フランシスコ・ザビエル(1506年~1552年)は、スペインのナバラ王国生まれのカトリック教会の司祭・宣教師で、「イエズス会」創設メンバーの一人です。
彼は、ポルトガル王ジョアン3世の依頼で、インドのゴアに派遣され、その後1549年に日本に初めてキリスト教を伝えたことで有名です。そして日本やインドなどで宣教を行い、聖パウロを超えるほどの多数の人々をキリスト教に帰依させたと言われています。
1.キリスト教宣教師の真の目的
ザビエルが1549年に来日した後、1579年にはヴァリニャーノ、1600年にはトルレスが来日しています。1580年にはスペインはポルトガルを併合し、大航海時代の中、「スペインの無敵艦隊」は全盛を誇っていました。
スペインやポルトガルは、もともと地中海の外れに位置していたため、地中海貿易の恩恵をあまり受けませんでしたが、新航路の開拓によって、アフリカ大陸・アジア・アメリカ大陸に進出し、領土・植民地獲得競争を繰り広げました。
一方、16世紀初頭から「宗教改革」の嵐に見舞われていた「カトリック教会」は、相次いで成立したプロテスタント諸派に対抗するため、海外での新たな信者獲得を計画します。ローマ教皇は、ポルトガル・スペイン両国の大航海に宣教師を同行させ、両国が獲得した領土の住民への布教活動に注力しました。
そういう観点から見ると、ザビエルらの宣教師は、「スペインやポルトガルによる日本の植民地支配の先遣隊」としての役割を担っていたと考えるのが妥当だと思います。
2.キリシタン大名の真の目的
ザビエルらの宣教師を受け入れて、「キリシタン」に改宗した大名たちの真の狙いは何だったのでしょうか?
それは、第一に「南蛮貿易」による利益獲得と最新の武器・弾薬の入手でしょう。第二に「一向一揆」に悩まされたり、旧来の仏教や神道の勢力拡大を快く思わない大名にとっては、新しい「カトリック教」をいわば「国教」として領民に帰依させ、統治をしやすくすることを狙ったのではないでしょうか?
ザビエル来日当時、日本は戦国時代で、5千人~1万人の兵員動員能力を有する大名も多く、マラッカからの兵員海上輸送による日本の軍事的制圧は不可能であったため、大名を取り込む文化的侵略の手法を取ったものと思われます。
3.その後のキリスト教の禁止
豊臣秀吉(1537年~1598年)は、日本の植民地化を明確に懸念していたかどうかわかりませんが、門徒以上に信仰心・結束力の強いキリシタンの危険性を察知して、1587年に「伴天連(ばてれん)追放令」を出します。そして、キリシタン大名への政治的圧力を強め、改易や仏教か神道への強制改宗を行いました。
「伴天連追放令」を出すに至った原因には諸説あります。
(1)キリスト教が拡大し、一向一揆のように反乱を起こすことを恐れたため
(2)キリスト教徒が、神道・仏教を迫害したため
(3)ポルトガル人が日本人を奴隷として売買していたのをやめさせるため
(4)秀吉が有馬晴信の女性を連れて来るように命令した際、女性たちがキリシタンであることを理由として拒否したため
徳川幕府は、当初、キリスト教を弾圧する政策は取りませんでした。しかし幕府の支配体制に組み込まれることを拒否し布教を活発化させたドミニコ会やアウグスティノ会の勢力拡大を懸念して、1612年に「慶長の禁教令」を出します。
1609年に発生した「ノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号事件」に絡んで有馬晴信(1567年~1612年)は1612年に刑死します。これが後の「島原の乱」(1637年~1638年)の遠因となります。
高山右近(1552年~1615年)は、棄教を拒否して国外追放となり、1615年にマニラで客死します。
徳川幕府も、ヨーロッパ諸国による日本の植民地化を明確に意識したかどうかわかりませんが、結果的に、アフリカ大陸やアジア諸国、アメリカ大陸と異なり、島国という利点もあったと思いますが、キリスト教の禁止と鎖国政策で植民地化を免れました。