江戸時代末期の「孝明天皇」は「(妹の)皇女和宮降嫁」や、「明治天皇の父親」として有名ですが、それ以外のことはあまりよく知られていません。
そこで今回は「孝明天皇」の実像に迫ってみたいと思います。
1.「孝明天皇」とは
(1)江戸時代最後の天皇
「孝明天皇」(1831年~1867年)は、江戸時代最後の第121代天皇です。彼は父の遺志を受けて公家の学問所として「学習院」を創設しました。
孝明天皇は、生まれてから死ぬまで京都を離れたことがありませんでした。
1853年の「ペリー来航」以降、開国という新たな状況に直面し、困難な選択を迫られ続けました。しかし外国との交渉の矢面に立ったのはあくまでも幕府でした。
(2)政治的立場
彼は終生「攘夷鎖国」を望んでいましたが、「尊王攘夷派志士による過激な倒幕運動」には反対で、1860年には異母妹の和宮を第14代将軍家茂(1846年~1866年)に嫁がせるなど「公武合体運動」支持の立場でした。
(3)条約勅許問題
彼は1854年の「日米和親条約」(神奈川条約)は許しましたが、1858年の「日米修好通商条約」の勅許は拒否(条約勅許問題)し、攘夷の立場を取りました。
1858年2月に上洛した老中堀田正睦が条約調印の承認を求めた時、「諸大名の意見を聞いた上で判断する」として許可を与えませんでした。しかし同年6月幕府が独断で調印を行ったとの報告に接し、「譲位の意向」を表明します。8月には大老井伊直弼の幕政運営に不信を示す「戊午の密勅」を水戸藩と幕府に伝達します。しかし、9月に老中間部詮勝が上洛し、浪士に始まった捕縛が公家にも及びそうになったため、12月「鎖国の状態に引き戻すこと」を条件に条約調印を了承しました。
(4)皇女和宮降嫁
1860年の「桜田門外の変」で大老井伊直弼が暗殺された後、老中安藤信正らによる「公武合体」の要請を受けて前代未聞の政略結婚である「皇女和宮降嫁」を承認しています。和宮は「武家に降嫁した唯一の皇女」です。
彼はもともと、幕府を倒すつもりはなく、幕府と共存して皇室の地位を強めたいという考え方で、「皇女和宮降嫁」もその表れでした。
しかし、これは「倒幕派」にとっては都合が悪いことです。彼が1866年に疱瘡に罹りますが、病気回復中だったにもかかわらず、1867年に急死します。
明治天皇の外祖父である公家の中山忠能の日記にも、「天皇の病状を見ると、確かに不審な点がある。12日ごろ発熱し、16日に痘瘡と診断されたが、容態が快方に向かったところで激変したという」とあります。
幕末のイギリスの外交官アーネスト・サトウの「一外交官の見た明治維新」には、「この天皇は、外国人に対していかなる譲歩をなすことにも断固として反対してきた。そのために、来たるべき幕府の崩壊によって、否が応でも朝廷が西洋諸国との関係に直面しなければならなくなるのを予見した一部の人々に殺されたというのだ」とあります。
1940年(昭和15年)に日本医史学会関西支部大会の席上で、京都の産婦人科医で医史学者の佐伯理一郎氏が「孝明天皇が痘瘡に罹患した機会を捉え、岩倉具視がその妹の女官堀河紀子を操り、天皇に毒を盛った」という趣旨の論説を発表しています。
最初に学問的に暗殺説を論じたのは、「孝明天皇は病死か毒殺か」「孝明天皇と中川宮」などの論文を発表した歴史学者禰津正志(ねずまさし)氏です。彼は、医師たちが発表した「御容態書」が示すように、天皇が回復の道をたどっていたところが、一転急変して苦悶の果てに崩御したことに鑑み、「ヒ素による毒殺の可能性」を推定し、また犯人も戦前の佐伯説と同様、岩倉首謀・堀河実行説を唱えました。
「倒幕派による毒殺説」があるのも、理由なしとしません。
(5)八月十八日の政変
1863年8月18日には、孝明天皇・中川宮朝彦親王や会津藩・薩摩藩など「幕府への攘夷委任(通商条約の破棄、再交渉)を支持する勢力」が、「攘夷親征(過激派主導の攘夷戦争)」を企てる三条実美ら急進的な尊攘派公家と背後にいる長州藩を朝廷から排除するクーデターが起きます。これが「八月十八日の政変」と呼ばれるものです。
