元寇は日本が侵略を受けた最初の出来事。原因などをわかりやすくご紹介します

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蒙古襲来

「元寇(げんこう)」は、かつては「蒙古襲来」という名前で呼ばれていましたが、日本が外国からの侵略を受けた最初の出来事です。

鎌倉武士の奮闘に加えて「神風」の幸運もあって蒙古を撃退できたのですが、詳しい経緯はあまり知られていないように思います。

そこで今回は「元寇」の原因や経過について、わかりやすくご紹介したいと思います。

1.元寇とは

「元寇」とは、「鎌倉時代中期に当時中国を支配していたモンゴル(元)およびその属国の高麗の連合軍が日本に侵攻して来た事件」です。「文永・弘安の役(ぶんえいこうあんのえき)」とも言い、当時の史料的表現(「蒙古襲来絵巻」など)では「蒙古襲来」と言います。

2.元寇が起こるまでの経緯と原因

元は1259年に朝鮮半島の高麗を征服した後、高麗を通じてたびたび日本に属国になるよう「服属」を迫りました。しかし鎌倉幕府がこれを拒否したため、二度にわたる日本侵略に及んだものです。

当時の元は、東は高麗・中国から西はヨーロッパの一部までを領土とする世界最大の帝国でした。下の図の赤い部分が元の領土で、緑の部分が属国です。

蒙古の領土

その後に起こるヨーロッパ列強の「帝国主義」と同様に、「領土拡張主義」「覇権主義」の権化のような帝国だったわけです。

フビライ・ハン

元の皇帝フビライ・ハン(1215年~1294年、皇帝在位:1260年~1294年)は、高麗人の官吏から日本を服属させることを進言され、1268年に高麗を通じて日本に対して服属を要求する国書を送ったのです。

マルコ・ポーロ

イタリアのベネチアの商人で旅行家のマルコ・ポーロ(1254年~1324年)の「東方見聞録」に、日本(ジパング)が黄金の国と書かれていたことから、フビライ・ハンは日本の富にも関心を持ったようです。マルコ・ポーロはフビライ・ハンに厚遇され、17年間も元に滞在しています。

北条時宗

日本の執権北条時宗(1251年~1284年、執権在職:1268年~1284年)は、若干17歳でしたが毅然としてこの国書を無視し、使者を手ぶらで帰しました。これは「服属の拒否」を意味しています。

なお、この判断は北条時宗の独断ではありません。当時の国政は「外交」は朝廷の担当であったため、幕府は朝廷に国書を回送しました。朝廷では、院政を敷く後嵯峨上皇のもとで連日評定を続けたようです。

鎌倉幕府でも渡来していた南宋の禅僧から、大陸でのモンゴル帝国の暴虐や日本への野心があるとの報告も受けており、蒙古軍の襲来に備えるよう御家人に通達しています。

北条時宗は、鎮西に所領を持つ東国御家人に対して鎮西に赴くよう命じ、守護の指揮のもとに蒙古襲来に備える「異国警固体制」を敷いています。

その後、元は何度も使者を日本に送りましたが、ことごとく服属交渉は失敗に終わっています。最後の方の使者は交渉は諦め、戦争は不可避と判断して港の状況を偵察するなど日本侵略のための下調べに注力していたようです。

3.「文永の役(一回目の侵略)」(1274年11月4日~11月19日)

1274年1月、フビライ・ハンは日本を征服するために、服属させた高麗に対して日本征伐を目的とした船の建造を命じています。

3万5千人の人員と大量の木材を使い、わずか10カ月で大型船200隻、中型船350隻、その他の船350隻の合計900隻の大艦隊を編成して、1274年10月に元と高麗の連合軍(以下、元軍という)は高麗を出発しました。

この時の元軍は総勢3万人で、鎌倉幕府はこれを迎え撃つために九州中心の武士を大宰府に集結させました。

最初に襲われたのは、壱岐・対馬でした。元軍は壱岐・対馬に上陸するとたちまち島全体を制圧し、島の領主は討ち死にし、男性のほとんどが殺され、女子供は捕虜となって奴隷とされました。

