江戸川柳でたどる偉人伝(源平合戦時代①)俊寛・平忠盛・源義朝・常盤御前・平清盛・平忠度・平敦盛・斎藤実盛・源義仲・源三位頼政

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俊寛・文楽

「川柳」は「俳句」と違って、堅苦しくなく、肩の凝らないもので、ウィットや風刺に富んでいて面白いものです。

今では、「サラリーマン川柳」や「シルバー川柳」など「〇〇川柳」というのが大はやりで、テレビ番組でも紹介されており、書籍も出ています。

そこで今回はシリーズで、日本古来の「偉人」を詠んだ「江戸川柳」を時代を追ってご紹介したいと思います。

川柳ですから、老若男女を問わず、神様・殿様も、猛者も貞女も大泥棒も、チャキチャキの江戸っ子が、知恵と教養と皮肉の限りを尽くして、遠慮会釈なくシャレのめしています。

第5回は「源平合戦時代①」です。

1.俊寛(しゅんかん)

俊寛

・俊寛はどうしたことか八分(はちぶ)され

・鹿ヶ谷(ししがたに)みんなが道を変えて来る

・鹿ヶ谷大きな山を談じ合い

・じらさずと赦免状(しゃめんじょう)をと僧都(そうず)言い

・だだっ子のように俊寛愚痴を言い

・すすり泣き康頼(やすより)成経(なりつね)は困り

・俊寛をもぎもぎ二人舟へ乗せ

俊寛(1143年~1179年)は、平安時代後期の真言宗の僧で、俊寛僧都とも呼ばれます。後白河法皇の側近で、法勝寺(ほっしょうじ)執行(しゅぎょう)です。

歌舞伎『俊寛』でもおなじみの俊寛僧都は、1177年6月、京都・東山の鹿ヶ谷(現在の京都市左京区)の静賢法印(じょうけんほういん)(信西の子)の山荘での平家打倒の陰謀(鹿ヶ谷の陰謀)に加わりました。

皆がそれぞれ道を変えて密かに集まり、「大きな山」すなわち平家打倒を計画しますが、密告者が出て露見してしまい、俊寛は平康頼・藤原成経とともに薩摩国の鬼界ヶ島(きかいがしま)へ流されます。この陰謀の様子を詠んだのが2番目と3番目の句です

やがて大赦(たいしゃ)があって、赦免の船が鬼界ヶ島へ到着しますが、赦免状には康頼・成経のみで、俊寛の名がありません。なぜか俊寛だけが仲間外れにされたというのが最初の句です。

まさか自分だけ除外とは信じられない俊寛は、赦免を迫りますが叶えられない状況を詠んだのが4番目の句です。

そのうち、愚痴を言ったり、すすり泣きをしたりする俊寛を残して、二人だけが船上の人となる状況を詠んだのが5番目から7番目の句です。

2.平忠盛(たいらのただもり)

平忠盛

・忠盛は帰ると糠(ぬか)で手を洗い

・師走だと忠盛水を浴びるとこ

平忠盛(1096年~1153年)は、平安時代後期の武将で、平清盛の父です。

白河法皇に仕え、日宋貿易などで富を蓄えて平家繁栄の基礎を築きました。白河法皇から賜った祇園女御(ぎおんのにょうご)から生まれたのが清盛ですが、白河法皇の子であるとも言われています。

白河法皇が、祇園女御という寵妃(ちょうひ)のもとへ忍んで行った時、近くの御堂の傍らに頭髪が銀の針のように光る怪物が見えたので、「北面武士(北面の武士)」として随行していた忠盛に退治するよう命じました。

そこで忠盛が怪物に組み付いてみると、実は御堂にお灯明を灯す法師で、油を入れた手瓶(てがめ)と火をつけたかわらけを持っており、雨除けのために被っていた小麦の藁が、かわらけの光で銀の針のように輝いて見えたのでした。

油を持った法師に組み付いた忠盛は、手に油がついたはずだから、帰ってから糠を使って手を洗っただろうと想像したのが最初の句です。

油のついた手を糠で洗うのは「江戸人の常識」で、歴史上の人物に江戸人の仕草をさせるのは、川柳の技巧の一つです。

2番目の句も同じで、江戸では師走に油をこぼすと火に祟るといって、こぼした者に水を浴びせる習慣がありました。油をこぼした忠盛は、もし師走だったら水を浴びるところだったというわけです。

