明治時代の「お雇い外国人」(その16)アリス・メイベル・ベーコンとは?

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アリス・ベーコン

幕末から明治にかけて、欧米の技術・学問・制度を導入して「殖産興業」と「富国強兵」を推し進めようとする政府や府県などによって雇用された多くの外国人がいました。

彼らは「お雇い御雇外国人」(あるいは「お抱え外国人」)と呼ばれました。

当時の日本人の中からは得がたい知識・経験・技術を持った人材で、欧米人以外に若干の中国人やインド人もいました。その中には官庁の上級顧問だけでなく単純技能者もいました。

長い鎖国時代が終わり、明治政府が成立すると、政府は積極的にアメリカ、ヨーロッパ諸国に働きかけて様々な分野の専門家を日本に招き、彼らの教えを受けて「近代化」を図りました。

当時の日本人にとって、「近代化」とはイコール「西洋化」のことでした。その結果、1898年頃までの間にイギリスから6,177人、アメリカから2,764人、ドイツから913人、フランスから619人、イタリアから45人の学者や技術者が来日したとされています。

彼らは「お雇い外国人」などと呼ばれ、本格的な開拓が必要だった北海道はもちろん、日本全国にわたって献身的に日本に尽くし(中には傲慢な人物や不埒な者もいたようですが)、政治・経済・産業・文化・教育・芸術など多くの分野で日本の「近代化」に貢献するとともに、日本人の精神に大きな影響を与えました。

主にイギリスからは「鉄道開発・電信・公共土木事業・建築・海軍制」を、アメリカからは「外交・学校制度・近代農業・牧畜・北海道開拓」などを、ドイツからは「医学・大学設立・法律」など、フランスからは「陸軍制・法律」を、イタリアからは「絵画や彫刻などの芸術」を学びました。

そこで、シリーズで「お雇い外国人」をわかりやすくご紹介したいと思います。

第16回はアリス・メイベル・ベーコンです。

1.アリス・メイベル・ベーコンとは

アリス・ベーコン

アリス・メイベル・ベーコン(Alice Mabel Bacon)(1858年~1918年)は、アメリカ人女性教育者で、明治期に招聘され日本の女子教育に尽力した女性です。

彼女の著書『日本の内側』やその後に著した『日本の女性』(日本語訳題『明治日本の女たち』)は明治時代の日本の女性事情を偏見無く書いた史料として貴重であり、ルース・ベネディクトが『菊と刀』を執筆するときに参考文献としたそうです。

ちなみに『日本の女性』の前書きには「生涯の友人・大山捨松に捧げる」という一文が添えられ、捨松とは死ぬ直前まで文通を交わしていました。

2.アリス・メイベル・ベーコンの生涯

(1)生い立ち

彼女の父はコネチカット州ニューヘイブンの牧師のレオナルド・ベーコン、母はキャサリンです。キャサリンは後妻で、アリスは14人兄弟の末娘でした。

父・レオナルドは牧師のほかイェール大学神学校の教師も務め、「南北戦争」(1861年~1865年)の時、いち早く奴隷制に反対する論陣を張るなど、人望が厚い地元の名士でした。

レオナルド家は子沢山であったため、生活は非常に苦しかったそうです。1872年、日本から来た女子留学生の下宿先を探していた森有礼の申し出に応じて山川捨松(後の大山捨松)を引き取ったのは、日本政府から支払われる多額の謝礼が目当てだったと言われています。

しかし、レオナルド夫妻は捨松を娘同様に扱い、特に年齢の近かったアリスとは姉妹のように過ごしました。

アリスは地元の高校ヒルハウス・ハイスクールを卒業したものの、経済的な事情で大学進学をあきらめました。しかし1881年に、ハーバード大学の学士検定試験に合格して学士号を取得、1883年にハンプトン師範学校正教師となりました。

(2)日本へ

1884年大山捨松津田梅子の招聘により華族女学校(後の学習院女学校)英語教師として来日しました。来日中の1年間の手紙をまとめたものを1894年『日本の内側』(日本語訳題『華族女学校教師が見た明治日本の内側』)として出版し、反響を呼びました。

