大正時代に学生の間で流行した「デカンショ節」の「デカンショ」は哲学者のデカルト・カント・ショーペンハウエルの略だという話があります。
これについては、前に「デカンショ節にまつわる面白い話。歴史や名前の由来などを紹介。」という記事に詳しく書いていますので、興味のある方はぜひご覧下さい。
ところで、この三人の哲学者の名前は知らない人もいないほど有名ですが、それぞれの人物の生涯や思想については、詳しく知っている方は少ないのではないかと思います。
そこで今回は、デカルトの人物と生涯についてわかりやすくご紹介したいと思います。
1.デカルトとは
ルネ・デカルト(1596年~1650年)は、フランスに生まれ、オランダなどで活躍した哲学者・数学者です。「合理主義哲学の祖」であり、「近世哲学の祖」(「近代哲学の父」)として知られています。
考える主体としての自己(精神)とその存在を定式化した「我思う、ゆえに我あり」は哲学史上で最も有名な命題の一つです。
そしてこの命題は、当時の保守的思想であったスコラ哲学の教えである「信仰」による真理の獲得ではなく、人間の持つ「自然の光(理性)」を用いて真理を探求していこうとする近代哲学の出発点を簡潔に表現しています。デカルトが「近世哲学の祖」(「近代哲学の父」)と称される所以です。
デカルトの生きた17世紀初頭のヨーロッパは急速に科学が発達した時代でした。デカルトは中世の神学から哲学を引き離し、懐疑的な立場に立つことが真の科学的で合理的な立場だとして哲学を展開しました。彼は、17世紀の科学革命を牽引した人物の一人でもあります。
ただし、デカルトはそのすべてを信仰に根ざして考えており、著書『方法序説』においても神の存在証明を哲学的にしようと試みてさえいます。
初めて哲学書として出版した著作『方法序説』(1637年)において、冒頭が「良識 (bon sens) はこの世で最も公平に配分されているものである」という文で始まるため、「思想の領域における人権宣言」とも言われます。
また、当時学術的な論文はラテン語で書かれるのが通例であった中で、デカルトは『方法序説』を母語であるフランス語で書きました。
その後のフランス文学が「明晰かつ判明」を指標とするようになったのは、デカルトの影響が大きいとも言われます。
2.デカルトの生涯
(1)生い立ちと学生時代
①生い立ち
デカルトは1596年に、中部フランスの西側にあるアンドル=エ=ロワール県のラ・エーに生まれました。父ジョアシャン・デカルト(1563年~1640年)はブルターニュの高等法院評定官でした。母からは、空咳と青白い顔色を受け継ぎ、診察した医師たちからは、20歳までに若死すると宣告されました。
母は病弱で、デカルトを生んだ後13ヶ月で亡くなります。母を失ったデカルトは、祖母と乳母に育てられました。
<朝寝坊のエピソード>
デカルトの私生活を語るうえで欠かせないキーワードが「朝寝坊」です。デカルトは体が弱く低血圧だったのか早起きが大の苦手でした。10歳でラ・フレーシュ学院に入学しますが、朝寝坊は一向に治りませんでした。ところがデカルトは成績がずばぬけて優秀だったことに加え、学院の校長が理解のある人物だったため、朝寝坊による遅刻を公認されるようなりました。
また、大学を卒業したデカルトは諸国を遊学したのち、オランダに住み思索に集中しますが、このとき知人に送った書簡には「私は毎日10時間は寝る」と記されており思う存分睡眠を貪った様子がうかがえます。大リーグエンゼルスの大谷翔平選手並みの睡眠時間ですね。
ところがデカルトの名声が知れ渡るにつれてオランダも居心地のよい場所ではなくなってきました。ちょうどスウェーデンのクリスティーナ女王から熱心な招聘をうけていたデカルトは1649年にストックホルムに移りますが、この女王が大変な早起きの人物で朝5時から哲学の講義を依頼されてしまいます。
