2024年NHK大河ドラマは「源氏物語」の作者である紫式部が主人公でそのパトロンでもあった藤原道長とのラブストーリーも含む「光る君へ」(主演・吉高由里子 作・大石 静)です。
2020年の「麒麟がくる」、2021年の「青天を衝け」、2022年の「鎌倉殿の13人」、2023年の「どうする家康」と力作・話題作が続くNHK大河ドラマですが、2024年の「光る君へ」も楽しみですね。
ところで、1月7日から始まった放送の中に「散楽(さんがく)」というアクロバットを織り混ぜた猿楽(さるがく)や狂言にも似た大衆的な風刺劇の見世物が出てきますね。
この「散楽」は主人公のまひろ(紫式部)と三郎(藤原道長)との出会いの場ともなっているのですが、その「散楽」のリーダーとおぼしき直秀(なおひで)という謎めいた人物も気になります。
<散楽の一員 直秀(なおひで)(演:毎熊 克哉)>
町辻で風刺劇を披露する散楽の一員。当時の政治や社会の矛盾をおもしろおかしく批判する。その自由な言動に、まひろ(紫式部)と藤原道長は影響を受ける。一方で、本性のわからない謎めいた男でもある。
そこで今回は、「散楽」についてわかりやすくご紹介したいと思います。
1.散楽とは
散楽(さんがく)は、奈良時代に大陸から日本に移入された、物真似や軽業・曲芸、奇術、幻術、人形まわし、踊りなど、娯楽的要素の濃い芸能の総称です。
日本の諸芸能のうち、演芸など大衆芸能的なもののルーツ(起源)とされています。
2.散楽の歴史
(1)移入期
起源は西域の諸芸能とされます。何世紀にもわたって、中央アジア、西アジア、アレクサンドリアや古代ギリシア、古代ローマなどの芸能が、シルクロード経由で徐々に中国に持ち込まれていきました。
それら諸芸の総称として、また、宮廷芸能である「雅楽(ががく)」に対するものとして、「一定の決まりのない不正規な音楽」の意で中国の隋代に「散楽」と名付けられたとされます。
しかし実際にはもっと古く、周や漢の時代には既に散楽と呼ばれる民間の俗楽(古散楽)が行われていたとも言われています。
後漢以降の時代には、火を吐く、刀を飲む、水に潜り魚の真似をするなどの奇抜な曲芸から、隋や唐では「百戯(ひゃくぎ)」とも称されました。
日本へは奈良時代に、他の大陸文化と共に移入されました。しかしそれより以前に、大陸から渡っていた可能性も否定できません。
日本における散楽の歴史を紐解く上で資料となるのは、それが宮中で行われていた時代の史書『続日本紀』や『日本三代実録』などです。
『続日本紀』には、天平7年(735年)に聖武天皇が、唐人による唐・新羅の音楽の演奏と弄槍の軽業芸を見たという記述があります。これが、散楽についての最初の記録とされます。
天平年間のいずれかに、雅楽寮に「散楽戸(さんがくこ)」が置かれ、朝廷によって保護される芸能となりました。
天平勝宝4年(752年)の東大寺大仏開眼供養法会には、他の芸能と共に散楽が奉納されました。
しかしその庶民性の強さや猥雑さからか、桓武天皇の時代、延暦元年(782年)に「散楽戸制度」は廃止されました。
(2)散楽戸廃止以降
「散楽戸制度」廃止以降、散楽師たちは、寺社や街角などでその芸を披露するようになります。
とはいえ宮中で全く演じられなくなったわけではありません。
平安時代になると、宴席で余興的に行われるようになりました。例えば『日本三代実録』によると、承和3年(837年)に仁明天皇が、弄玉、弄刀(今で言うジャグリングのような曲芸)の散楽を演じさせたとの記録があります。
他にも『日本三代実録』には、御霊会などの余興として散楽が演じられたとする記述があって注目されますが、中でも元慶4年(880年)に相撲節会の余興として演じられた散楽は、演者がほとんど馬鹿者のようで、人々を大いに笑わせたとあります。
現代の「コメディー(喜劇)」や「お笑い芸」と「サーカス(曲芸)」の源流のようですね。
当時の散楽師が曲芸だけでなく、今の狂言に通じる滑稽物真似的な芸もしていたことが窺える貴重な記録です。
散楽戸の廃止で朝廷の保護を外れたことにより、散楽は寺社や街頭などで以前より自由に演じられ、庶民の目に触れるようになっていきました。
そして都で散楽を見た地方出身者らによって、日本各地に広まっていきました。やがて各地を巡り散楽を披露する集団も現れ始めました。こういった集団は後に、猿楽や田楽の座に、あるいは漂泊の民である傀儡師(くぐつし)たちに、吸収あるいは変質していきました。
応和3年(963年)、村上天皇により、宮中では散楽の実演は全く行われなくなりました。
以降、散楽という言葉に集約される雑芸群は、民間に広まった様々な職業芸能に引き継がれていきます。
鎌倉時代に入ると、散楽という言葉もほとんど使われなくなりました。
(3)その後の系譜
散楽のうちの物真似芸を起源とする「猿楽」は、後に観阿弥、世阿弥らによって能へと発展しました。
曲芸的な要素の一部は、後に歌舞伎に引き継がれました。滑稽芸は狂言や笑いを扱う演芸になり、独自の芸能文化を築いていきました。
奇術は近世初期に「手妻(てづま)」となりました。
散楽のうち人形を使った諸芸は傀儡(くぐつ)となり、やがて人形浄瑠璃(文楽)へと引き継がれていきました。
このように、散楽が後世の芸能に及ぼした影響には計り知れないものがあります。