帰国後はハンプトン師範学校校長となりましたが、1900年4月、大山捨松と津田梅子の再度の招聘により東京女子師範学校(現・お茶の水女子大学)と津田梅子が建てた女子英学塾(現・津田塾大学)の英語教師として赴任、1902年4月に任期満了で帰国するまで貢献しました。女子英学塾では無報酬で教師を務め、梅子と同様に塾に住み込んで塾に「家賃」を支払い、資金難に苦しんでいた塾の経営を助けました。

下の写真は、左から津田梅子、アリス・メイベル・ベーコン、瓜生繫子、大山捨松で、ベーコンが来日時に撮ったものです。

津田梅子、アリス、瓜生繁子、大山捨松

(3)帰国後

帰国後も教育に身を捧げ、一生独身でした。ただし、渡辺光子と一柳満喜子(ひとつやなぎまきこ)という2人の日本女性を養女としました。一柳満喜子は女子英学塾の教師になることを期待されましたが、帰国後ウィリアム・ヴォーリズと結婚しました。

3.(ご参考)アリス・メイベル・ベーコンの養女の一柳満喜子とは

一柳満喜子

一柳満喜子(ひとつやなぎ まきこ)(1884年~1969年)は、アリス・メイベル・ベーコンの養女のキリスト教教育者です。近江兄弟社で知られるウィリアム・メレル・ヴォーリズの妻で、近江兄弟社学園の学園長を務めました。

ヴォーリズ夫妻

兵庫県加東郡小野町(現・兵庫県小野市)の元播磨小野藩主、維新後は貴族院議員となった一柳末徳子爵の三女として誕生。神戸女学院音楽部卒。

単身で渡米する旅の途中でハワイ・オハウ大学長のグリフィス氏の勧めもあり、日本で最初の女子留学生・津田梅子が卒業し東洋女性のための奨学金制度を持っていたペンシルベニア州の名門校ブリンマー大学に学びました。

その後アリス・メイベル・ベーコンの教育実践活動に参加しました。留学中の1910年、ブリン・マー長老教会で洗礼を受けました。

母・栄子は幼いころに他界しましたが、満喜子が通った築地のミッション系の櫻井女学校(現・女子学院)幼稚園の矢嶋楫子や宣教師たちの影響もあり日本で最初に洗礼を受けた四人の華族婦人の一人でした。

栄子は矢嶋楫子が日本基督教婦人矯風会が太政官に「一夫一婦制」を訴えた運動に同道するなどの活動をしました。

父・末徳は上京して慶應義塾に学び、そこでジェームス・カーティス・ヘボンやフルベッキらから西洋事情だけでなくキリスト教にも関心を抱きました。

1919年(大正8年)、次兄・広岡恵三(加島銀行、大同生命、大阪電気軌道社長)の自宅設計に設計者として招かれていた建築家ヴォーリズと運命的な出会いがあり、広岡浅子の後押しもあって結婚。

ヴォーリズの主宰する近江ミッションに加わり、結婚後は近江八幡で生涯を過ごしました。またヴォーリズと共に海外の宣教団体との交流をしました。戦後米国の女流作家グレース・ニース・フレッチャーが満喜子に取材して書き下ろした『Bridge of Love』は米国でも広く読まれました。

また昭和天皇の依頼により親王たちの家庭教師として招かれたエリザベス・ヴァイニング夫人とも交流がありました。

彼女が地元の未就学児童を対象として始めた「プレイ・グラウンド」は「清友園幼稚園」となり、今日の近江兄弟社学園へと発展。欧米の各種教育理論を研究し、そこから独自の教育実践理論を展開、「神中心の信仰による自己統制力のある人間の育成」を目指しました。

1969年(昭和44年)、ヴォーリズの死から5年後に死去。二人は共に同市北之庄町の恒春園に葬られました。夫婦の間に子供はありませんでした。

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