2019年6月でサラリーマンを完全リタイアしてから、取り留めもないことをあれこれと考える毎日ですが、最近、「江戸時代の庶民の生活はどんなものだったのか?」という疑問に突き当たったので、関連のありそうな本やネット上の記事を拾い読みしてみました。
その結果、「江戸時代の庶民は案外幸福だった」という結論に達しましたので、それについてご紹介したいと思います。
1.江戸時代の人々の暮らし
私は「池波正太郎の歴史小説」が好きなことは前に記事に書きました。現代のように「科学技術の進歩のスピードが高速で目まぐるしい変化の時代」、「ロシア・中国・北朝鮮などによる軍事的侵略や挑発に晒される厳しい国際政治情勢の時代」とは異なり、江戸時代の日本は封建社会で厳しい身分制度の下にあって不自由な面が多かったとはいえ、「鎖国政策」のおかげで、「太平の眠り」を満喫していたように見えます。
また、人間関係においても、現代のようなギスギスしたところは少なく、落語によく出て来る「貧乏長屋での人情味豊かな生活」だったのではないかと思います。各人の生活が隣人に筒抜けで「プライバシー」が守られないというマイナス面もあったでしょうが・・・
現代は、「職業選択の自由」があるので、親の職業を継ぐという人は一部を除いてあまりないと思いますが、江戸時代は家業を継ぐ(武士の子は武士、農民の子は農民、職人の子は職人、商人の子は商人)のが当たり前でしたから、迷いもなかったと思いますし、現代のように自分がなりたい職業に就けなくて「挫折」を味わうこともなかったでしょう。これはある意味で幸福なことだと思います。
また、現代は多くの若者が東京や大阪などの大都市を目指しますが、江戸時代はそれぞれの生まれ故郷を離れることもなく、故郷で一生を終えるという庶民も多かったと思います。
そして、旅行と言っても、一生に何回か「お伊勢参り」をしたり、富士講で「富士登山」をしたりするくらいだったのでしょう。
春の花見や夏の蛍狩り、秋の紅葉狩りなど四季の自然を愛(め)で、隣人たちと平和に暮らし、礼節を重んじていたのでしょう。また、モノを大切にし、知恵と工夫で日々の生活を楽しんでいたのではないかと想像します。
「足るを知る者は富む」ということわざがありますが、江戸時代の庶民の生活は、良い意味で「足るを知る生活」だったのではないかと思います。現代のように便利な道具や機械はありませんでしたが、江戸時代の人はそんな物を知りませんので、「不便を感じる」ということもありませんでした。
私が子供だった「昭和30年~36年頃」も、前に記事に書きましたが、テレビや洗濯機や冷蔵庫もない、ましてやマイカーもない貧しい時代でしたが、楽しかったように思うのと似ています。
2.産業革命後のイギリスなどのヨーロッパの労働者階級の貧困状態
上に述べたような日本の江戸時代の庶民に比べて、同じ18世紀半ばから19世紀にかけて「産業革命」が起こったイギリスをはじめとするヨーロッパ諸国の庶民は、「労働者階級」や「貧困層」として、過酷な労働環境に置かれ、疲れ果てていたようです。
そういう「資本主義体制」下での「資本家階級」対「労働者階級」という対立の構図が、カール・マルクスに資本論を書かせ、科学的社会主義や共産主義の思想を育むことになりました。
3.江戸時代の庶民は案外幸福だった
ネットのメールマガジン「国際派日本人養成講座」で、「江戸時代の庶民は幸福だった」という面白い記事を見つけました。これは、江戸時代から明治時代に来日して当時の庶民の様子をつぶさに見た外国人の率直な感想をまとめたものです。
当時の日本の庶民の様子が生き生きと印象的に描かれています。少し長いですが、転載させていただきます。
黒船によって武力でむりやり日本を開国させたアメリカが、初代駐日公使として送り込んだのが、タウンゼント・ハリスだった。ハリスは安政4(1857)年11月、初めての江戸入りをすべく、下田の領事館を立った。東海道を上って神奈川宿を過ぎると、見物人が増えてきた。その日の日記に、彼はこう書いている。
彼らは皆よく肥え、身なりもよく、幸福そうである。一見したところ、富者も貧者もない。—-これが恐らく人民の本当の姿というものだろう。私は時として、日本を開国して外国の影響を受けさせることが、果たしてこの人々の普遍的な幸福を増進する所以であるかどうか、疑わしくなる。私は質素と正直の黄金時代を、いずれの国におけるよりも多く日本において見出す。生命と財産の安全、全般の人々の質素と満足とは、現在の日本の顕著な姿であるように思われる。
ハリス江戸入りの当日、品川から宿所である九段坂下の蕃書調所までの間に、本人の推定では18万5千人もの見物人が集まったという。その日もこう書いている。人々はいずれも、さっぱりしたよい身なりをし、栄養も良さそうだった。実際、私は日本に来てから、汚い貧乏人をまだ一度も見ていない。幕末から明治にかけて、日本を訪れた外国人がほとんど異口同音に語っているのは、日本人がいかにも幸福そうであったという点である。
