この世の中で何らかの物事が起きる時には、必ず「原因」があります。人が何らかの行動を起こすときには、必ず「動機」があります。
たとえば「旅に出る」という場合、「ただ何となく」とか「気分転換のため」ということもあるでしょうが、そこには「何か深刻な悩みを抱えていて、旅をすることで気分を変えてその解決策を求める」とか、「多忙なサラリーマン生活の中で、人間関係や仕事上のストレスに押しつぶされそうになったので、田舎や自然の風景の中に身を置いて心の癒しを求めたい」などの「隠された理由」がある場合が多いものです。四国八十八カ所巡礼のお遍路さんなどはその良い例です。
私は以前から、「紫式部はなぜ源氏物語を書いたのか?」という疑問を持っていました。サラリーマンとして勤めている頃は仕事が忙しくて、そんなことをじっくり考えている暇はありませんでしたが、完全リタイアしてからは時間が有り余っています。
そこで今回はこれについて考えてみたいと思います。
1.源氏物語執筆の動機
紫式部(973年頃~1019年頃)本人が執筆の動機を明確に書き残していない以上、推測(仮説)の域を出ませんが、私なりの勝手な推理も交えてご紹介したいと思います。
(1)中宮彰子から物語の執筆を命じられたため(「無名草子」に記されている説)
村上天皇の皇女大斎院選子内親王(964年~1035年)から中宮彰子(988年~1074年)に「退屈しているので、何か面白い物語があったら貸してください」という依頼があったので、彰子が紫式部に「どれを貸してあげたらよいか」と相談したところ、紫式部が「新しく作って差し上げては?」と答えたので、彰子が「それではあなたが書きなさい」と命じられた(依頼された)というものです。
紫式部は中宮彰子に仕える前から、源氏物語を書き始めていたという話もありますから、もともと彼女に物語の「創作意欲」と「構想」はあって、当時高価だった「紙」や「硯」を手に入れるためにも、積極的にこの話に乗ったのかもしれません。
ひょっとすると、中宮彰子も紫式部が手すさびでこっそり短編の「物語」を書き始めていることに気付いていて、それで「あなたが書きなさい」と言ったのかもしれません。
その結果、紫式部はその後、「趣味」としてではなく、「副業」として「物語」を書くのを公認されたということでしょう。
(2)かつて不倫関係にあった藤原道長に宮中出仕を斡旋してもらうため
若い頃、紫式部は藤原道長(966年~1028年)の正妻である源倫子の女房として仕えており、その時に藤原道長と不倫関係にあったのではないかという推測です。今風に言えば、社長と女性社員との不倫関係のようなものでしょう。
「紫式部日記」には夜半に道長が彼女の局を訪ねて来る一節があります。また鎌倉時代の公家系譜の集大成である「尊卑分脈」には、「紫式部は道長妾(しょう)」と記されています。
道長との不倫を何年にもわたってズルズルと続けていても先が見えないと思った紫式部は別の男性の藤原宣孝(不詳?~1001年)と結婚することにしたのではないかと思います。
しかし、藤原宣孝が3年後に急死したので生活のために、かつて仕えていた藤原道長に「就職の斡旋」を依頼したのではないでしょうか?具体的には、藤原道長の娘彰子が一条天皇の中宮となっていたので、「中宮彰子の女房としての入内」を希望したと考えられます。
彼女は道長に対して、「就職の斡旋」を聞き入れてくれなければ、過去の多くの不倫関係を明るみに出すと迫ったかもしれません。
これに対して道長は、あっさり「中宮彰子の女房としての入内」を承諾するとともに、好色な彼は、自分たちの過去の不倫関係のような物語を書いてはどうかと勧めたのかもしれません。ただし、そのドラマは、あくまでもフィクションで「天皇の息子を主人公にして、多くの女性との不倫関係や恋愛の物語」という設定にするよう要求したのではないでしょうか?
