も務めました(月給30円)。
(5)元養父・塩原昌之助からの長年にわたる金の無心
漱石(本名・夏目金之助)は、江戸牛込の名主の夏目小兵衛直克・千枝夫妻の五男(8人兄弟の末子)として誕生しました。
父の直克は江戸の牛込から高田馬場までの一帯を治めていた名主で、公務を取り扱い、大抵の民事訴訟もその玄関先で裁くほどで、かなりの権力を持ち、生活も豊かでした。ただし、母の千枝は子沢山の上に高齢(41歳)で出産したことから「面目ない」と恥じたといわれています。
名の「金之助」は、生まれた日が庚申の日に当たり、この日に生まれた赤子は大泥棒になるという迷信があったことから厄除けの意味で「金」の字が入れられたものです。また、3歳頃には疱瘡(天然痘)に罹患し、このときできた痘痕は目立つほどに残ることとなりました。
金之助の祖父・夏目直基は道楽者で浪費癖があり、死ぬ時も酒の上で頓死したと言われるほどの人であったため、夏目家の財産は直基一代で傾いてしまいました。しかし父・直克の努力の結果、夏目家は相当の財産を得ることができました。
とはいえ、当時は明治維新後の混乱期であり、夏目家は名主として没落しつつあったのか、金之助は生後すぐに四谷の古道具屋(一説には八百屋)に里子に出されました。夜中まで品物の隣に並んで寝ているのを見た姉が不憫に思い、実家へ連れ戻したと伝わります。
金之助はその後、1868年(明治元年)11月、塩原昌之助のところへ養子に出されました。塩原は直克に書生同様にして仕えた男でしたが、見どころがあるように思えたので、直克は同じ奉公人の「やす」という女と結婚させ、新宿の名主の株を買ってやりました。
しかし、昌之助の女性問題が発覚するなど塩原家は家庭不和になり、金之助は7歳の時、養母とともに一時生家に戻りました。一時期、漱石は実父母のことを祖父母と思い込んでいたということです。
養父母の離婚により金之助は9歳のとき生家に戻りますが、実父と養父の対立により21歳まで夏目家への復籍が遅れました。このように、漱石の幼少期は波乱に満ちていました。
この養父には、漱石が朝日新聞社に入社してから、何度も金の無心をされるなど実父が死ぬまで腐れ縁が続きました。養父母との関係は、後の自伝的小説『道草』の題材にもなっています。
(6)門下生の不祥事の後始末や多くの弟子たちのお金の面倒を含む世話による心労
前述の通り、1908年(明治41年)には平塚明子(平塚らいてう)と栃木県塩原で心中未遂事件を起こした門下の森田草平の後始末にも奔走しました(塩原事件)。
漱石が有名になると、毎日のように彼を慕う若手の文学者や、かつての教え子たちが訪れるようになりますが、漱石は彼らを快くかつ 温かく迎えました。しかしその後小説家専業になると、仕事にも差し支えるほどになったので、毎週木曜に集う「木曜会」が開かれるようになります。やがて彼らは増長し、漱石夫妻に甘えることになったようです。
漱石夫妻は彼らの父親・母親代わりとして、物心両面から面倒を見ることがしばしばあったそうです。
漱石は経済的に苦しい立場にあるかつての教え子や門下生たちに、金銭的援助をすることも少なくなかったそうです。鏡子は漱石に言われた通りに、ポンと当時としてはかなりの額の金銭を貸与していました。
鏡子から金を借りることの多かった連中が、若者特有の反発心や大金を借りることへのバツの悪さから、鏡子悪妻説が生まれたとも言われています。ちなみに半藤一利の本によれば、門下生たちに貸した金の相当部分が「貸し倒れ」(借金の踏み倒し)となったそうです。
内田百閒のようにたびたび漱石から借金をしても、全く返済しないという不心得者もいました。
また、古本屋をやめて出版事業を始めたいという岩波茂雄の申し出に親身になって相談に乗ったりもしています。
なお、門下生に関しては、鏡子夫人の口述(松岡譲筆記)による『漱石の思い出』にも書かれてます。
3.漱石の幼少期から晩年までの写真
<6歳頃の漱石(1872年か1873年)>
<大学予備門(後の第一高等中学校)時代(1884年~1888年)の漱石>
<1891年(漱石の富士登山記念写真)>
<1892年(帝国大学時代の漱石)>
<1894年(高等師範学校教師時代の漱石)>
<1896年(愛媛県尋常中学校の英語教員時代の漱石)>
<第五高等学校教授時代(1896年~1903年)の漱石>
<1906年(千駄木邸書斎の漱石)>
<1907年(第一高等学校本館玄関前の漱石)>
<1912年撮影の肖像写真>
<1914年(漱石山房での漱石)>
<1915年(漱石山房での漱石)>