(6)禁門の変(蛤御門の変)
1864年7月には、「八月十八日の政変」で朝廷を追われた長州藩が再起を期していた矢先に、「池田屋事件」で多数の攘夷派志士が新選組によって殺害、逮捕されたことに憤激した長州藩兵と幕府側が京都御所付近で戦闘が起きます。これが「禁門の変」です。
結局、薩摩藩兵の来襲によって長州藩は敗退します。
(7)第一次長州征伐
これは1864年7月~12月に行われた「禁門の変で敗れた長州藩に対する追討」です。尾張藩主徳川慶勝が征討総督を務めました。長州藩は「下関戦争」で列国艦隊の砲撃で打撃を受けていたため、恭順派が藩の大勢を占め、降伏しています。
(8)第二次長州征伐
1865年になると、長州藩の藩論は高杉晋作らの「倒幕派」が優勢となり、幕府との和平交渉も打ち切られます。そこで幕府は将軍徳川家茂自ら指揮して1866年2月に「第二次長州征伐」を行います。
しかし、今度は諸藩が長州征伐に消極的な上、薩摩藩の後援を受けた長州藩は、幕府軍に次々と勝利します。8月には家茂が大坂城で死去したため幕府は長州征伐を中止します。長州藩は「下関戦争」で、薩摩藩も「薩英戦争」で欧米列強の力を十分認識し、攘夷は不可能と悟り、倒幕と開国は避けられないという判断で一致するようになっていました。
これにより、幕府の権威は完全に失墜します。
幕末のいろいろな出来事は分かりにくいですが、このように孝明天皇の視点から眺めてみると、よく見えてくるような気がします。
孝明天皇は、諸外国に蹂躙されることを恐れて攘夷鎖国に固執するとともに、幕府が弱体化しているのに乗じて皇室の優位性確保・実権回復を望んでいました。しかしあくまでも倒幕は考えていませんでした。
幕府は、相次ぐアメリカからの開国要求や条約締結要求になすすべもなく右往左往し、結局アメリカの恫喝に屈して開国と不平等な条約締結を余儀なくされてしまいますが、何とか幕府の延命を図ろうと公武合体などを画策します。
薩摩藩は当初「公武合体」の動きを見せ、長州征伐では幕府の命によって長州藩を倒そうとしていました。一方、長州藩は尊王攘夷派の志士が多く、倒幕を推進する勢いが強かったのです。しかし、両藩とも欧米列強の進んだ武力を目の当たりにして攘夷は不可能と判断し、坂本龍馬の仲介により、1866年に「薩長同盟」を結んで倒幕クーデターへと突き進みます。大義名分は「国難回避のため」でしょうが、薩長の下級武士を中心とした勢力による政権奪取の革命のようなものです。
孝明天皇、幕府、長州藩、薩摩藩のそれぞれがめざすところと立ち位置がわかると、策謀・画策などが渦巻き、政変・動乱が続く混沌とした幕末の状況がよく理解できます。
2.「明治天皇」との比較
孝明天皇は、屋台骨の傾いた幕府と手を組むことで、朝廷の実権回復を図ろうと考えたようですが、「攘夷」は諦めて「尊王」という天皇の権威を利用して「倒幕クーデター」を目論む長州藩や薩摩藩の目指す方向とは完全に違っていたので、毒殺されたのではないかと私は想像します。少なくとも倒幕派の邪魔になったというのは本当だと思います。そのため歴史の闇に葬られたのでしょう。
これは、過去の歴史を見ても、天皇や上皇が武家から実権を奪い返そうとして反乱を起こしても、結局鎮圧され配流されたことを見ても明らかです。
その点、明治天皇(1852年~1912年)は、薩長藩閥政府である明治政府によって現人神として祭り上げられた「象徴」(悪く言えば「傀儡」)ではあっても、無駄な抵抗はしなかったため、無事であったとも言えます。
明治政府も、「薩長藩閥政府」という弊害があったとはいえ、難しい国際情勢の中で、欧米の帝国主義列強に対抗するために「富国強兵政策」や「欧化政策」を取り、急速に西欧化を進めて日本が植民地になることから救ったという意味で大変功績があったと私は思います。