慣れない早起きが災いしたのかスウェーデン移住から5ヶ月も経たないうちに肺炎を患いデカルトはあっけなくこの世を去ってしまいました。
②ラ・フレーシュ学院時代
1606年(10歳)、「イエズス会」のラ・フレーシュ学院に入学し、哲学科クラスでアリストテレスの学問体系による論理学と自然学、および形而上学を学びました。
「イエズス会」と言えば、日本に初めてキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエル(1506年~1552年)でおなじみですね。
1585年の時点で、イエズス会の学校はフランスに15校出来ており、多くの生徒が在籍していました。その中でもフランス王アンリ4世自身が邸宅を提供したことで有名なラ・フレーシュ学院は、1604年創立で、優秀な教師、生徒が集められていました。
イエズス会は反宗教改革・反人文主義(反ヒューマニズム)の気風から、生徒をカトリック信仰へと導こうとしました。そして「信仰と理性は調和するという考え」(プロテスタントでは「信仰と理性は調和しない」とされる)からスコラ哲学をカリキュラムに取り入れ、また自然研究などの新発見の導入にも積極的でした。
1610年に、「地動説」を唱えたガリレオ・ガリレイ(1564年~1642年)が初めて望遠鏡を作り、木星の衛星を発見したとの知らせに、学院で祝祭が催されたほどでした。ただし、哲学は神学の予備学としてのみ存在し、不確実な哲学は神学によって完成されると考えられていました。
デカルトは学院において勤勉で優秀な生徒であり、教えられる学問(論理学・形而上学・自然学)だけでなく占星術や魔術など秘術の類のものも含めて多くの書物を読みました。
「万有引力の法則」を発見した科学者のアイザック・ニュートン(1642年~1727年)ですら、晩年は錬金術や予言・不老不死薬の発見などのオカルト研究に没頭していました。ニュートンも、暗黒時代の中世の影をまだ引きずっていたのです。
少年時代のデカルトが、占星術や魔術などの秘術書を熱心に読んだのは、中世の呪縛から逃れられなかったということでしょう。
彼は学問では、特に数学を好みました。カリキュラムの一つである哲学的討論においては数学的な手法を用いて相手を困らせたそうです。のちにミニモ会士になり、終生の友人となるマラン・メルセンヌ(1588年~1648年)(後の神学者。数学・物理学のほか、哲学・音楽理論も研究しました)(下の画像)は、学院の先輩に当たります。
「ピタゴラスの定理」で有名な古代ギリシャの数学者・哲学者ピタゴラス(B.C.582年~B.C.496年)も、カルト教団の教祖のような側面を持っていました。「ピタゴラス教団」の教義に反する研究に手を出すなどの「規律違反者」は、船上から海に突き落として処刑するという恐ろしい掟がありました。
好んだ数学に対して、神学・スコラ学の非厳密性、蓋然性は際立ち、それを基礎にした学院の知識に対して、懐疑が生まれることになります。しかし、この学院での教育や教師たちに、デカルトは終生感謝の念を持ち続けました。
③ポワティエ大学時代
1614年(18歳)、デカルトはラ・フレーシュ学院を卒業し、ポワティエ大学に進み、法学・医学を修めました。1616年(20歳)、法学士の学位を受けて卒業します。
この後2年間は、自由気ままに生活したと考えられています。パリで学院時代の友人であるメルセンヌに再会し、偉大な数学者フランシス=ヴィエタの後を継ぐ者と騒がれた数学者クロード・ミドルジと知り合うなど、交際を広げました。
(2)遍歴時代
デカルトはスコラ哲学的な学問に満足できず、大学卒業後は「書斎で読まれるような書物」を捨てました。そして、猶予のない決断を迫る「世間という大きな書物」の中に飛び込んでいくことを決意します。
現代風に言えば「自分探しの旅」に出たわけですね。
