吉田松陰と言えば幕末の長州藩士で、私塾「松下村塾」において多くの下級武士の俊秀を指導し、明治維新の精神的指導者となった人ですが、私が以前から気になっていることがあります。
それは、頭脳明晰な彼がなぜ無謀な「密航」を企てたのかということです。結局彼は密航に失敗して幕府に捕らえられ国許蟄居となった後、老中間部詮勝暗殺を画策したとして「安政の大獄」に連座して死罪となりました。
1.吉田松陰と松下村塾
吉田松陰(1830年~1859年)は、長州藩士杉百合之助の次男ですが、叔父で山鹿流兵学師範である吉田大助の養子となり、兵学を修めます。叔父の死去した後、同じく叔父の玉木文之進が開いた松下村塾で指導を受けます。9歳で明倫館の兵学師範となり、11歳で藩主毛利慶親への御前講義を行うなど早熟の天才ぶりを発揮しています。
しかし、アヘン戦争(1840年~1842年)で清がイギリスに大敗したことを知って、山鹿流兵学が時代遅れであることを痛感し、西洋兵学を学ぶために1850年に九州に遊学し、ついで江戸に出て佐久間象山・安積艮斎(あさかごんさい)に師事しました。
1853年にペリーが浦賀に来航すると、師の佐久間象山と黒船を遠望観察し、西洋の先進文明に強く心を打たれます。
その後、師の勧めもあって「外国留学」を決意し、同郷で足軽の金子重之輔と共に長崎に寄港していたロシア軍艦に乗り込もうとしましたが、ヨーロッパで勃発したクリミア戦争(1853年~1856年)にイギリスが参戦したことから予定を繰り上げて出航していたために、果たせませんでした。
1854年にペリーが日米和親条約締結のため下田に来航した際に、金子重之輔と二人で小舟で旗艦ポータハン号に漕ぎ寄せ乗船しました。しかし「渡航」は拒否され小舟も流されたため、下田奉行所に自首します。
幕府の一部には、この時佐久間象山と吉田松陰を死罪にしようとする動きもありましたが、川路聖謨(かわじとしあきら)の働きかけで老中の松平忠固や老中首座の阿部正弘の反対により助命され、国許蟄居となり萩の野山獄に幽囚されます。
1855年に出獄を許され、杉家に幽閉の処分となります。1857年に叔父が主宰していた松下村塾の名を引き継ぎ、杉家の敷地内に「松下村塾」を開きます。
そこで、久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山県有朋、前原一誠など、のちの明治維新で重要な働きをする多くの若者を指導し、大きな思想的影響を与えました。
松下村塾は一方的に師匠が弟子に教えるものではなく、松陰が弟子と一緒に意見を交わしたり、文学だけでなく登山や水泳を行う「生きた学問」をするものだったそうです。
2.吉田松陰の思想
(1)一君万民論
「天下は万民の天下にあらず、天下は一人の天下なり」と主張し、「日本は天皇が支配するもので、天皇の下に万民は平等になる」という考え方です。民主主義の観念はありません。
(2)飛耳長目(ひじちょうもく)
塾生にいつも、「情報を収集し、将来の判断材料にせよ」と説きました。自身も東北から九州まで足を延ばし、各地の動静を探っています。萩の野山獄に監禁後は弟子たちから情報を収集しており、長州藩に対しても主要な藩に情報探索者を送り込むことを進言しています。
(3)草莽崛起(そうもうくっき)
「草莽」は草木の間に潜む隠者を指し、転じて一般大衆を指しています。「崛起」は一斉に立ち上がることを指し、「在野の人よ、立ち上がれ」という意味です。
(4)対外思想
北海道の開拓、琉球の日本領化、李氏朝鮮の日本の属国化、満州・台湾・フィリピンの領有を主張しています。
(5)陽明学の影響
彼は王陽明が創始した「知行合一」「致良知」の陽明学に感化され、自ら行動を起こして行きました。陽明学者で「大塩平八郎の乱」を起こした大塩平八郎も、彼に影響を与えたと考えられます。
3.密航の動機
密航の動機については「幽囚録」に彼自身が記しています。
(1)かつて勢いが盛んであった皇朝が、蒙古襲来など古来三度の変動で「外国人の前に膝を屈し、首を垂れてそのなすがままに任せている現状」を嘆き、国勢の衰えを危惧
現状のままでは、日本は清と同じように欧米列強の餌食となるという危機感だと私は思います。
(2)下田のアメリカ軍艦密航については、「机上の空論に走り、口先だけで論議する者たちに与(くみ)することはできず、黙って座視していることはできないので、やむにやまれぬ」行動だった
自分が今行動を起こさなければ、幕府はもとより長州藩も目を覚まさないという焦燥感だと私は思います。
(3)なお、外患打開の方策として彼は、「京都の近くで地の利があるのは伏見であり、ここに大きな城を作って幕府を置き、京都を守るべきである」と主張しています。
そのほか、「兵学校の設置」「艦船の建造」「参勤交代の艦船利用」「蝦夷地の開拓」などの提言をしています。
4.辞世
彼の辞世のひとつは「親思ふ心にまさる親心 けふの音づれ何と聞くらん」です。これは肉親に宛てた「永訣の書」という手紙の文頭にある歌です。
もうひとつは「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも 留(とど)め置かまし大和魂」です。これは門弟たちへの遺書「留魂録」にある歌です。