エモい古語 物語(その5)禅 喫茶去・野狐禅・玄玄・殺仏殺祖・拈華微笑・本来無一物

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喫茶去

前に「エモい古語辞典」という面白い辞典をご紹介しました。

確かに古語は現代の我々が普段あまり使わない言葉ですが、繊細な情感を表す言葉や、感受性豊かで微妙な感情を表す言葉、あるいはノスタルジーを感じさせたり、心を動かされる魅力的な言葉がたくさんあります。

そこで「エモい古語」をシリーズでご紹介したいと思います。

1.禅

・喫茶去(きっさこ):「まあお茶でも飲みなさい」という意味の禅語。唐の禅僧・趙州禅師(じょうしゅうぜんじ)が、訪ねてきた修行僧たちに「この寺に来たことはあるか?」と聞き、来たことがないと答えた人にも来たことがあると答えた人にも「喫茶去」と返した話から。

「喫茶去」の現代語訳は、書き下し文が「茶を喫して去れ」となり、以下のようになります。「お茶を飲んで去りなさい」

しかし現在では、「去」を強調の助詞として解釈し「去る」の意味でとらず、以下のような柔らかい取り方もされています。「どうぞお茶を飲んでください」

禅の世界をはじめ、仏教の世界で修行する者の重要なテーマとして、「分け隔てすることをなくす」ということがあります。仏教の世界では、分け隔てをする心から、多くの不幸が生まれてくると考えます。

普通は、人に対しても、親しい人への思い・初めて会う人への思いでは差があるものです。しかし、趙州は誰にでも同じように「お茶を飲んで去りなさい」と言いました。そんな趙州の姿には、「分け隔てする心」を乗り越えた姿が描かれているのです。

・魔境(まきょう):禅の修行中、幻覚が見えたり、自分はスゴイと思い込んでしまったりする状態。

・野狐禅(やこぜん):よくわかっていないのに、禅の悟りを開いたかのようにふるまう者。「野狐」とは、低級な妖狐の一種。

・玄玄(げんげん):計り知れないほど深遠な悟り。

・一隻眼(いっせきがん/いっせきげん):一般的には片目を意味しますが、禅語の場合は二つの目とは違う、真実を見抜くもう一つの目を意味します。

・乾屎橛(かんしけつ):乾いた棒状の糞。「無門関(むもんかん)」に登場する、「仏とは何か」に対する雲門禅師の回答。

・黒漫漫(こくまんまん):あたり一面漆黒の闇。智慧の光が差し込まない、全く無知の状態。(出典「臨済録」)

・吹毛剣(すいもうけん):刃の上に吹きかけられた毛も一瞬で切れるという名剣を意味する禅語。転じて、煩悩や妄想を断ち切る智慧を表します。

・塗毒鼓(ずどっこ):毒を塗った鼓。この音を聞いた者はみな死ぬとされます。同じように、涅槃経を聞いた者は貪欲や迷妄を滅することができるというたとえ。(出典「大般涅槃経」)

・也太奇(やたいき):奇妙!不思議!と感嘆するときの言葉。洞山良价禅師(とうざんりょうかいぜんじ)の言葉。

也太奇、也太奇  無情説法不思議なり 若(も)し耳を将(も)って聴かば終(つい)に会(え)し難(がた)し
眼処(げんしょ)に時を聞いて、方(まさ)に知るを得ん(出典:五灯会元)

(意味:ああ不思議だ、不思議だ。「無情説法」は実に不思議だ。耳で聴いたのではその無情説法を理解することはできない。眼で「聞いて」はじめて、その意味が理解できるのだ)

・殺仏殺祖(さつぶつさっそ):「臨済録」の一節「逢仏殺仏逢祖殺祖」(仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺せ)から生まれた禅の教え。

どのような尊い教え、尊い存在であってもやみくもに崇拝するのではなく、全てを疑い、自分だけの物の見方を確立せよということ。

この言葉は、全く宗教を信じない私でも共感を覚える教えです。「世間の評判」や「専門家の鑑定評価」を鵜呑みにせず、全て疑ってかかった上で、自分なりの判断基準・価値基準(「プリンシプル」)を持って物事を判断すべきだということで、「科学する心」に通じるものでもあります。要するに「自分の頭で考えよ」ということです。