わたしは教師たちへの従属から解放されるとすぐに、文字による学問(人文学)をまったく放棄してしまった。そしてこれからは、わたし自身のうちに、あるいは世界という大きな書物のうちに見つかるかもしれない学問だけを探究しようと決心し、青春の残りをつかった次のことをした。旅をし、あちこちの宮廷や軍隊を見、気質や身分の異なるさまざまな人たちと交わり、さまざまな経験を積み、運命の巡り合わる機会をとらえて自分に試練を課し、いたるところで目の前に現れる事柄について反省を加え、そこから何らかの利点をひきだすことだ。・・・<谷川多佳子訳『方法序説』岩波文庫 p.17>
①自然科学者との交流を求めてオランダに渡り、志願将校としてオランダ軍に入隊
1618年(22歳)、オランダに渡り、ナッサウ伯マウリッツの軍隊に加わります。
ただし、「八十年戦争」(1568年~1648年)(*)は1609年に休戦協定が結ばれており、実際の戦闘はありませんでした。
(*)1568年から1648年 にかけて( 1609年 から 1621年 までの12年間の休戦を挟む)ネーデルラント諸州が スペイン に対して反乱を起こした戦争。 これをきっかけに後の オランダ が誕生したため、 「オランダ独立戦争」とも呼ばれます 。
マウリッツの軍隊は近代化されており、ステヴィン等の優れた数学者、技師などの起用によって、新兵器の開発も盛んであったことが知られていました。デカルトは自然科学者との交流を求めて、マウリッツの軍隊を選んだとも考えられます。実際の戦闘に参加することが目的ではなかったようです。
1618年11月、オランダ国境の要塞都市ブレダにおいて、イザーク・ベークマンという、医者でありながら自然学者・数学者としての幅広い知識をもつ人物に出会います。ベークマンは、原子・真空・運動の保存を認める近代物理学に近い考えを持っており、コペルニクス(1473年~1543年)の支持者でもありました。
ベークマンは青年デカルトの数学の造詣の深さに驚き、そしてデカルトは、感化されるところまではいかないものの、学院を卒業以来久しぶりの知的な刺激を受けました。このときの研究の主題は、物理学の自由落下の法則・水圧の分圧の原理・三次方程式の解法・角の三等分のための定規の考案などです。処女作となる『音楽提要』はベークマンに贈られています。
②「三十年戦争」が勃発したドイツに渡り、旧教軍に入隊
1619年4月(23歳)、「三十年戦争」(1618年~1648年)(*)が起こったことを聞いたデカルトは、この戦いに参加するためにドイツへと旅立ちます。
(*)1618年のベーメンの反乱から始まったドイツのキリスト教新旧両派の宗教内乱から、ヨーロッパの各国が介入して国際的な宗教戦争となったもの。1648年、ウェストファリア条約で講和し、主権国家体制の確立をもたらしました。
これは、休戦状態の続くマウリッツの軍隊での生活に退屈していたことも原因でした。フランクフルトでの皇帝フェルディナント2世の戴冠式に列席し、バイエルン公マクシミリアン1世の軍隊に入ります。
③思索に専念する生活に入る
1619年10月からノイブルクで炉部屋にこもり、精神力のすべてをかけて自分自身の生きる道を見つけようと思索します。そして11月10日の昼間に、「驚くべき学問の基礎」を発見し、夜に3つの神秘的な夢を見ます。
そのなかで「真理の霊が神によって送られてきた」と感じ、「哲学全体を彼一人の力で新たにする仕事を神から与えられた」と確信しました。「神の啓示」のような「インスピレーション」によって自分の「天命」(*)を知ったということでしょう。
(*)孔子は「五十にして天命を知る」と言いましたが、デカルトは23歳にして天命を知ったことになります。余談ですがNHK朝ドラ「らんまん」の主人公のモデルとなった「日本植物学の父」と呼ばれる牧野富太郎も20歳になる前に「植物分類学」で身を立てることが自分の天命と確信していたようです。