3.源義朝(みなもとのよしとも)

源義朝源義朝最期の図

・軽石(かるいし)で長田(おさだ)三つ四つくらわされ

・さあ御湯(おゆ)に召させ申せと長田(おさだ)来る

・いい湯だと初手(しょて)には誉めた左馬頭(さまのかみ)

・御背中(おせなか)を流しましょうと長田(おさだ)言い

・きんたまをつかめつかめと長田(おさだ)下知(げち)

・末期の湯(まつごのゆ)呑んで義朝最期(さいご)なり

源義朝(1123年~1160年)は、平安時代後期の武将で、源頼朝源義経・源範頼・阿野全成らの父です。

「保元の乱」(1156年)で後白河法皇方として戦い、左馬頭になりましたが、藤原信頼とともに「平治の乱」(1160年)を引き起こして敗退しました。そして東国へ逃れる途中、尾張国で家臣・鎌田政清の舅である長田忠致(おさだただむね)(生年不詳~1190年?)のもとに身を寄せましたが、平家の恩賞目当ての長田の裏切りによって湯殿(風呂場)で討たれました。

川柳作者は、まるで見てきたような句を作っています。

まず、長田が風呂を勧めに来たことを詠んだのが、2番目の句です。

何も知らない義朝(左馬頭)がのんびり湯に入っている情景を詠んだのが3番目の句です。

背中を流しましょうという長田の大サービスを詠んだのが4番目の句です。

そこで長田は「急所をつかめ」と家来に命令します。裸で武器のない義朝は、手近の軽石で抵抗し、長田も三つ四つは食らわされただろうというのが、5番目の句と最初の句です。

「末期の水」ならぬ「末期の湯」を呑んで無念の最期を遂げたというのが6番目の句です。

余談ですが、長田忠致がその後どうなったのか気になる方もおられると思いますので「後日談」をご紹介します。武田勝頼を裏切り織田方に寝返った小山田信茂と同様、まさに「裏切者の末路」です。

長田氏は尾張国野間(愛知県知多郡美浜町)を本拠地とし、平治年間には源氏に従っていました。平治元年(1159年)、「平治の乱」に敗れた源義朝は、東国への逃避行の途中、随行していた鎌田政清の舅である忠致のもとに身を寄せました。しかし、忠致・景致父子は平家からの恩賞を目当てに義朝を浴場で騙し討ちにし、その首を六波羅の平清盛の元に差し出しました。

この際、政清も同時に殺害されたため、嘆き悲しんだ忠致の娘(政清の妻)は川に身を投げて自殺したそうです。また、兄の親致は相談を持ちかけられた際、その不義を説いていましたが、結局事件は起きてしまったため、乳母の生まれ故郷である大浜郷棚尾(現在の愛知県碧南市)に移り住んだそうです。

義朝を討った功により忠致は「壱岐守(いきのかみ)」に任ぜられますが、この行賞に対してあからさまな不満を示し「左馬頭、そうでなくともせめて尾張か美濃の国司にはなって然るべきであるのに」などと申し立てたため、かえって清盛らの怒りを買って処罰されそうになり、慌てて引き下がったということです。そのあさましい有様を『平治物語』は終始批判的に叙述しています。

後に源頼朝が挙兵するとその列に加わりました。忠致は「頼朝の実父殺し」という重罪を負う身でしたが、頼朝から寛大にも「懸命に働いたならば美濃尾張をやる」と言われたため、その言葉通り懸命に働いたそうです。

しかし平家追討後に頼朝が覇権を握ると、その父の仇として追われる身となり、最後は頼朝の命によって処刑されたということです。

その折には「約束通り、身の終わり(美濃尾張)をくれてやる」と言われたと伝えられています。処刑の年代や場所、最期の様子については諸説があって判然としませんが、『保暦間記』によると建久元年(1190年)10月の頼朝の上洛の際に、美濃で斬首されたことになっています。また治承4年10月14日(1180年11月3日)に「鉢田の戦い」で橘遠茂とともに武田信義に討たれたとする説もあります。