明治17(1884)年頃からしばしば来日した米国の女性旅行家イライザ・シッドモアは、鎌倉の浜辺でのこんな光景を描写している。ハリスも下田から江戸に上る道中で、似たような光景を見たのではないか。
日の輝く春の朝、大人は男も女も、子供らまで加わって海藻を採集し、砂浜に広げて干す。・・・漁師のむすめたちが脛(はぎ)を丸出しにして浜辺を歩き回る。藍色の木綿の布きれをあねさんかぶりにし、背中に籠(かご)をしょっている。子供らは泡立つ白波に立ち向かったりして戯れ、幼児は砂の上で楽しそうにころげ回る。・・・婦人たちは海草の山を選別したり、ぬれねずみになったご亭主に時々、ご馳走を差し入れる。あたたかいお茶とご飯。そしておかずは細かにむしった魚である。こうした光景すべてが陽気で美しい。だれもかれも心浮き浮きとうれしそうだ。熱いお茶とご飯とむしった魚が「ごちそう」というから、決して物質的に豊かではないが、「だれもかれも心浮き浮きとうれしそう」に生活できる社会だったのだ。
日本を訪れた西洋人たちが、日本人の幸福な生活ぶりに驚いているのは、当時の欧米社会と比較してのことであろう。たとえば、フリードリッヒ・エンゲルスは19世紀中葉のイギリスの貧民街の有様を次のように描写している。貧民にはしめっぽい住宅が、すなわち床から水のはいあがってくる地下室か、天井から雨の漏ってくる屋根裏部屋が与えられる。・・・貧民には粗悪で、ぼろぼろになった、あるいはなりかけの衣服と、粗悪で混ぜものをした、消化のわるい食料品が与えられる。・・・貧民は野獣のようにかりたてられ、休息も、安らかな人生の享楽も許されない。工場主は子供を、たいていは8歳ないし9歳から、使い始めること、また毎日の労働時間はしばしば14時間ないし16時間(食事のための休み時間を除く)に及んでいること、また工場主は、監督が子供をなぐったり虐待したりするのを許していたどころか、しばしば自分でも実際に手をくだしていたことが語られている。
当時、来日した欧米人はみな母国におけるこのような悲惨な下層階級の生活ぶりを知っていたはずだ。それに比べれば、海岸で大人も子供を一緒に海藻集めにいそしんでいる日本の庶民の光景は、いかにも幸せそうに見えたはずである。
明治10年代に東京大学のお雇い教授を務めたアメリカの動物学者・エドワード・モースは、日本とアメリカの貧困層を比べて、次のように書いている。
「実際に、日本の貧困層というのは、アメリカの貧困層が有するあの救いようのない野卑な風俗習慣を持たない」。日本にも雨露を凌ぐだけという家々が立ち並んでいるが、しかし「そのような小屋まがいの家に居住している人々はねっから貧乏らしいのだが、活気もあって結構楽しく暮らしているみたいである」欧米では、貧乏人はスラム街に押し込められ、悲惨と絶望の中で生きていくしかないが、日本では貧しくとも幸福に暮らしている人々がいる、というのが、彼らの驚きであった。どうしてそんな事が可能になるのか?
英国公使ヒュー・フレーザーの妻メアリは明治23(1890)年の鎌倉の海岸で見た光景をこう描写している。
美しい眺めです。—-青色の綿布をよじって腰にまきつけた褐色の男たちが海中に立ち、銀色の魚がいっぱい踊る網を延ばしている。その後ろに夕日の海が、前には暮れなずむビロードの砂浜があるのです。
さてこれからが、子供たちの収穫の時です。そして子供ばかりでなく、漁に出る男のいないあわれな後家も、息子をなくした老人たちも、漁師のまわりに集まり、彼らがくれるものを入れる小さな鉢や籠をさし出すのです。そして、食用にふさわしくとも市場に出すほどの良くない魚はすべて、この人たちの手に渡るのです。・・・物乞いの人にたいしてけっしてひどい言葉が言われないことは、見ていて良いものです。そしてその物乞いたちも、砂浜の灰色の雑草のごとく貧しいとはいえ、絶望や汚穢(おわい)や不幸の様相はないのです。「あわれな後家」も「息子をなくした老人たち」も、このように思いやりのある共同体の中でしっかり守られて、その平等な一員として生きて行けた。この思いやりと助け合いこそが、貧しくとも幸せに暮らせた理由であろう。
海辺に住む漁師たちは海の恵みを共有しているから、こういう分かち合いも可能になるのだが、町中に住む人々の暮らしはどうか。明治11(1878)年に、東北地方から北海道、その後関西地方を日本人通訳一人を連れて旅したイギリスの女性旅行家イザベラ・バードは、奈良県の三輪で、3人の車夫から自分たちを伊勢の旅に雇って欲しいと頼まれた。推薦状も持っていないし、人柄もわからないので断ると、一番年長の男が「私たちもお伊勢参りがしたいのです」と訴えた。この言葉にほだされて、体の弱そうな一人をのぞいて雇おうと言うと、この男は家族が多い上に貧乏だ、自分たちが彼の分まで頑張るからと懇請されて、とうとう3人とも雇うことになった。「人力車夫が私に対してもおたがいに対しても、親切で礼儀正しいのは、私にとっても不断のよろこびの泉だった」と彼女は書きとどめている。町中でも思いやりと助け合いが弱者を護っていたのである。