デカルトは、べークマンとの研究で見出された「数学の統一」という思想のもと、自分一人の手によって、諸学問の連鎖を体系的に構築できるという確信を得たようです。
④軍籍を離れ各地を放浪
1620年(24歳)、軍籍を離れて旅に出、北ドイツ、オランダを経てフランスに帰り、1623年(27歳)から1625年(29歳)にかけて、ヴェネツィア、ローマを渡り歩きます。
(3)パリでの交流
旅を終えたデカルトはパリにしばらく住みます。その間に、メルセンヌを中心として、亡命中のトマス・ホッブズ(1588年~1679年)(下の画像・左)、ピエール・ガッサンディ(1592年~1655年)(下の画像・右)などの哲学者や、その他さまざまな学者と交友を深めます。
そして、教皇使節ド・バニュの屋敷での集まりにおいて、彼は初めて公衆の面前で自分の哲学についての構想を明らかにすることになります。そこにはオラトリオ修道会の神父たちもいました。
その創立者枢機卿ド=ベリュルはデカルトの語る新しい哲学の構想を理解し、それを実現させるべく努めることがデカルトの「良心の義務」だとまで言って、研究に取り組むことを強く勧めました。
1628年(32歳)、オランダ移住直前に、自らの方法について考察して『精神指導の規則』をラテン語で書きますが、未完に終わりました。
(4)オランダでの隠棲時代
1628年(32歳)に、新たな学問体系の構築に集中できる環境と自由を求めてオランダに移住します。その理由は、この国が「八十年戦争」によって立派な規律を生み出しており、最も人口の多い町で得られる便利さを欠くことなく、「孤独な隠れた生活」を送ることができるためでした。
32歳のデカルトは、自己の使命を自覚して本格的に哲学にとりかかります。この頃に書かれたのが『世界論』(『宇宙論』)です。これは、デカルトの機械論的世界観をその誕生から解き明かしたものでした。
しかし、1633年にガリレオ・ガリレイが地動説を唱えたのに対して、ローマの異端審問所が審問、そして地動説の破棄を求めた事件が起こります。これを知ったデカルトは、『世界論』の公刊を断念しました。
1637年(41歳)、『方法序説』および『屈折光学』『気象学』『幾何学』の3試論を公刊します。
1641年(45歳)、パリで『省察』を公刊します。この『省察』には、公刊前にホッブズ、ガッサンディなどに原稿を渡して反論をもらっておき、それに対しての再反論をあらかじめ付しました。
『省察』公刊に前後してデカルトの評判は高まります。その一方で、この年の暮れからユトレヒト大学の神学教授ヴォエティウスによって「無神論を広める思想家」として非難を受け始めます。
1643年5月(47歳)、プファルツ公女エリーザベト(1618年~1680年)(プファルツ選帝侯フリードリヒ5世の長女)(下の画像)との書簡のやりとりを始め、これはデカルトの死まできます。
エリーザベトの指摘により、心身問題についてデカルトは興味を持ち始めます。1644年(48歳)、『哲学原理』を公刊し、エリーザベトへの献辞を付けます。
1645年6月(49歳)、ヴォエティウスとデカルトの争いを沈静化させるために、ユトレヒト市はデカルト哲学に関する出版・論議を一切禁止します。
1649年(52歳)、『情念論』を公刊します。
(5)最後の旅
1649年の初めから2月にかけて、スウェーデン女王クリスティーナ(1626年~1689年)(下の画像)から招きの親書を3度受け取ります。そして、4月にはスウェーデンの海軍提督が軍艦をもって迎えにきます。
女王が冬を避けるように伝えたにもかかわらず、デカルトは9月に出発し、10月にはストックホルムへ到着しました。
1650年1月から、女王のために朝5時からの講義を行います。朝寝の習慣があるデカルトには辛い毎日でした。2月にデカルトは風邪をこじらせて肺炎を併発し、死去しました。享年53。
