高碕達之助は日中国交正常化にも貢献した高槻出身の政治家。荘川桜保護に尽力。

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高碕達之助

高碕達之助という名前を聞いても、ご存知の方は少ないと思います。しかし「ダム湖底に沈む運命にあった荘川桜を救った人」と言えば、思い出してくれる人もいるのではないでしょうか?

そこで今回は高碕達之助の生涯についてご紹介したいと思います。

1.高碕達之助とは

(1)生い立ち

高碕達之助(1885年~1964年)は、満州重工業開発(株)総裁、電源開発初代総裁、初代経済企画庁長官、通産大臣などを歴任した高槻市出身の実業家・政治家です。

高槻市の農家の三男に生まれ、旧制茨木中学(現大阪府立茨木高校)に進学しました。当時は高槻市には旧制中学がなかったためです。

中学在学中、政治地理の授業中に先生の言った「国土が狭小で資源の乏しい日本は繊維工業ではなく、四方を囲んだ海を利用して水産業で発展して行くことこそ進むべき道である。日本にはその水産についての専門学校がある。農商務省直轄の水産講習所(後の東京水産大学→現東京海洋大学)である」という言葉に感化を受けた彼は漠然と水産業の道を志すようになりました。

(2)水産講習所・渡墨

卒業の頃は首席になっていた彼ですが、周りが旧制高校への進学を志望する中、親の反対も押し切って水産講習所への進学を決意しました。

彼が水産講習所へ行かず、高校・大学へと進んでいれば、官僚になったかもしれませんが、違った人生となっていたでしょう。

「旧制中学の先生の影響力恐るべし」という感じですが、戦時中は先生が「(旧制)高校よりも、「海軍兵学校」や「陸軍士官学校」を受験して軍人になるように、盛んに奨励していた」という話を聞いたことがあります。ただし旧制高校に進学し、大学に入学しても「学徒出陣」で戦場に駆り出されて命を落とす運命だったかもしれませんが・・・

1906年(明治39年)に水産講習所を卒業後、三重県津市を本拠とする「東洋水産」という缶詰製造会社に技師として就職します。イワシの缶詰をアメリカに輸出するために設立された会社でしたが、アメリカでの売れ行きが悪く事業は失敗に終わりました。

1911年、彼はメキシコの太平洋沿岸の水産調査に協力するため、メキシコに派遣されることになりました。彼はアメリカ・サンディエゴに本拠を置く「メキシコ万博漁業」という水産会社と3年の雇用契約を結び働き始めました。

1912年、マグダレナ湾内のサンタマルガリタ島に缶詰工場が建設されることになり、彼が派遣されます。当時この島は、アメリカが米太平洋艦隊の艦砲射撃基地として、メキシコと契約していましたが、米墨関係が冷え込んだため、メキシコが契約を打ち切るという運の悪い時期でした。

しかも、この頃は日米関係も冷え込んでいたため、彼は「この島に秘密裏に日本海軍の基地を建設するために派遣されたスパイ」という嫌疑をかけられましたが、水産講習所時代に来日し親交のあったスタンフォード大学総長のデイビッド・スター・ジョーダンの紹介で、後のアメリカ大統領ハーバート・フーバーの尽力によって疑いを晴らすことが出来ました。

1913年にメキシコ革命が起こると、彼はアメリカに移って製缶詰工業の研究を中心に行い、1914年に帰国しました。

(3)東洋製罐設立・満州での製鉄事業

帰国後すぐにカムチャツカへ渡り、日魯漁業(現ニチロ)創業者の堤清六の作った缶を購入してサケの缶詰作りを行いましたが、短期間で日本に引き揚げています。そして1917年に資本金50万円で製缶会社「東洋製罐」を設立しました。

1937年に日中戦争が勃発すると鉄の供給が滞り始め、満州重工業開発(株)に鉄を譲ってもらう交渉をすることも考えましたが、時局柄満州で鉄生産を手伝うことになり、総裁の鮎川義介(日産コンツェルン創設者)に誘われ、同社副総裁に就任しました。同社ではコスト削減に注力し、1942年には鮎川義介に代わって総裁になりました。