これなら、物質的には貧しくとも、欧米のスラムにあるような孤独、絶望という不幸とは無縁で暮らせただろう。このような社会では、喧嘩や口論もほとんどない。
維新前後に2度、日本を訪問した英国人W・G・ディクソンは、こう述べている。私は日本旅行のすべてにおいて、二人の男が本当に腹を立てたり、大声で言い争ったりしたのを見たおぼえがない。中国では毎日お目にかかったが、つまり二人の女が口論したり、たがいにいかがわしい言葉を投げつけあったりしているのも一度も見たことがない。
明治7(1874)年から翌年にかけて、東京外国語学校でロシア語を教えたレフ・イリイッチ・メーチニコフもまったく同様の体験を記している。この国では、どんなに貧しく疲れ切った人足でも、礼儀作法のきまりからはずれることがけっしてない。・・・わたしは江戸のもっとも人口の密集した庶民的街区に2年間住んでいたにもかかわらず、口論しあっている日本人の姿をついぞ見かけたことがなかった。
ましてや喧嘩などこの地ではほとんど見かけぬ現象である。なんと日本語には罵りのことばさえないのである。馬鹿と畜生という言葉が、日本人が相手に浴びせかける侮辱の極限なのだ。
口論や喧嘩は、利害の対立から生ずる。思いやりと助け合いに満ちた共同体では、各自が自己主張を自制するので、利害の対立は少なく、その結果、人々は互いに争うこともほとんどないのであろう。
思いやりと助け合いの根底をなすのは、人々の平等感であろう。明治6(1873)年に来日して、東京帝国大学の外国人教師となったバジル・ホール・チェンバレンは、「この国のあらゆる社会階級は社会的には比較的平等である」と指摘している。
金持ちは高ぶらず、貧乏人は卑下しない。・・・ほんものの平等精神、われわれはみな同じ人間だと心から信ずる心が、社会の隅々まで浸透しているのである。
冒頭に紹介した初代駐日公使のタウンゼント・ハリスは、江戸での将軍家定との謁見については、こう書いている。
大君の衣服は絹布でできており、それに少々の金刺繍がほどこしてあった。だがそれは、想像されるような王者らしい豪華さからはまったく遠いものであった。燦然(さんぜん)たる宝石も、精巧な黄金の装飾も、柄にダイヤモンドをちりばめた刀もなかった。私の服装の方が彼のものよりもはるかに高価だったといっても過言ではない。・・・殿中のどこにも鍍金(めっき)の装飾を見なかった。木の柱はすべて白木のままであった。火鉢と、私のために特に用意された椅子とテーブルのほかには、どの部屋にも調度の類が見当たらなかった。日本の最高権力者である将軍は、米国の一公使よりも質素な服装をしており、逆に一般民衆には欧米社会のような貧民はいない。将軍から町民まで、「同じ人間だ」という意識が浸透していたのである。
このような幸福な共同体は、過ぎ去った過去の幻影として、現代の日本では完全に失われてしまったものだろうか?実は、現代の日本を訪れた外国人も、幕末・明治に日本を訪れた外国人と同様の体験を語っている。たとえば中国から来て日本滞在20年、今では帰化して大学で中国語を教えている姚南(ようなん)さんはこう語っている。
これは民族性の違いだと思いますが、日本では一歩譲ことによって様々な衝突を避けることができます。例えば自転車同士がぶつかったときなど、中国ならすぐ相手の責任を求めますが、日本ではどちらが悪いという事実関係より、まず、お互いに「すみません」と謝ります。その光景は見ていてとても勉強になります。ある日、混んだ電車に乗っていたときのことです。立っていた私は、揺られた拍子に後ろに立っていた女性の尖った靴先を、自分のヒールで踏んでしまったのです。すぐ「ごめんなさい」と謝ると、その人は微笑んで「靴先は空いているから大丈夫ですよ」と言ってくれました。こうした日本人の特性を姚南さんは「民族性」と呼んだ。思いやりと助け合いという「民族性」は、薄れつつも、いまだ現代日本に根強く残っている。
しかし、こうした社会の徳性は、自然に生じたり、勝手に続くものではない。家庭の中で親が子をしつけ、共同体の中での大人の振る舞いが青少年を無言のうちに教え諭す。そうした一つ一つの行為の所産なのである。とすれば、我々の先人が築き上げた幸福な共同体のありようを、しっかり継承し、現代にマッチした形で「大いなる和の国」を再生するのは、我々、現代の日本国民の責務であると言える。