「あいうえお」の「50音順」誕生の由来は?なぜ「いろは」から転換したのか?

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サンスクリット語

<2021/7/23追記>東京五輪2020の入場行進も「あいうえお」の「50音順」!

最初が近代オリンピック発祥の地であるギリシャ、最後が開催国の日本(206番目)ですが、その他の参加国は「あいうえお」の「50音順」で入場行進しました。

開催国の「郷に入っては郷に従え」ということでしょうか?

1964年の東京五輪をはじめ札幌オリンピック(1972年)、長野オリンピック(1998年)でも「英語のアルファベット順」でした。

現在の五輪憲章には行進順について明確な規定がなく、「先頭がギリシャ、最後が開催国、その他は開催国の言語順」に行進するのが慣例となっています。

1.「あいうえお」の起源

日本語の50音の「あいうえお」の順番は、どのようにして決まったのでしょうか?

戦前は、「いろは歌」の順番が普通だったように思います。(私は戦後生まれですので、実際にどうだったのかは、知りませんが・・・)江戸時代に作られた「以呂波歌留多(いろはかるた)」の存在や江戸火消し組の「いろは四十七組」(のちに1つ増えて「いろは四十八組」)、あるいは戦前の文書や戸籍では記載項目を分ける時も「い、ろ、は」が使われていたようです。

では、戦後に「あいうえお」順が出来たのでしょうか?

今回疑問に思って調べてみると、この「あいうえお」順は、実は古代インドの「梵語」(サンスクリット語)から来ていることがわかりました。

悉曇学(しったんがく)」という学問があります。これは、中国や日本における梵字に対する音韻の学問です。「悉曇」は、サンスクリット語のシッダム(siddham)を音訳した漢語です。

「悉曇」は、狭義では、母音字を指す言葉ですが、広義では子音字も含めてサンスクリット語を表す文字全般を指します。

「悉曇学」では、「ア」が基本で、前の「イ」と後ろの「ウ」で、母音の三角形が生まれます。「アイウ」はいわば主要3母音の位置づけです。それに高い「イウ」と低い「ア」との中間にある、前のグナ(エ音)と後ろのブルディ(オ音)が加わったものです。

この母音の「あいうえお」の順番は、中国語の「反切(はんせつ)」に由来するという説もあるそうです。

また、子音の「あかさたな」の順番もなぜどのようにして決まったのか気になりますよね。

これは、「悉曇学」の順で、喉の奥(例えば k)から唇(例えば p)に向けた子音の順です。各調音点では(k、kh、g、gh、n)のように、無気無声音、有気無声音、無気有声音、有気有声音、鼻音の順に並んでいます。

以上の閉鎖音に続き、流音(ラ行)、半母音(ヤ行とワ行)の順です。日本語にないものを飛ばすと、「あかさたな」の順になるということです。

以上の順序に外れたものは、「ハ行点呼音」など日本語内での変化によるものです。

「悉曇学」に関する著書としては、平安時代の安然が集大成した「悉曇蔵」(880年)、明覚の「反音作法」(1093年)「悉曇要訣」(1101年ころ)などがあります。

2.「あいうえお」の50音図の確定者

このように見てくると、「あいうえお」の50音図は、12世紀には出来上がっていたようです。

しかし、現在のような形に50音図を確定したのは、国学者・文献学者・言語学者で医師の本居宣長(1730年~1801年)です。

宣長以前にも50音図はありましたが、彼は古代の言葉を調べて、当時「あいうえ」「わゐうゑ」だったア行とワ行の「を」と「お」の所属を入れ替えて、現代でも使われている50音図に確定させました。

一方、長崎の出島でオランダ人が日本語を学ぶ時も、蘭学者が長崎でオランダ語を学ぶ時も、ローマ字で書かれた50音図を使っていましたので、国学者だけでなく洋学者も50音図に親しんでいました。

3.「いろは」から「あいうえお」への転換

(1)転換時期

小学校の国語教科書は、明治初年にはまだ「いろは」でした。しかし明治中期ごろに「いろは」順から「あいうえお」順に変更されたようです。

その転換点となったのは、1886年(明治19年)に刊行された「読書(よみかき)入門」です。これは尋常小学科1年の前期に使用することを前提に編纂された言語教科書です。ちなみにこの年は「教科書検定制度が採用された年です。それまでは既刊の教科書の適否を判断する開申制や認可制でしたが、検定で規制をより強くするためにモデルとなる教科書を文部省が編集して提示したわけです。

この「読書(よみかき)入門」では、「あいうえお」の50音図が冒頭に載り、「いろは」は巻末に付録のような形で載せられています。

辞書編纂においても、1886年(明治19年)に大槻文彦(1847年~1928年)が、日本初の近代的国語辞典「言海」を編纂していますが、索引が「あいうえお」の50音順となっています。

ただし、意外なことに西洋の思想や理論を積極的に導入しようとした福沢諭吉(1835年~1901年)は、「いろは」の支持者で、「いろはを知らなければ下足番もできない」と述べています。「あいうえお」の50音図はあくまでも「サイエンス」であり、人々の日常生活に役立つ「知識」は「いろは」だと考えていたようです。

(2)転換理由

考えられるのは、次の二つだと私は思います。

母音と子音に規則的に対応した科学性

ローマ字で書くとよくわかるように「あいうえお」の50音図は、母音と子音にきちんと規則的に対応していて、「科学的」と言えます。

一方「いろは」は、日本語の仮名文字47文字を一回ずつ使って一続きの意味のある文章にしたもので、「仮名文字の一筆書き」とも言えます。これは「言葉遊び」的にはなかなかよく出来たものですが、母音と子音に規則的に対応しておらず、「非科学的」と言えます。

その結果、「科学的」な「あいうえお」を選んだのではないかと思います。

いろは歌の仏教色を嫌ったため

「いろは歌」は、「五筆和尚」と呼ばれた弘法大師空海が作ったと言われているように、内容は仏教の「無常観」を表しています。

しかし明治政府は「国家神道」の観点から明治初年に「神仏分離令」(神仏習合の慣習を廃止し、神道と仏教、神と仏、神社と寺院とをはっきり区別させること)を出し、それによって起きた「廃仏毀釈運動」の影響もあって、仏教色の濃い「いろは」を避けて「あいうえお」の50音順図を採用するようになったのではないでしょうか?


あいうえお五十音図は明覚さんが映し出したことばの曼荼羅です。 [ 山口 謠司 ]

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