1945年8月8日のソ連対日参戦によってソ連軍が満州に攻め込んでくると、彼は子供や老人の疎開の談判に奔走しました。しかし8月12日に極度の疲労と日射病で倒れ、目が覚めたのはポツダム宣言受諾後の8月17日だったそうです。

その時、満州国政府要人や関東軍幹部などは捕らえられ、残されたのは一般人だけでした。彼は日本人会会長として、帰国できないままの日本人の帰還交渉をソ連側と始めましたが、1946年4月になるとソ連軍は撤退し、中共(中国共産党)軍が進出して来ました。そこで今度は中国共産党や国民政府と帰還交渉を進めることになりました。

彼は1947年に国民政府から賠償の調査に内地出張を命じられ、日本へ帰還しました。同年に東洋製罐相談役に就任し、戦時中に遅れた技術を取り戻すため、アメリカの企業と提携するなど特に製鉄事業の再興に努めました。

(4)電源開発総裁就任

1952年、当時の吉田茂首相に 請われて、「電源開発」の初代総裁に就任しました。当時、最も工事が進んでいた木曽川の丸山ダムを視察して技術の遅れを痛感し、アメリカのダム建設現場を視察し、佐久間ダムにアメリカ式工法の導入を決めました。

そのほかにも、只見川の田子倉ダムや庄川の御母衣(みほろ)ダムの事業計画にも携わった後、1954年に総裁を辞任しました。

(5)政界進出

電源総裁を退いた彼は、今度は新しく首相に就任した鳩山一郎に請われて、経済審議庁(後の経済企画庁、現在は内閣府に統合されています)長官として入閣しました。

彼は最初は政治家になるつもりがありませんでしたが、入閣するとそうもいかなくなり、1955年の衆議院議員選挙に大阪3区から出馬し、トップ当選を果たしています。

1955年の「アジア・アフリカ会議」(バンドン会議)には鳩山首相の代理で日本政府代表として出席し、ネルー・ナセル・周恩来らと親交を深めています。1956年には日比賠償協定の首席全権としてフィリピンとの国交正常化の実現に当たりました。

1958年には岸信介内閣の通産大臣に就任しました。同年日ソ漁業交渉の政府代表となり、北方領土付近での漁船の安全操業に尽力しました。

1962年には、訪中経済使節団団長として北京へ渡り、廖承志(アジア・アフリカ連帯委員会主席)と会談し、「日中総合貿易に関する覚書」に調印しました。

LT貿易

それまで友好商社間で小規模に行われていた日中貿易は、この覚書締結後、「LT貿易」(廖承志と高碕達之助のイニシャルLとTからこう呼ばれる)として半官半民の大規模な交易がおこなわれるようになりました。これが1972年の田中角栄首相と周恩来首相による日中国交正常化まで続くことになります。

こうして彼の波瀾万丈な人生を振り返ってみると、「人間万事塞翁が馬」ということわざを実感します。

2.荘川桜

荘川桜

彼は1954年に「電源開発」総裁を辞任しました。しかし、総裁を辞任した後も、岐阜県高山市荘川村(現荘川町)の御母衣ダムの建設反対派住民との対話を続けて住民の理解を促し、建設に際してはダム湖底に沈む運命にあった「荘川桜の保全」を提案するなど御母衣ダム建設事業では大きな役割を果たしました。

彼は、植物学者で「桜博士」と言われた笹部新太郎とともに、村の寺の境内にあった樹齢400年にも及ぶエドヒガンの「荘川桜」の移植事業を推進しました。現在もダムを望みながら悠々と立つ荘川桜の傍らには、「ふるさとは水底となりつ移し来しこの老桜咲けとこしへに」という彼の詠んだ歌が刻まれた石碑が建てられています。

この荘川桜の物語は、水上勉の小説「櫻守」にも描かれています。

なお、高槻商工会議所の前にも移植された「荘川桜」があります。