「川柳」は「俳句」と違って、堅苦しくなく、肩の凝らないもので、ウィットや風刺に富んでいて面白いものです。
今では、「サラリーマン川柳」や「シルバー川柳」など「〇〇川柳」というのが大はやりで、テレビ番組でも紹介されており、書籍も出ています。
そこで今回はシリーズで、日本古来の「偉人」を詠んだ「江戸川柳」を時代を追ってご紹介したいと思います。
川柳ですから、老若男女を問わず、神様・殿様も、猛者も貞女も大泥棒も、チャキチャキの江戸っ子が、知恵と教養と皮肉の限りを尽くして、遠慮会釈なくシャレのめしています。
第4回は「平安時代②」です。
1.源頼光(みなもとのよりみつ/らいこう)
・酒臭い首を都へ土産(みやげ)にし
・頼光(らいこう)は一切れやっと鵜呑みにし
・四天王有り難くまず利き酒(ききざけ)し
源頼光(948年~1021年)は、平安時代中期の武将です。「頼光四天王」(*)と呼ばれた勇猛な家来を持ち、「大江山鬼退治」などの伝説で有名です。
(*)「頼光四天王」とは、渡辺綱(わたなべのつな)、坂田金時(さかたのきんとき)、碓井貞光(うすいさだみつ)、卜部季武(うらべのすえたけ)の4人の武士のことです。
今回ご紹介するのは、頼光の「大江山鬼退治」を詠んだ川柳です。
丹波国大江山に棲んでいる鬼「酒吞童子(しゅてんどうじ)」の退治を命じられた頼光一行は、大江山へ向かう道で住吉・八幡・熊野の三神に会い、「神便鬼毒酒(じんべんきどくしゅ)」という酒をもらいます。
これは頼光たちが飲めば薬になり、鬼が飲むと身体の自由が利かなくなるという不思議な酒です。
最初の句は、頼光がこの酒を酒吞童子に飲ませて退治し、首をみやげに都へ凱旋してきた場面を詠んだもので、その首はまだ酒臭かっただろうというわけです。
ところで、頼光は持参した酒を鬼たちに飲ませるために酒盛りを始めますが、その時、鬼の出した人の血の酒と、人の肉の肴(さかな)を口にしなければなりません。
『御伽草子』では、平然と飲み食いしたことになっていますが、実際は我慢して鵜呑みにしただろうと想像したのが2番目の句です。
ともあれ、頼光一行を信用した酒吞童子は、「頼光四天王」が「神便鬼毒酒」を飲んでみせると、すっかり安心してどんどん飲んでしまい、ついに首を刎ねられることになります。
この情景を詠んだのが3番目の句です。
2.清少納言(せいしょうなごん)
・余(よ)の侍女に煙たがられる香炉峰(こうろほう)
・翠簾はさて舌を巻いてる余の官女(かんじょ)
・雪の謎とけぬ官女は鼻を明(あ)き
『枕草子』で有名な清少納言(966年頃~1025年頃)は、平安時代中期の歌人で、父は清原元輔です。中古三十六歌仙の一人で、一条天皇中宮・定子に仕えました。
最初の句は、『枕草子』(299段)にある「香炉峰の雪」の話を踏まえて詠んだものです。
雪が降り積もった日に女房たちが話をしていると、中宮様が「少納言よ、香炉峰の雪はどうだろうか」とおっしゃったので、御簾(みす)を高く巻き上げたら、中宮様が満足してお笑いになったという話です。
つまり、「香炉峰」と言われた時、清少納言はすぐに『白氏文集(はくしもんじゅう)』の「遺愛寺の鐘は枕を欹(そばだ)てて聴き 香炉峰の雪は簾を撥(かかげ)て看る」のこととわかったので、簾を巻き上げさせたのだと自慢しているのです。
こういう行動をとると、ほかの侍女たちには煙たがられるだろうという想像です。「煙」は「香炉」の縁語です。
2番目の句は、ほかの官女たちも素直に誉めているらしいと見ています。
3番目の句は、出し抜かれてあっけにとられた(鼻を明かされた)他の官女たちは、しばらくしてからじわじわと、煙たがるようになっただろうという想像です。
3.渡辺綱(わたなべのつな)
・江戸者(えどもの)をだまして腕を取り返し
・魚籃(ぎょらん)近所かと頼光聞き給い
・伯母(おば)のあることを茨木どこで聞き
・ああも似るものかと綱はくやしがり
・蹴破った跡を見に来る実の伯母
渡辺綱(953年~1025年)は、平安時代中期の武士で、「頼光四天王」の一人です。
羅生門(あるいは一条戻り橋)で鬼(茨木童子)の腕を斬り落としたものの、伯母に化けた鬼に取り返されたという有名な伝説があります。
最初の句は、このことを詠んだもので、「江戸者」とは、江戸・三田の生まれとされている渡辺綱のことです。
「三田の生まれなら、有名な魚籃観音の近所か」と頼光が聞いただろうと想像したのが2番目の句です。
鬼の腕を斬り落とした綱は、安倍晴明の教えに従って、七日間の斎(ものいみ)をしていましたが、六日目の夕方に伯母が訪ねてきて、鬼の腕を見たいと言います。綱がやむを得ず見せると、伯母はたちまち鬼となって腕を奪い、破風(はふ)を蹴破って逃げてしまいます。