生まれた頃から病弱だったデカルトは、健康にとても気を使っていました。食に注意し、適度な運動を心がけていたため、30年ほどは病気らしい病気もなく過ごしています。また健康の維持は、デカルトの哲学の主題でもありました。
「健康こそが、この世のあらゆる善の基礎である」とも述べています。「一病息災」だったのですね。
このように健康管理を徹底していたデカルトですが、皮肉なことに風邪をこじらせ、53歳の若さで死去しました。生活習慣の変化は、デカルトにとってかなりの痛手だったのでしょう。
デカルトは、クリスティーナ女王のカトリックの帰依に貢献しました。「合理主義哲学の祖」であり、「近世哲学の祖」(「近代哲学の父」)として知られ、17世紀の科学革命を牽引した人物の一人でもあるデカルトですが、キリスト教(カトリック教)や神の存在からは逃れられなかったようです。「神は天と地、およびその間に存在するすべてを創造した」という言葉も残しています
デカルトの遺体はスウェーデンで埋葬されましたが、1666年にフランスのパリ市内のサント=ジュヌヴィエーヴ修道院に移され、その後、「フランス革命」の動乱を経て、1792年にサン=ジェルマン=デ=プレ教会に移されました。
3.デカルトにまつわるエピソード
(1)早死宣告
デカルトが1歳を迎えて間もなく、母親は弟を産んだ後に肺の病で命を落としました。弟もその数日後に亡くなっています。
そしてデカルト自身も幼少期からいつも病的に青白く、空咳をしていました。医者だった祖父には「20歳までに早死にする」と予告され、彼はそれを信じながら子供時代を過ごしていました。
しかしその病弱な体質のおかげで、彼はラ・フレーシュ学院で特別待遇を受けることになりました。今で言うと中高一貫の寮生活の学校でしたが、デカルトには個室が与えられ、朝寝坊も許可されていたのです。
彼の知的好奇心はこの学院生活で開花し、勤勉で従順な勉強態度はやがて学院での授業を越えた学問へも向き、あらゆる分野にその関心は広がっていきました。
(2)デカルトの恋愛事情
デカルトは生涯独身を通していますが、オランダ時代に召使のヘレナと言う女性と恋に落ち、娘が生まれています。フランシーヌと名付けました。
母娘はデカルトの家の近くに住み、定期的にデカルトの屋敷へ通っていました。公式には姪と偽っていましたが、デカルトはフランシーヌを溺愛していたそうです。
しかし、フランシーヌが5歳になった時、彼女は病により早世します。
娘を失ったデカルトの悲しみは、予想以上に深く、生前のフランシーヌの姿そっくりの「フランシーヌ人形」を作り傍に置きました。これにより、澁沢龍彦の「デカルト・コンプレックス」(*)という言葉が生まれてきました。
(*)「デカルト・コンプレックス」とは、一般的には「ピグマリオンコンプレックス」と呼ばれる「人形偏愛症(人形愛)」のことを指しています。
「ピグマリオンコンプレックス」は、ギリシャ神話にある「キュプロスの王であるピュグマリオンが自ら彫り上げた象牙の人形を溺愛し、彼は人形の命をアフロディテからもらったという話」が語源です。
(3)頭蓋骨の旅
デカルトは1650年にスウェーデンのストックホルムで死去し、その遺体はこの地の共同墓地に埋葬されました。
しかしスウェーデンはプロテスタントだったため、カトリック教徒だったデカルトの遺骨はその16年後にパリの修道院に移されます。彼の遺骨は、この修道院で安らかに眠るはずでした。
しかし時は流れて1812年、突然デカルトの頭蓋骨がストックホルムで発見されます。
そしてその後もその頭蓋骨だけが転々と場所を移し、ヨーロッパを旅することになったのです。
最終的は19世紀に科学者によってオークションで競り落とされ、フランスに帰還しました。
そして現在は、パリの人類博物館に展示されています。