鎖国時代の異国船への備えはどんなものだったのか?わかりやすくご紹介します

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鎖国

現在、新型コロナウイルス肺炎(COVID-19)の世界的感染拡大(パンデミック)で、日本をはじめ各国は、一部で往来が徐々に解禁されていますが、基本的に「鎖国」状態です。

このようにコロナで世界中がその対応に追われている大変な時期にもかかわらず、というよりもそれを奇貨(きか)として中国は尖閣諸島周辺に連日軍艦を遊弋(ゆうよく)させて日本への威嚇を続け、東シナ海や南シナ海での軍事基地建設を一方的に進めています。

そこで今回は、「鎖国政策」をとっていた江戸時代の異国船への備え(海防政策)はどのようなものだったのかを振り返ってみたいと思います。

1.「鎖国」とは

「鎖国」とは、1633年から1639年にかけて数回に分けて出された「禁令」に基づき、江戸幕府がとった対外政策です。

「日本人の海外往来禁止」、「キリスト教禁制」、「朝鮮・琉球との外交関係および中国人・オランダ人との貿易関係以外の外国人の日本渡航禁止」による「孤立政策」です。

1639年(寛永16年)からペリーが来航した1853年(嘉永6年)まで200年余り続きました。

余談ですが、「鎖国」という言葉が使われたのは19世紀になってからで、江戸時代も終わりにさしかかった頃に作られた造語です。1801年にオランダ通詞(つうじ)の志筑忠雄(しづきただお)が、「鎖国論」という本を書いたのがそもそもの始まりです。この本は、17世紀末に日本にやって来たドイツ人医師ケンペルが著した「日本誌」の中の一章の翻訳文です。

幕末に開国を主導した井伊直弼は、「鎖国」のことを「閉洋之御法」と呼んでいました。

対外侵略の方針をとらなかった江戸幕府は、三代将軍徳川家光(1604年~1651年、在位:1623年~1651年)の時も「オランダと共同してのマニラ攻撃」にも消極的でしたし、17世紀半ばの明(みん)からの援軍要請にも、文書様式の不備を理由に拒絶しています。結局、明は1644年に滅亡しました。

2.鎖国時代の異国船への備え

(1)「遠見番所」の設置

ペリーが来航するまで、幕府は異国船への備えを全くしていなかったわけではありません。

「鎖国」はキリシタン禁令を大きな目的としていましたが、その政策の完成は、1637年~1638年に起きた「島原・天草一揆(島原の乱)」を契機とした1639年の「ポルトガル船追放」ではなく、ポルトガル船追放に伴う「沿岸防備体制の構築」でした。

それを端的に示すのが、九州・四国・中国地方の海が遠く見渡せる所に築かれた「遠見番所(とおみばんしょ)」です。

1638年には長崎の野母崎に「遠見番所」が設置されましたが、本格化したのは1640年に貿易再開を嘆願しに来たマカオからのポルトガル人61人を斬罪に処してからです。

(2)ポルトガル・イスパニアの報復攻撃に備える防備体制

この時、幕府は、ポルトガル・イスパニア両国の報復攻撃を想定し、関係諸大名に領内の各所に「遠見番所」を設置することを命じ、もしポルトガル船を見たら即座に島原藩主の高力忠房および長崎奉行に通報し、さらに大坂や隣国にも通報することを命じています。

この命令を受けた熊本藩主の細川忠利は早船数十艘を用意するとともに多数の水夫を雇い入れました。

福岡藩の黒田忠之も、領内5カ所に「遠見番所」を設け、それぞれの場所に番の武士を置き、番船を出して毎日巡検させています。これは九州諸大名に多大の負担をかけた沿岸防備体制でした。

しかし、この防備体制は、キリシタン宣教師の潜入に関しては威力を発揮しました。1642年、薩摩の下甑島でイタリア人宣教師アントニオ・ルビノらの一団を捕縛し、翌1643年には、ルソンから潜入しようとしたポルトガル宣教師・日本管区長ペドロ・マルケスらの一団を筑前大島で捕縛しています。

そして、1647年には、ポルトガル大使の乗った二隻の軍船来航に際しては九州の諸大名が長崎に集合して湾内封鎖を行うなどその防備体制が発動されています。

18世紀初頭、中国船の密貿易が盛んになった時には、「唐船打ち払い令」が出され、実際に唐船を撃沈などしています。

(3)林子平の「海国兵談」は危険視

江戸中期の経世家林子平(1738年~1793年)は、海外事情に通じ、1786年~1791年にかけて「海国兵談」全16巻を刊行して海防の必要性を説き、また「三国通覧図説」では蝦夷地の開拓を説きました。しかし幕府はこの警世の書を取り上げるどころか、危険視しました。

1792年幕府の忌諱(きき)に触れ、「世論を惑わし、体制を揺るがす危険な書として発禁処分となり板木(はんぎ)も没収され在所(仙台)蟄居を命じられました。その後江戸に送られて禁錮に処せられました。

(4)「異国船打ち払い令」

そしてはるか後の1808年に長崎港で起きたイギリス軍艦侵入事件(フェートン号事件)や、1824年に起きた「大津浜事件」と「宝島事件」を契機として、1825年に「異国船打ち払い令」を出すなど、江戸幕府全体が「積極的海防論」に傾いて行きます。

幕府は海防を強化して鎖国を維持しようとしましたが、1840年~1842年の「アヘン戦争」で清がイギリスに敗北したことや、アメリカの軍艦(黒船)の脅威を見せつけられたことから、「開国方針」に転じました。