それにしても、綱に伯母がいることを、鬼(茨木童子)はどこで聞いたんだろうと不思議がっているのが3番目の句です。
「よく似ていたなあ。ああも似るものかねえ」と綱が悔しがったであろうと想像したのが4番目の句です。
「大変なことだったねえ」と、本物の伯母がお見舞いにやって来たのを詠んだのが5番目の句です。
4.坂田金時(さかたのきんとき)
・足柄(あしがら)で育ち手柄を世に残し
・どうせお世話がやけましょうと山姥(やまうば)
・まさかりとどてら一つでかかえられ
・金時は親類書(しんるいがき)に困るなり
・金時の系図はたった一(ひと)くだり
・金時はくわえ煙管(ぎせる)で角(つの)をもぎ
坂田金時(生没年不詳)は、幼名金太郎。「頼光四天王」の一人で、実在の人物とも言われます。伝承では山姥の子とされています。
童謡の『金太郎』でもおなじみの坂田金時ですが、いろいろな伝承があります。
山姥の子で足柄山にいたのを、源頼光に見出されて家来となり、四天王の一人として大江山の鬼退治で活躍する物語が有名です。
最初の句は、そのまま詠んだもので、「足柄」と「手柄」の語呂合わせです。
頼光から、金時を家来にしようと言われた山姥が、「山家育ちで、何のしつけもしておりませんので、どうせお世話が焼けましょう」と言っただろうと想像したのが2番目の句です。
鉞(まさかり)担いだどてら姿で召し抱えられた(3番目の句)のですが、何しろ山姥の子ですから親戚などいません。親類書(家族や親類の氏名・続柄などを書いた書類)に書く人もなく、系図を書けば一行で終わってしまうというのが4番目と5番目の句です。
煙管を加えたまま、遊び半分で鬼の角をもいだのだろうと想像したのが6番目の句です。
5.紫式部(むらさきしきぶ)
・順礼が来ると式部は筆を置き
・三年もいる気で式部書きかかり
・石山でできた書物の柔らかさ
・御仏作(ごぶつさく)末世(まつせ)に光る物語
・仏作(ぶつさく)に似合わぬ色の物語
・いしいしを食べて明石へ書きかかり
紫式部(973年頃~1014年頃)は、平安時代中期の物語作者・歌人です。父は藤原為時、母は藤原為信の娘です。1005年頃、一条天皇の中宮・彰子の女房として出仕しました。
紫式部は石山寺で『源氏物語』を書いたとも言われています。今回は、この伝承を踏まえた川柳をご紹介します。
石山寺は「西国第三十三番札所」なので、順礼が来ると紫式部は執筆を中断しただろうと想像したのが最初の句です。
「石の上にも三年」ということわざがありますが、三年がかりのつもりで書き始めたのだろうと想像したのが2番目の句です。「石山寺」の縁語仕立てです。
「石山」という固い名前のお寺で、柔らかい物語ができましたというのが3番目の句です。
謡曲『源氏供養』には、紫式部は、石山観世音が仮にこの世に現れたものだとあります。ですから『源氏物語』も仏様の御作となるというのが4番目の句です。
末の世まで光る「光源氏」の物語ですが、仏様の御作には不似合いな色恋の物語だというのが5番目の句です。
また、十五夜の晩に「須磨・明石」の巻から書き始められたという伝承もあります。「いしいし」は「団子」の女房詞(にょうぼうことば)で、官女である紫式部を示唆し、同時に「団子」で十五夜を表すという技巧を駆使したのが6番目の句です。
6.能因法師(のういんほうし)
・松島を聞けば能因口ごもり
・知る人が来ると能因窓を閉(た)て
・能因はすでに霍乱(かくらん)するところ
・わらじくい迄は能因気がつかず
・能因は川止めなどの嘘をつき
能因法師(988年~1050年頃)は、平安時代中期の歌人で、「中古三十六歌仙」の一人です。
『後拾遺和歌集』に収められた能因法師の次の和歌についての伝承を踏まえた川柳をご紹介します。
都をば霞とともに立ちしかど 秋風ぞふく白河の関
この和歌は、陸奥(みちのく)へ旅行した時に詠んだということになっていますが、実際は家で日焼けをし、旅行したように見せかけて披露したという話が伝えられています。
「陸奥へ旅行したのなら、松島はどうでしたか?」などと誰かが聞いたら、能因法師は困って口ごもっただろうと想像したのが最初の句です。
毎日窓から首を出して日焼けするのですが、偽装工作はなかなか大変で、知人が来ると急いで窓を閉めただろうと想像したのが2番目の句です。
「霍乱」は暑気あたりのことで、日に当たり続けて、危うく日射病になるところだったろうと想像したのが3番目の句です。
「草鞋食い(わらじくい)」は、草鞋の緒で足の皮を擦りむくことで、能因法師もそこまでの偽装には気が回らなかっただろうと想像したのが4番目の句です。
ついには「川止めにあって大変だったよ」などという嘘までつくことになったのだろうと想像したのが5番目の句です。