また処刑方法も打ち首ではなく「土磔(つちはりつけ)」と言って地面に敷いた戸板に大の字に寝かせ、足を釘で打ち磔にし、槍で爪を剥がし顔の皮を剥ぎ、肉を切り数日かけて殺したということです。刑場の高札には「嫌へども命のほどは壱岐(生)の守 身の終わり(美濃・尾張)をぞ今は賜わるという歌が書かれていたそうです。

4.常盤御前(ときわごぜん)

常盤御前

・庇(ひさし)を貸したで母屋(おもや)を常盤取り

・千人に一人の後家を入道しめ

・この頃(ごろ)は後家狂い(ごけぐるい)だと嵯峨(さが)で言い

常盤御前(1138年~没年不詳?)は、平安時代末期の女性で、源義朝の妾となって今若(阿野全成)・乙若(義円)・牛若(源義経)の三児を生みました。

「平治の乱」の後、母親と三児の命乞いのために六波羅に出頭し、平清盛の寵愛を受けることとなりました。

常盤御前は源義朝の愛妾ですが、「平治の乱」で義朝が敗れた後は大和に隠れていましたが、母親が平家方に捕らえられたことを聞いて、三人の子供とともに清盛の館に出頭して命乞いをしました。

清盛は常盤御前の美貌に心を動かされて妾とし、母親と子供の命は許すことにしたのです。この子供の一人の牛若(後の源義経)が平家を滅ぼす原動力になったのですから、清盛は常盤御前の色香に迷って平家一門を犠牲にしたとも言えます。

最初の句は、このことを「庇を貸して母屋を取られる」(一部を貸したためにつけ込まれて、結局その全部を奪い取られることのたとえ)のことわざで表現したものです。

『平治物語』によると、常盤御前は千人の美人の中から一人選び出されたという絶世の美女だったそうなので、清盛が手を出したのも無理からぬことだったかもしれません。

2番目の句は、このことを詠んだもので、「後家」は常盤御前、「入道」は相国(しょうこく)入道清盛、「しめる」は女性をモノにすることです。

清盛のかつての愛妾だった祇王(ぎおう)・祇女(ぎじょ)・仏御前(ほとけごぜん)が、京都嵯峨の隠棲の地で、「清盛さんは、この頃後家に夢中らしいわよ」などと話し合っているだろうと想像しているのが3番目の句です。

5.平清盛(たいらのきよもり)

平清盛平清盛炎焼病の図

・清盛の医者は裸で脈を取り

・清盛も時疫(じえき)だろうと初手(しょて)は言い

・ゆでだこのように清盛苦しがり

・汲(く)み立てがよいと宗盛下知(げち)をなし

・入道は真水を飲んで先へ死に

平清盛(1118年~1181年)は、平安時代末期の武将で、平忠盛の長男です。白河法皇の落胤とも言われ、母は祇園女御(あるいは祇園女御の妹)とも言われます。豊富な財力や天皇との姻戚関係をもとに平家の繁栄を築きました。

よく知られているように、清盛は大変な高熱を発する病気で死んだと言われています。『平家物語』によると、病室の中は耐え難いほどの暑さだったそうです。それで、治療する医者も裸になって脈を取っただろうと想像したのが最初の句です。

清盛も最初はただの流行病(はやりやまい)だろうぐらいに思っていただろうと想像したのが2番目の句です。

しかしすぐに、蛸入道が茹でられるように相国入道清盛が苦しがるのを詠んだのが3番目の句です。

清盛の三男宗盛が、汲みたての冷たい水を持って来させて冷やすのを詠んだのが4番目の句です。

結局、清盛は1181年に病死しますが、4年後の1185年に平家は壇ノ浦で滅亡します。平家一門が塩水を飲んで滅亡する光景を目の当たりにするよりは、熱病を冷やすための真水を飲んで先に死んだほうが幸せだったとも言えます。

6.平忠度(たいらのただのり)

平忠度平忠度

・山桜よみ人(びと)知らぬ者は無し

・腕のある内に桜の歌を書き

平忠度(1144年~1184年)は、平忠盛の六男です。紀伊国熊野地方で生まれ育ったとされ、1180年薩摩守(さつまのかみ)に任じられました。歌人としても優れ、藤原俊成に師事しました。

平忠度は清盛の異母弟で、官名「薩摩守」が無賃乗車(ただのり)の隠語として有名ですが、文武両道に優れた武将でした。平家一門が都落ちする時、忠度は途中から引き返して、師事していた藤原俊成のもとを訪ね、百余首を集めた一巻を託して、「勅撰集が編まれる時は、ぜひ一首入れて下さい」と頼んで去りました。