・大死底人(だいしていのひと):完全に死に切った人。現世へのあらゆる執着を捨てて死に切った人のほうが生き生きとしているのはなぜか?という禅問答に登場する言葉。

・拈華微笑(ねんげみしょう):言葉を使わなくても心が通じ合うこと。「拈華」は花をひねること。釈迦が一本の花をひねって見せた意味をひとりだけ悟った弟子が微笑したという故事から。

・炎天の梅花(えんてんのばいか):現実には見られないものだが、悟りによって心の眼で見えるようになるもの。禅の悟りの境地。

・不立文字(ふりゅうもんじ):悟りの境地は文字では伝わらず、心を通じて伝えるものだという禅宗の根本的な考え方。

・桂花露香(けいかつゆかぐわし):キンモクセイ(金木犀)はそこに宿る露までかぐわしい。転じて、ストイックに自分を磨いた人の行いは、どんなに些細なものでも魅力があるということ。

・牡丹花下眠猫児(ぼたんかかすいびょうじ):牡丹の花の下に眠っていた子猫が人の気配を感じて起きて逃げてしまった。この猫は寝ていたのか、寝ているふりをしていたのか、と問う禅問答。

・銀河落九天(ぎんがきゅうてんよりおつ):李白の詩「望廬山瀑布(廬山の瀑布を望む)」の一節。天の川が大空から落ちてきたと思えるくらい偉大な自然の風景の描写。

日照香炉生紫煙 遥看瀑布掛長川 飛流直下三千尺 疑是銀河落九天

日は香炉を照らして紫煙を生ず 遥かに看る瀑布の長川(ちょうせん)を掛くるを 飛流直下三千尺 疑うらくは是れ銀河の九天より落つるかと

(意味:太陽は香炉峰を照らし、赤紫色の霧が立ち上っている。離れたところから見ると、滝が長い川を立てかけたかのように流れ落ちている。滝の水は飛ぶかの如く三千尺を真っ逆さまに落ちていく。もしかしたらこれは銀河の真上から落ちてきているのではあるまいか?)

銀河落九天

・宇宙無双日 乾坤只一人(うちゅうにそうじつなく けんこんただいちにん):天に二つの太陽がないように、この宇宙の中であなたという人は一人しかいない、という意味の禅語。

・出頭天外呵呵笑(てんがいにしゅっとうしてかかとわらう):大宇宙の外で大笑いする。

松竹新喜劇を旗揚げし、藤山寛美とともに一世を風靡した二代目渋谷天外(1906年~1983年)という喜劇役者・劇作家(ペンネームは「舘直志(たてなおし)」)がいましたね。天外という芸名は、ひょっとするとこの禅語から取ったのかもしれません。

・電光影裏斬春風(でんこうえいりにしゅんぷうをきる):稲妻が春風を斬っても斬れないように、人生を悟った者の魂を奪うことはできない。中国宋の僧・無学祖元が座禅中に元の兵士に襲われた時に発した言葉と伝えられます。

・心月孤円 光呑万象(しんげつはひとりまどかにして ひかりはばんしょうをのむ):心の月は欠けることなく輝き、全てのものを包みこんでいる。中国の盤山禅師の詩で、「正法眼蔵(しょうほうげんぞう)」でも紹介されている有名なフレーズ。

・本来無一物(ほんらいむいちもつ):もともと実体などない、事物は全て空(くう)であるということ。

・無無無無無(むむむむむ):「子犬に仏性はあるか」(「狗子仏性(くしぶっしょう)」という禅の公案に対し、無の字五つを重ねて一句とし、さらにこれを四つかさねて四句を作って答えようとしたもの。

・夢の如くに相似たり(ゆめのごとくにあいにたり):夢でも見ているかのようだ。南泉禅師の「時人此の一株の花を見ること、夢の如くに相似たり」(意味:いまどきの人は花を見るときも真実の姿を見ず、既知の概念にあてはめて夢を見るようにしか見ない)というフレーズから。