前に「千姫」の記事を書きましたが、今回は千姫を大阪城から救出した「坂崎出羽守」についてご紹介したいと思います。
1.「坂崎出羽守」とは
「坂崎出羽守」(坂崎直盛)(1563年~1616年)は、戦国時代から江戸時代にかけての武将・大名です。
宇喜多忠家の子で、宇喜多秀家に仕えた後、徳川家康に仕え、「関ケ原の戦い」の功によって津和野城主となり、西軍の「宇喜多」の名前を嫌った徳川家康の命によって坂崎に改名しています。
2.千姫救出作戦
1615年の「大坂夏の陣」で大阪城落城の際に、徳川家康の命によって、千姫を救出しました。
坂崎出羽守は猪突猛進・愚直で直情径行型の人物だったようで、馬に乗って茶臼山の家康の陣を飛び出し、劫火に包まれた大阪城を目指しました。城中は阿鼻叫喚の地獄絵図です。腰元たちは刺し違えて果て、男たちはそれぞれ喉を突いたり腹を切ったりして息絶えています。しかし炎に包まれた柱が倒れて来たりする中をどんどん奥へ進み、ようやく経机に向かって念仏を唱えている千姫を発見します。そして千姫を抱きかかえて必死で炎の中を駆け抜けます。この時に頬に火傷を負い、目も当てられぬほど醜い面相になったようです。
3.「千姫との結婚の口約束」が反故にされる
家康からの「千姫との結婚の口約束」は、千姫の拒絶反応もあったでしょうが、音沙汰もないまま1616年4月に家康が亡くなり、千姫は1616年9月には本多忠刻に輿入れすることになり、約束は反故にされます。
なお、この「口約束」をめぐっては、「坂崎出羽守が『千姫の再嫁』を条件に家康から直接救出を依頼されたとする説」のほかに、「家康が千姫を助けた者に千姫を与えると述べただけで、坂崎出羽守に依頼したわけではないとする説」や、「実際に坂崎出羽守が救出したのではなく、千姫は豊臣方の武将堀内氏久に護衛されて彼の陣まで届けられた後、彼が徳川秀忠の元へ送り届けたとする説」「坂崎出羽守が火傷を負いながら千姫を救出したにもかかわらず、その火傷を見た千姫に拒絶されたとする説」などがあります。
4.千姫の「輿入れ行列」襲撃計画(千姫事件)
「千姫との結婚の口約束」が反故にされて怒った津和野藩主坂崎出羽守は、「本多忠刻への輿入れ行列を襲って千姫を奪う計画」を立てますが、この計画を事前に察知した徳川幕府によって屋敷を取り囲まれす。そのため坂崎出羽守の家臣は、「お家断絶」を避けるため主君を殺害し、主君が自害したように見せかけます。しかし結局坂崎家は「改易処分(お家断絶)」となってしまいます。
なお、坂崎出羽守が千姫の「輿入れ行列」襲撃計画を立てた原因としては、「結婚の口約束の反故」のほかに「家康が寡婦となった千姫を公家に再嫁させるべく、公家への斡旋を坂崎出羽守に依頼し、縁組の段階まで話が進んでいたにもかかわらず、本多忠刻への輿入れが決まったことに立腹したという説」もあります。いずれにしても、彼の必死の働きを認めない家康や秀忠の仕打ちに対して、どうしても許せない気持ちが高じた結果の暴挙と思われます。
坂崎出羽守の祟りではないでしょうが、本多忠刻は毎夜坂崎の悪霊にうなされたという話もあります。なお本多忠刻は、婚礼の2年半後に結核で亡くなっています。
4.坂崎出羽守を扱った戯曲など
山本有三の戯曲に「坂崎出羽守」があります。なおこの作品を原作とした「歌舞伎」も上演されています。