哀れに思った俊成は、のちに『千載和歌集』を編纂した時、「さざなみや志賀の都はあれにしを むかしながらの山ざくらかな」という忠度の歌を、勅勘の身を憚って「よみ人知らず」として入れました。

山桜の歌は「よみ人知らず」となっているが、詠み人が誰かはみんなよく知っているというのが最初の句です。

忠度は、「一ノ谷の戦い」で、源氏方の岡部六弥太の郎党に腕を斬り落とされ、討ち死しますが、その時、箙(えびら)(矢を入れて腰につける容納具)に短冊が付けてあり、「行き暮れて木の下蔭(このしたかげ)を宿とせば 花や今宵の主(あるじ)ならまし」と書いてあったということです。

この話を詠んだのが2番目の句です。

7.平敦盛(たいらのあつもり)

軍扇を持つ熊谷直実と平敦盛平敦盛

・熊谷は不承不承(ふしょうぶしょう)の手柄なり

・敦盛も討たるる頃は声変わり

・花は散り青葉は残る一の谷

・その後(のち)は衣で通る一の谷

平敦盛(1169年~1184年)は、平清盛の弟・平経盛の三男です。官職に就いていなかったので「無官大夫(むかんたいふ)」と呼ばれました。「一ノ谷の戦い」で熊谷直実に討たれました。

「一ノ谷の戦い」に敗れた平家軍が我先に船へ逃げる中に、立派な武者を発見した源氏の熊谷次郎直実が、軍扇をあげ招き返して組み打ちし、押さえつけて首を掻こうとすると、まだ十七歳ほどの少年でした。

かわいそうになって見逃そうとしましたが、味方の軍勢がすぐ後ろに迫って来たので、泣く泣く首を掻きました。この少年が平敦盛です。

熊谷直実が敦盛の首を取ったのは、確かに手柄ではあるが、助けようと思った熊谷にしてみれば、「不承不承の手柄」だったろうと想像したのが最初の句です。

ちょうど子供の声変わりの年齢だというのが2番目の句です。

その時、敦盛が持っていたのが有名な「青葉の笛」(『平家物語』では「小枝(さえだ)」)で、これを詠んだのが3番目の句です。

この出来事以後、直実は仏門に帰依する気持ちが強くなり、ついに出家して蓮生(れんしょう)となります。鎧で戦った一ノ谷も、衣(墨染の衣)で通るというのが4番目の句です。

8.斎藤実盛(さいとうさねもり)

斎藤別当実盛斎藤実盛

・郎等(ろうとう)に実盛墨を濃く磨(す)らせ

・今ならば実盛も買う美玄香(びげんこう)

・実盛は守り袋を上着にし

・直垂(ひたたれ)は打ち敷にもと木曽納め

斎藤実盛(1111年~1183年)は、平安時代末期の武将です。最初、源義朝に従っていましたが、義朝が謀殺された後は平氏に仕えて重用されました。「篠原合戦」で討ち死しました。

木曾義仲(源義仲)が孤児になった時に保護した人物で、浅からぬ因縁がありました。しかし70歳で木曾義仲軍と戦った時は平維盛軍に属していました。松尾芭蕉の「むざんやな甲(かぶと)の下のきりぎりす」という句は「この兜を見るにつけても、実盛が白髪を染め、この兜をかぶって戦い、討たれたことはいたわしいことだ。今は兜の下で哀れを誘うようにコオロギが鳴いている」という意味です。

平家の武将であった斎藤実盛は、木曾義仲と戦う「篠原合戦」に際し、討ち死する覚悟で白髪を黒く染め、錦の直垂を着て出陣したと言われています。白髪を染めたのは、当時70歳を超えていて、若い武者と競うのも大人げないし、また敵に老武者と侮られるのも口惜しいので、若く見せようという気持からだったようです。

