「ピカソは本当に天才画家だったのか?」という素朴な疑問について考える

フォローする



パブロ・ピカソ

ピカソの絵を初めて見て、「すごい!天才画家だ!」と本心から思う人がいたとしたら、私はぜひお目にかかりたいものです。

ピカソ・泣く女ピカソ・女

ほとんどの人が、「子供が描いたような絵だ」「訳が分からない絵だ」「顔の様子も変な絵だ」という感想を持たれるのではないかと思います。これは正直な感想だと私は思います。

人は、世間で「すばらしい天才画家の絵だ」という評判があると、そういう評価に引きずられて「確かにすばらしい天才画家の絵だ」と思い込む傾向があります。

しかし、世評はどうであれ、虚心坦懐に自分の目で見て、自分の正直な心で率直に芸術作品を鑑賞し、評価してみることも大切だと私は思います。

今回はそういう観点からピカソについて考えてみたいと思います。

1.ピカソは本当に天才画家だったのか?

(1)ピカソはもともと「優れたデッサン力」を持っていた

ピカソ・男性の右の顔ピカソ・科学と慈愛

上の「男性の右の顔」(1892年)と「科学と慈愛」(1896年頃)は、ともにピカソの少年時代(11歳から15歳の頃)の作品です。確かなデッサン力と古典的な様式に則った優れた絵画技法が感じられます。

(2)絵画が高値で取引されるバブルを迎え、画商が投機対象となるスター画家を求めていた

アビニヨンの娘たち

「アヴィニヨンの娘たち」(1907年)の右側の「仮面」のような顔は、パリの民族誌博物館でアフリカの仮面を見て着想を得たそうです。

ピカソは「優秀な芸術家は模倣し、偉大な芸術家は盗む」という言葉を残しています。

この絵は、ピカソが自分自身を「前衛画家」として世に知らしめ、絵画の未来を担うと宣言するために描いたそうです。それまでの「美」を破壊しようとする明らかな意図があったわけです。今後の絵画界を担う「王」としてのピカソの野心です。

「アヴィニヨンの娘たち」を高値で買い取った画商ヴォラール(1866年~1939年)は、投機対象としてスターになりうる画家を探していたところでした。ヴォラールは無名の画家の作品を安く買い、有名にして高く売って財を成した抜け目ないビジネスマンだったと言われています。

ルノワール・セザンヌ・ボナール・ピカソたちが彼の肖像画を描いています。

画商ヴォラールの写真ヴォラールの肖像ルノワールヴォラールの肖像セザンヌヴォラールの肖像ボナールヴォラールの肖像ピカソ

3年前にゴーギャンが亡くなり、セザンヌも健康を害していることから、ヴォラールが何としても新たな「前衛画家」のホープを確保する必要に迫られていたことも、ピカソに幸いしたのです。

これ以降、ピカソの作品はどんどん値上がりして行きます。

(3)「依頼者に合わせて絵を描き分ける」非凡な器用さがあった

ピカソ・オルガの肖像

「肘掛け椅子に座るオルガの肖像」のモデルのオルガは、ロシアのバレリーナでピカソの一人目の妻です。オルガからは「誰が見ても私だとわかるように描いて」と言われて描いたもので、ピカソの代名詞であるキュビズムのわかりにくさは全く見られません。

(4)ほかの画家の画風を真似て「画商」に自分の絵を高く売りつける才能があった

ピカソが画商たちの間で前衛画家のホープとして期待されるようになったのは、キュビズムのような難解な絵ではなく、あくまでも古典的・写実的な絵画によってだそうです。

作品のイメージは、巨匠シャヴァンヌの画風に、ロートレックやゴーギャンといった当時すでに一定の評価を確立していた後期印象派の作風をブレンドしたもので、あくまでも基本は写実にありました。批評家の中には、あまりに巧みな折衷ぶりに、彼が器用貧乏に終わることを危惧する向きもあったそうです。

その上で彼は、「カメレオン」のように、その時々の市場の状況(時流)に合わせて、自身の作風を変幻自在に転換して見せたそうです。

印象派の販売で定評のある画商には、印象派風の作品を描いて渡すだけでなく、その画商や家族の肖像画まで印象派風に描いてたそうです。

画風の幅も、最先端のキュビズムから印象派のルノワール、さらにはナポレオン時代の巨匠アングルの作風まで含まれていたそうです。まるで「贋作画家」のようですね。

つまり彼は、何を描けば価値が出るかを戦略的に考える「絵画ビジネス」の才能・センスを持ち、それを実現する技術力があったということです。

(5)生前に画家として認められ「作品量産」によって「経済的(金銭的)成功」を実現した

91歳まで生きた彼ですが、生涯作品数は約13,500点の油絵と素描、10万点の版画、3万4,000点の挿絵、300点の彫刻と陶器を制作しており、ギネスブックに「最も多作な美術家」と記されています。

