「不易流行」は本質的なことを忘れず、新しい変化も取り入れること

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不易流行とは

1.「不易流行」とは

「不易流行」とは、「いつまでも変化しない本質的なものを忘れない中にも、新しく変化を重ねているものをも取り入れて行くこと」です。また、「新味を求めて変化を重ねて行く流行性こそが、不易の本質」であるということです。

進化論」で有名なチャールズ・ダーウィン(1809年~1882年)も「強い者、頭の良い者が生き残るのではない。変化する者が生き残るのだ」と述べています。

2.松尾芭蕉

俳聖・松尾芭蕉(1644年~1694年)は、「奥の細道」の旅で歌枕の地に実際に触れ、「変わらない本質」と「流れ行く変化」の両面を実感し、蕉風俳諧の理念の一つとなった「不易流行」につながる思考を形作ることになります。

ただ、この「不易流行」は、弁証法的な「芭蕉の自己矛盾の統一」とも言える「よくわからないもの」で、門人たちによってさまざまに解釈されて来ました。

芭蕉の俳論を向井去来(1651年~1704年)がまとめた「去来抄」には、不易流行について次のように書かれています。

「不易を知らざれば基立ちがたく、流行を知らざれば風新たならず」

「蕉門に、千歳不易の句、一時流行の句といふあり。是を二つに分けて教え給へる、其の元は一つなり」

服部土芳(1657年~1730年)の俳論書「三冊子(さんぞうし)」には、次のように書かれています。

「師の風雅に万代不易あり。一時の変化あり。この二つ究(きはま)り、其の本は一つなり。その一つといふは、風雅の誠なり」

松尾芭蕉は、最初は同時代の「談林派俳諧師」でした。しかしやがてそれに飽き足らなくなり、限界を感じて、俳諧の純粋性を求めて世間に背を向け、老荘思想のように天(自然)に倣う中で安らぎを得ようとしたようです。

3.正岡子規

正岡子規(1867年~1902年)も、江戸時代以来の陳腐な俳句を「月並み俳句」として批判し、俳句の革新を成し遂げました。彼が理想としたのは与謝蕪村(1716年~1784年)で、その主観的・絵画的な描写表現に魅了され、写生による日常生活密着型俳句を完成させました。

彼も「不易流行」を体現したような人でした。

4.「不易流行」はどの事業や仕事にも通じる考え方

時代が変わったのに、古くからの考えや方法に囚われていると、事業は衰退して行きます。一方変えてはいけない本質的な部分まで変えてしまうと、存在意義をなくしてしまうことがあります。

伝統的に味が自慢の老舗が、売り上げを上げるために生産を外部委託して品質を落とし、自らの老舗の評判を落としてしまっては、元も子もありません。老舗においても伝統を守りながらも、時代に合った商売(SNSの活用など)をして行けば、更に発展することになります。

仕事についても、基本を大切にしながら、工夫・改善を重ねて行けば、作業品質向上につながりますが、やってはならない「手抜き」や「偽装」をしたりすると、後で取り返しのつかないしっぺ返しを食うことにもなります。