その後、元軍は博多に上陸し、本格的な激しい戦闘が始まりました。

元軍は毒矢や火薬を用いて日本軍を攻め立てましたが、鎌倉武士は元軍の予想を上回るほどの戦闘能力で死に物狂いで応戦しました。

やがて、元軍の大将格の武将が負傷すると元軍は撤退を開始したため、何とか日本は勝利を収めました。

4.「弘安の役(二回目の侵略)」(1281年6月8日~8月22日)

1274年11月19日に元軍が撤退してようやく平和が訪れたように見えましたが、フビライ・ハンは日本征服を決して諦めてはいませんでした。1275年2月に元から5人の使節団が来日し、再び日本に服属を求めて来ました。

しかし、せっかく文永の役で勝利したのに、ここで服属したのでは武士の棟梁の威厳にかかわるとして、北条時宗は長門国に到着した使節団5人を鎌倉に連行し、斬首に処しました。

フビライ・ハンは、かねてから対立していた中国の南宋を1279年に征服すると、再び日本への侵略を計画し始めます。

1281年に元の第一軍(東路軍)1000隻が出航します。兵数は4万人で文永の役より1万人増えています。さらに南宋・寧波から10万人以上の超大軍(江南軍)を出撃させています。

日本側は二度目ということもあり、「防塁」などで迎撃態勢を整えていました。

「防塁」のおかげで、元軍は前回と打って変わって苦戦を強いられます。さらに日本軍の夜襲などで甚大な被害をこうむります。さらにこの時7月、とどめを刺すかのように日本に「神風」(台風)が吹き荒れます。

元軍の船は突貫工事で建造したものだったため、「神風」に耐えることができず、次々と沈没しました。そして、日本軍は勝利して2万人~3万人の元軍の兵士を捕虜とし、元軍は壊滅的損害を受けて撤退しました。

元軍は馬を使った陸戦は得意でしたが、海戦は不得手であったことや、征服された高麗や南宋から駆り集められた兵が多く、士気は高くなかったことも敗因と考えられます。

5.元寇が鎌倉幕府滅亡へとつながった原因

元寇によって、それまでの幕府と御家人との関係であった「御恩と奉公」の関係が崩壊しました。

これまでの戦いは日本国内の争いであったため、勝てばそこの領地を御家人に分配することができました。

しかし元寇は日本の防衛戦争であったため、戦いに勝ったと言っても元の属国になることを免れただけで、元の領土を取れるわけではありません。

そのため、九州中心の御家人たちは元寇の時の戦費を払えなくなり、借金に苦しむようになったのです。

幕府は御家人の窮状を救うために1297年に「永仁の徳政令」を発布し、借金の棒引きを命令しましたが、効果は今一つでした。大損した商人は御家人に金を貸さなくなり、御家人の生活はさらに苦しくなったのです。

そして生活に困窮した御家人たちはたち、「悪党」として幕府に歯向い始め、最終的に鎌倉幕府滅亡へとつながって行きます。

6.現在の日本を取り巻く状況

日本が初めて外国から侵略を受けたのは上に述べた通り「元寇」ですが、聖徳太子が遣隋使小野妹子に持参させた「隋に対する対等な立場での国書」をめぐる問題で、隋から侵略を受けるリスクがありました。

太平洋戦争中は、アメリカによる日本本土爆撃(空襲)や原爆投下があり、太平洋戦争終結前後には日ソ不可侵条約を破ったソ連による北方領土侵略があり、現在も不法占拠が続いています。

戦後は韓国軍が島根県の竹島に上陸して不法占拠を行い、現在も不法占拠状態が続いています。

また最近では、中国が尖閣諸島周辺で領海侵入を繰り返しており、上陸して不法占拠するリスクが高まっています。

日本政府におかれましては、このような厳しい状況を再認識していただき、毅然とした「島嶼(とうしょ)防衛」の具体的政策の発動をお願いしたいと思います。

「権利の上に眠る者は法の保護に値しない」という法格言もあります。「事なかれ主義」や「先送り主義」を続けていると、大きく日本の国益を損ね、国土防衛が危うくなります。