(6)「画家としての成功」と「自由奔放な恋愛生活」を両立させる才能があった

ゲルニカ壁画

「ゲルニカ」(1937年)の創作時のエピソードと美術史家の評価は、次の「2.ピカソとは」に詳しく書いています。

ピカソの最大の作品は、「ピカソの偶像」だったとも言えます。

2.ピカソとは

パブロ・ピカソ(1881年~1973年)は、スペイン出身で主にフランスで制作活動をした画家・彫刻家です。キュビズム(立体派)の創始者で「20世紀最大の芸術家」とも呼ばれています。

彼の私生活における女性関係は自由奔放で、結婚しては愛人を作って浮気をしていました。

オルガ・ピカソの妻マリー・テレーズ・ワルテル

彼は最初オルガ・コルオーヴァと結婚していましたが、デパートの前にいたマリー・テレーズ・ワルテルに一目惚れして、彼女の腕をつかみ「君の絵を描きたい。私はピカソだ」と口説いたそうです。彼は当時45歳で彼女は17歳でした。

マリー・テレーズは芸術に興味がなく、欲もなかったので、伸び伸びとした付き合いができたそうです。しかし彼女が妊娠して子供を産んだ途端、ピカソは創作意欲を失ったそうです。

ドラ・マール

そして55歳の時、当時29歳のカメラマン・画家のドラ・マールという女性と交際を始めます。しかしマリー・テレーズとの間で喧嘩になり、女性二人から「どっちを選ぶのか?」と問い詰められますが、彼は「戦って決めればよい」と言って女性二人に喧嘩をさせ、その様子を笑顔で見ていたそうです。これは正妻・愛人二人とピカソという「四角関係」ですね。

その喧嘩を見て創作意欲が湧いたのか、そのころ「ゲルニカ」という争いの空しさを表現した作品を描いています。

ゲルニカ」について、美術史家の宮下誠氏は「全体としてキリスト教的黙示録のヴィジョン、死と再生の息詰まるドラマ、ヒューマニズム救済の希求、すべてを見抜く神の眼差し、それでも繰り返される不条理な諍いと死、人間の愚かさと賢明さ、人知を超えた明暗、善悪の葛藤の象徴的表現の最良の結果を描いている」ともっともらしく難解な表現で賞賛しています。

しかし、実際の芸術家ピカソとしては、そんな高邁な思想を表現したのではなく、二人の女性の喧嘩にインスピレーションを得て、自分の好きなように描いただけではないかと私は思います。

フランソワーズ・ジロー

さらに62歳のピカソは、当時21歳の画学生フランソワーズ・ジローと同棲生活を始め、二人の子供も生まれました。

しかし彼は自分は自由奔放な反面、相手を束縛する勝手な性格のため、フランソワーズ・ジローは彼に愛想をつかして子供を連れて出て行き、他の男性と結婚しました。

ピカソを捨てたフランソワーズ・ジローが、子供の認知を彼に求めた時、彼は「復縁」を条件に認知に応じます。しかし、その時すでにピカソは別の女性ジャクリーヌ・ロックと再婚していました。自分を捨てたことへの復讐だったのでしょうか?

ジャクリーヌ・ロック

ジャクリーヌ・ロックは、ピカソの最後の妻です。ちなみに、フランソワーズ・ジローは後にアメリカ人の科学者と再々婚しています。

余談ですが、ピカソは1911年に発生した「名画モナリザ盗難事件」の容疑者の一人に挙げられたことがあります。彼がかつてルーブル美術館の彫刻を盗難品と知らずに購入したことがあったためです。

なお、この事件の犯人は2年後に逮捕されました。美術館に出入りする職人だったそうです。

3.「天才」や「偉人」に対する多面的な見方の必要性

前に「松尾芭蕉」、「石川啄木」、「夏目漱石」「伝記(偉人伝)」などの記事で、「天才」や「偉人」に対しては崇拝者や信奉者が偶像化・神格化した賞賛だけでなく、多面的な見方をしないとその実像に迫れないことを書きましたが、ピカソについてもそれは当てはまります。

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村