また、錦の直垂を着たのは、生国が越前国であるので、北陸の「故郷に錦を飾った」のだと『平家物語』にあります。

髪を染めるために、家来に墨を濃く磨らせただろうと想像したのが最初の句です。

江戸に「美玄香」という白髪染めがあったので、今なら実盛もそれを使っただろうと想像したのが2番目の句です。

実盛は、まるで「お守り袋」のような上着を着て出陣したというのが3番目の句です。現在でも「お守り袋」はキンキラの錦織なので、言い得て妙な見立てですね。

「打ち敷」は、お寺で仏壇・仏具などに敷く金襴などの布です。実盛の錦の直垂を打ち敷にでもしてくださいと、義仲がお寺に納めたという見立てが4番目の句ですが、故人の遺品をお寺に納めるのは江戸時代の習慣で、江戸川柳の得意技です。

9.源義仲(みなもとのよしなか)

木曾義仲木曾義仲・火牛の計

・木曾殿(きそどの)の陣は豪儀に飯が要(い)り

・北からも壱度(いちど)朝日が昇るなり

・大食らい(おおぐらい)なりと木曾をば讒(ざん)をする

・信濃では朝日近江は夕日なり

源義仲(1154年~1184年)は、源義朝の弟・義賢の次男です。父・義賢が殺された後、木曾山中で育てられたため、木曾義仲と通称されます。火牛の計で有名な「倶利伽羅峠の戦い」に勝って京に入りますが、後白河法皇と対立したため、源範頼・義経軍によって近江・粟津で討たれました。

江戸川柳の約束事の一つに「信濃者(しなのもの)は大飯食い」があり、これを踏まえて信濃者を率いた木曾殿の陣では、さぞかし大量の飯が必要だったろうと想像したのが最初の句です。

義仲は京都に入り、後白河法皇から「朝日将軍(旭将軍)」と称するようにと言われます。これを詠んだのが2番目の句です。

しかし、粗野乱暴な振る舞いがあったりして、朝廷と不仲になっていきます。猫間(ねこま)中納言とのエピソードもその一例です。ある時、猫間中納言が相談事があって義仲を訪問した際、義仲が粗野な言葉遣いと態度で接した上、大きなお椀に山盛りの飯をよそって勧めたので、中納言はほうほうの体(てい)で帰ってしまったそうです。

頭に来た猫間中納言は、朝廷に帰って「全く大食らいのひどい奴です」と讒言しただろうと想像したのが3番目の句です。

やがて義仲は、源範頼・義経軍に攻められ、近江の粟津で最期を遂げます。これを詠んだのが4番目の句です。

10.源三位頼政(げんさんみよりまさ)

源頼政・鵺退治

・あくる日はもう鵺(ぬえ)の絵図鵺の絵図

・取り集め物を頼政射て落とし

・鵺の屁(へ)に蛇(くちなわ)ぐっと困って居(い)

・鵺を見に百人一首ほど寄りたかり

・夜という扁(へん)に鳥だと笏(しゃく)で書き

源三位頼政こと源頼政(1104年~1180年)は、平安時代末期の武将です。「平治の乱」では清盛方につきましたが、後に平氏打倒の兵を挙げて敗れ、宇治で自刃しました。

源三位頼政にもいろいろなエピソードがありますが、ここでは有名な「鵺退治」にまつわる句をご紹介します。

仁平(にんぺい)年間(1151年~1154年)、頼政は近衛院を悩ませる怪物退治を命じられます。怪しい黒雲が出ると院が御悩(ごのう)になるというので、頼政が紫宸殿(ししんでん)で待ち構えていると、案の定黒雲が出てきました。

雲の中に怪しい姿が見えるので矢を射ると、見事に当たって落ちてきます。よく見ると、頭は猿、胴体は狸、尾は蛇(くちなわ)、手足は虎という怪物「鵺」でした。

この怪物のことはすぐに評判になって、翌日にはその絵図を掲載した「瓦版(かわらばん)」が出ただろうというのが最初の句です。もちろん、この時代に「瓦版」などありません。「鵺の絵図 鵺の絵図」というのは、「瓦版」を売る「読売(よみうり)」の口調をなぞったものです。

「鵺」はまさにいろんな獣を取り集めた代物だというのが、2番目の句です。

「鵺」が屁をすると、尻尾の蛇は臭くて困るだろうと想像したのが3番目の句です。

「鵺」を見ようと、宮中の公家や官女がたくさん集まってきただろうと想像したのが4番目の句です。

公家たちは「ぬえという字は、夜扁に鳥と書くのだ」と笏で書いて、披露しただろうと想像したのが5番目の句です。

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