「ワークシェアリング」のメリット・デメリットとは?わかりやすく紹介します

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ワークシェアリング

最近は「カーシェアリングやシェアオフィス」、「ワーケーション」など「ワーク(仕事)」や「シェア(分かち合い)」に関する新語が続々と出て来ています。

これは、「ムリ・ムダ・ムラ」をなくすために「働き方の見直し」や「利用の仕方の見直し」を行い、「ワークライフバランス」を考える社会風潮があるからだと思います。

そこで今回はその元祖とも言うべき「ワークシェアリング」のメリット・デメリットについて、わかりやすくご紹介したいと思います。

1「ワークシェアリング」とは

(1)「ワークシェアリング」の意味

「ワークシェアリング」とは、「仕事を分かち合い、一人当たりの労働時間を短縮することで、社会全体の雇用者数の増大を図る考え方」です。一人当たりの賃金を下げてでも雇用を確保し、失業者を減らすことが主な目的です。

「ワークシェアリング」誕生の背景は、「長時間労働による労働者の過労死」や「失業による自殺の増加」が考えられます。

1980年代にオランダで本格的に始まり、ドイツ・フランスなどEU圏の一部で実験的に導入されています。特にオランダでは、失業率を大幅に低下させた実績があります。

しかし日本では、独自の雇用環境があるため、まだ普及していません。

(2)厚生労働省の分類

厚生労働省は次の四つのタイプに分類しています。

①多様就業対応型

②雇用創出型

③雇用維持型(中高年対策)

④雇用維持型(緊急対応)

この中で、2002年に日本の政労使間で検討されたのは、①と④のタイプです。

①は、「勤務時間や日数の弾力化、フルタイムのパートタイム化」などの手法により、現在の労働者と潜在的な労働者との間で仕事を分かち合い、社会全体で雇用機会を創出することが目的です。

④は、一時的な景気悪化を乗り越えるために、緊急避難措置として、「従業員一人当たりの所定内労働時間の短縮」により、多くの雇用を維持する目的で実施するものです。これは、雇用されている従業員間で仕事を分かち合う形になります。

2.「ワークシェアリング」のメリット・デメリット

(1)メリット

①長時間働いている人は、労働時間を削減でき、過労死の防止や離職率引き下げが期待できる

②仕事を求めている人は、仕事を確保でき、失業率引き下げが期待できる(雇用創出の実現)

③高齢者雇用や女性の社会進出が期待できる

④趣味に時間を費やすなど個人消費が活発化し、経済効果が期待できる

(2)デメリット

①一人一人の給料の手取りが減る

②正社員と非正規社員との格差の是正をしないまま雇用形態の多様化を進めると、低賃金労働者が増加する恐れがある

③仕事を多人数でシェアするため、業務の引継ぎが必要になり、生産性が低下する恐れがある

④給与削減が個々の従業員の意欲の減退を招き、効率や生産性が低下する恐れがある

3.「ワークシェアリング」の導入事例

(1)諸外国

①オランダ

オランダは1980年代前半、「オランダ病」と言われるほどの大不況に見舞われました。それを機会に「ワークシェアリング」が一気に広まりました。

1996年には、「フルタイムの労働者」と「パートタイムの労働者」の時給や福利厚生などの条件に格差をつけることを禁止する「同一労働条件」を取り決めました。

②イギリス

イギリスでは1977年から「ワークシェアリング」の概念が導入されています。これは失業者の雇用機会を創出するための「早期退職制度」の導入です。(雇用創出型ワークシェアリング)

③フランス

フランスでは1982年の「労働改正法」によって、法定労働時間の1時間短縮を行いましたが、あまり効果がありませんでした。

その後も雇用不安が続いたため、2000年に「オブリ法・第二次法」の成立によって、法定労働時間を週35時間としました。

④ドイツ

ドイツでは、労使協約によって、不況で失業者を出さないために「労働時間の短縮」によるワークシェアリングが行われました。(緊急対応型ワークシェアリング)

(2)日本

日本ではトヨタ自動車が導入しました。その理由は不況による業績悪化を受け、雇用を維持しながら状況改善を図るためです。具体的には「一人当たりの労働時間を1割ずつ減らし、給料も1割ずつ削減しました。

4.江戸時代の「武士のワークシェアリング」

実は江戸時代の日本でも、「武士のワークシェアリング」が行われていました。

(1)経済的に困窮した長州藩:リストラか雇用の維持か?

長州藩毛利家は、関ヶ原の戦いの敗北によって、中国地方八カ国であった領地が防長二国に削減されるという憂き目に逢いました。

それでも長州藩は、「家臣をそれほど減らさずに、個々の家臣の知行を大幅に削減する」ことで乗り切りました。

大名は「家臣あっての大名」なので、主従ともに苦労に耐える道を選んだのです。

長州藩では、その後も経済的困窮が続いたため、第二弾の対策として「上知(あげち)」を行いました。

これは「家臣の知行の一律20%借り上げ」です。「借りる」という形ですが、実質的には「給与の2割削減」によって、藩財政の赤字を補填しようとしたのです。

(2)江戸幕府:「月番制」で不正も防止

「月番」とは、「同じ任務を月によって担当者を替えるシステム」のことです。

①町奉行

現在の「東京都知事」と「警視総監」と「東京高等裁判所判事」の権限を持っていたのが「町奉行」です。「行政・警察・司法」の三権を併せ持つ非常に重い役職です。

町奉行は「北町奉行」と「南町奉行」の二人がいました。北町・南町というのは、「奉行所のあった位置による名称」であって、江戸を南北に分割して担当したわけではありません

両町奉行は「月番」で業務をこなしました。北町奉行が4月の担当だとすると、江戸の庶民は北町奉行に民事の訴訟を持ち込み、刑事事件も4月はすべて北町奉行所が担当しました。

そして5月になると、南町奉行所の担当になります。北町奉行所は5月には、4月に起こった訴訟や事件の処理を行いました。このような分担が「月番制」です。

1年を通じて奉行所を開いていた場合は、とても処理できないほどの量の訴訟や事件を円滑に処理するためのスマートな仕組みです。

そして注目すべきは、一方の町奉行の専管ではなく、「決裁されたことは、町奉行の合議により共通の了解事項になった」ことです。

また、町奉行の処理は最終決定ではなく、閣僚である老中の決裁を受ける必要がありました。そのためにも、両町奉行は、会議を通して統一的見解を持っていなければならなかったのです。

これは、一方の町奉行の行き過ぎや不正防止にも役立ちました。

②老中

老中は3人~6人で構成されましたが、これも「月番制」が取られていました。

月ごとに交替する「月番老中」が、大名からの進物の将軍への披露、大名の嘆願の処理などを担当しました。

そしてそれは、老中の合議によって共通の認識となりました。正式な決定は、将軍の決裁を受けた上で、老中全員の連署による「老中奉書」によって通達されました。