紫式部の父藤原為時(949年頃~1029年頃)が文才で官位を得たことが頭にあったのかもしれません。
(3)彰子側で「サロン」を形成して一条天皇の気を引くため
清少納言が仕えていた中宮定子(977年~1001年)への一条天皇(980年~1011年)の寵愛が少なくなった頃に、新たに中宮となったのが彰子です。これは彰子の父である藤原道長の「政略」も大きいと思います。
紫式部は、自分が仕えている彰子が一条天皇の気を引く(寵愛を受ける)ために、自分が面白い物語を創作して、「中宮彰子の文化サロン」のようなものを形成しようと目論んだのではないでしょうか?ちなみに彰子に仕えた女房には、和泉式部や赤染衛門といった歌人としても後世に名を残す女房たちがいました。
これは、かつて仕えた藤原道長への恩返しにもなると考えたのでしょう。
(4)藤原氏によって左遷された「源高明」の鎮魂のため(「河海抄」に記されている説)
紫式部が幼い頃から親しかった西宮左大臣と呼ばれた源高明(914年~983年)が、藤原氏による他氏排斥事件である「安和の変」(969年)で謀反の疑いによって大宰府に流されたため、別れることになり嘆き悲しんでいたところ、たまたま中宮彰子から「新しい物語を書くように」との依頼を受けたので、彼の鎮魂のために執筆したというものです。
ちなみに、「光源氏のモデル」とも言われる源高明とは、次のような人物です。
醍醐天皇の第10皇子で、母は源周子です。官位は正二位・左大臣で、京都右京四条に壮麗な豪邸を建設し、「西宮左大臣」と呼ばれました。920年に「臣籍降下」し、「源」の姓を賜って「一世源氏」となります。
学問に優れ朝儀に通じていたことに加え、実力者藤原師輔やその娘の中宮安子のバックアップもあり、朝廷で重んじられました。しかし師輔・安子の死後、藤原氏に忌まれて「安和の変」で失脚し、政界を引退しています。
(5)「うつほ物語」や「竹取物語」を融合発展させたいという創作意欲のため
「源氏物語」は「日本最古の長編小説」と言われ、紫式部のオリジナルな発想によるものと思っている方も多いと思いますが、実は「日本最古の長編物語」である「うつほ物語」の影響を強く受けています。
そして、「現存する日本最古の物語」である「竹取物語」からも、紫式部はインスピレーションを得た可能性があります。
紫式部は、この二つの物語をよく読み込んでおり、写実的な描写や長編物語という点で「うつほ物語」の影響が色濃く出ています。現在、「うつほ物語」が「源氏物語」ほど評価されていませんが、不当な低評価だと私は思います。
「うつほ物語」については「『うつほ物語』という長編物語の内容とは?また誰が何の目的で書いたのか?」という記事に詳しく書いていますので、ぜひご覧ください。
(参考)石山寺の「源氏物語のおこり」文書
伝えられる「写本」によって、内容が異なる点も多いですが、およその内容は次の通りです。
紫式部は幼い頃から親しかった西宮左大臣と呼ばれた源高明が謀反の容疑によって大宰府へ流された(安和の変)ため別かれることになり嘆き悲しんでいた。おりしも長く斎院を務め、大斎院と呼ばれた選子内親王から、あるとき紫式部の主人であった上東門院(藤原彰子)に対して「何かおもしろい物語は無いか」との問い合わせがあった。「うつほ物語」や「竹取物語」のような既存の物語はあったが、目慣れており珍しいとは言い難いので新しい物語を作って献上することになり、藤原彰子が紫式部にその役目を任せた。紫式部は構想を練るため、石山寺に籠もって何日もかけて祈っていたところ、八月十五日の夜に月が琵琶湖の湖水に映って物語の情景が浮かんだため、忘れないうちにと仏前にあった大般若経の料紙を本尊から貰い受けて「須磨」の巻の「今宵は十五夜なりけりと思し出でて」とあるところから書き始め、やがて『源氏物語』全60帖を完成させた。この60帖のうち6帖は秘伝として某所に隠され、54帖のみが世に広まることになった。 (Wikipedia)
2.紫式部とは
紫式部(973年頃~1014年頃)は、平安時代中期の物語作者・歌人です。父は漢学者の藤原為時で、母は藤原為信の娘ですが、彼女が幼い頃に亡くなったため、父の手で育てられます。
藤原宣孝と結婚し、後に冷泉院の乳母となった大弐三位賢子(999年頃~1082年頃)を生みますが、夫とは3年で死別しています。
この寡婦時代に源氏物語の執筆を開始したと推定されています。1005年か1006年から一条天皇の中宮彰子の女房として出仕しています。
3.源氏物語とは
源氏物語は、平安時代中期の1008年頃に完成した長編恋愛小説です。20カ国以上の言語に翻訳され、世界的にも高い評価を受けています。
紫式部が残した唯一の物語作品です。およそ70年間に及ぶ時代を描き、文字数はおよそ100万、タイトルのみの「雲隠(くもがくれ)」も含めて全54帖から成っています。
・第一部:「桐壺」から「藤裏葉」まで。主人公光源氏の誕生と栄光を描いています。
・第二部:「若菜」から「幻」まで。光源氏の苦悩と老いを描いています。
・「雲隠」:タイトルのみで本文は無し。光源氏の死を暗示しています。
・第三部:「匂兵部卿」から「夢浮橋」まで。光源氏の死後を描いています。
余談ですが、赤裸々な恋愛小説を書いた渡辺淳一(1933年~2014年)は整形外科医(医学博士)で作家ですが、「失楽園」「化身」「ひとひらの雪」「愛の流刑地」など不倫の愛と悦楽を描いた恋愛小説で有名です。
彼は「告白的恋愛論」などで、「自分の体験がなければ恋愛小説は書けない」として自身の恋愛遍歴をかなり大胆に綴っています。
紫式部も、やはり自身の恋愛体験および藤原道長や源高明などの平安貴族の不倫関係や女性遍歴の噂話なども参考にしながら源氏物語を書いたのではないかと思います。