「社会契約論」(民約論)や「人間不平等起源論」「エミール」「新エロイーズ」「告白」などの著書や、「自然に帰れ」という言葉で有名な啓蒙思想家ジャン=ジャック・ルソーは、教科書に必ず出てくるので、知らない人はいないと思います。
しかし、彼の人物像や生涯、思想について詳しく知っている人は少ないのではないかと思います。
有名な思想家・哲学者として名声を得て順風満帆な人生を送ったのではないかと漠然と想像していた方もおられると思いますが、実はジャン=ジャック・ルソーの前半生は悲惨な境遇から非行少年になるなど苦難に満ちており、後半生も政府や教会などの宗教勢力からの迫害を受けてイギリスに亡命したり、度重なる誹謗中傷によって精神不安定に陥るなど波瀾万丈の人生でした。
そこで今回はジャン=ジャック・ルソーについて、わかりやすくご紹介したいと思います。
1.ジャン=ジャック・ルソーとは
ジャン=ジャック・ルソー(1712年~1778年)はフランスの思想家・哲学者・文学者・作曲家で、近代文化のあらゆる領域に大きな影響をおよぼし、「近代の父」とも呼ばれます。
彼は当時の人工的退廃的社会を鋭く批判、理性よりも感情の優位を強調し、「自然に帰れ(retour à la nature )」(*)と説き、ロマン主義の先駆をなしました。
(*)文明の進歩に対する否定的見地から自然状態への復帰を説いた「学問芸術論」に出てくる彼の思想を端的に表した言葉。
自然は人間を善良、自由、幸福なものとしてつくったが、社会が人間を堕落させ、奴隷とし、悲惨にした。それゆえ自然に帰らなければならない。人間の内的自然、根源的無垢を回復しなければならない、という思想。
彼は思想・政治・教育・文学・音楽などの分野において根本的な価値転換作業を行い、近代思想に多大の影響を与えました。
「人間不平等起源論」では、私有財産制によって生ずる不平等が文明社会の悪の根源であるとし、支配と服従のない小土地所有者からなる平等な社会を主張しました。
「社会契約論(民約論)」では、人民の「一般意志」を唯一最高とし、人民主権にもとづく共和制を主張しました。
「エミール」では、正しい多数を得る道として教育にも論及し、“自然のままの人間”を原理的に基礎づけました。
死後に出版された「告白」は、告白的自伝で、自我追求文学の出発点と言われています。
なお、彼の著書のうち、フランス革命前に広く読まれたのは「エミール」などで、「社会契約論」は革命前にはほとんど読まれず、革命を契機にしだいにその真価が理解されるようになりました。
2.ジャン=ジャック・ルソーの生涯
(1)ジュネーヴでの誕生と幼年期
①時計職人の息子としての誕生と母の早世
ジャン=ジャック・ルソー(1712年~1778年)は、1712年6月28日に「ジュネーヴ共和国(現在はスイスのフランス語圏)」(*)のグラン・リュ街で、時計職人の息子として生まれましたが、生後9日で母を亡くしています。
(*)当時ジュネーヴは、カルヴァン派のユグノーが構成するプロテスタントの都市共和国でした。
父イザーク・ルソーは陽気で温和な性格をもった時計職人であり、ルソー家が代々営んでいた「時計師」は、当時のジュネーヴでは上位身分であった市民と町民のみに限定される職でした(母方の祖父も時計師でした)。
母シュザンヌ・ベルナールは裕福な一門の出で、賢さと美しさを具えていたと言われています。彼は母からこうした美点を受け継いで誕生しましたが、幼いころは病弱でした。病気がちであったことは、精神面の敏感さと共に生涯にわたって苦悩の原因になっていきます。
②上流階級の住む街から庶民の住む街への移住
5年後の1717年に、ルソー家は上流階級の住む街グラン・リュから庶民の住むサン=ジェルヴェ地区に居を移し、彼は父方の叔母シュザンヌ・ルソーの養育を受け、父親を手本に文字の読み書きなどを教わりながら育ちました。
③後年の思想の素地となる読書体験
7歳の頃から父とともにかなり高度な読書をおこない、小説やプルタルコスの「英雄伝」などの歴史の書物を読んでいます。この時の体験から、理性よりも感情を重んじる思想の素地が培われました。
④父親が退役軍人とのいざこざが原因でジュネーヴから逃亡
1722年、彼の父親がザクセン選帝侯に仕えた元軍人のゴーティエという貴族との喧嘩がもとで、剣を抜いたという一件で告訴され、ジュネーヴから逃亡せざるをえなくなりました。
⑤孤児同然となり、不自由な寄宿生活を送る
そのため、兄は徒弟奉公に出され(後に出奔して行方知れず)、孤児同然となった彼は、母方の叔父である技師ガブリエルによって従兄のアブラハム・ベルナールと共にランベルシェという牧師に預けられましたが、ジュネーヴ郊外のボセーで不自由な寄宿生活を送ることになりました。
しかし、彼にとってここでの暮らしは決して良い生活ではなく、牧師の妹で未婚の40代女性ランベルシェ嬢から身に覚えのない罪で度々折檻もされたということです。この時期、不法な支配への反発心とともにルソーのマゾヒズムという性癖が形成されました。
⑥書記見習いや彫金師の徒弟奉公も経験し、素行不良な非行少年となる
1724年秋にジュネーヴに帰ってから司法書記マスロンのもとで書記見習いとなりますが長続きせず、1ヶ月半後には、横暴で教育能力のない20歳の彫金師デュマコンのもとで5年契約の徒弟奉公を強いられました。
彼は日常的に虐待を受け、次第に虚言を語り、仕事をさぼって悪事や盗みを働く素行不良な非行少年となっていました。
⑦生活環境が悪化しても読書の習慣は継続
ただし、生活環境が悪化して無気力になっていたものの読書の習慣は続いていました。貸本屋で本を借りて読書に耽っては仕事をさぼり、親方に本を取り上げられたり、捨てられたりしながらも読書を続けました。彼にとって読書は唯一の逃避だったのです
⑧彫金師の元から逃げ出し、放浪生活に入る
1728年3月14日、彼は市の城門の閉門時間に遅れて、親方からの罰への恐怖から遂に出奔を決意し、以降放浪生活に入ります。従兄のベルナールから僅かな金と護身用の剣を受け取り、1年に及ぶ放浪生活に入りました。
(2)青年時代
①ヴァランス夫人との出会い
当初、南に向かって歩き始め、サルディニア王国のトリノに行きますが落ち着き先を得られずに放浪しました。
やがて、サヴォワ領のコンフィニョンに流れ着き、カトリック司祭のポンヴェールの保護を受け、落ち着き先を手配されました。それが彼の生涯に大きな影響を与える貴婦人の屋敷でした。
1728年3月21日、彼はアヌシーのヴァランス男爵夫人の屋敷を訪ねて世話を受けるようになりました。彼は15歳、ヴァランス夫人は14歳も年上の29歳でした。
二人の出会いについてルソーは次のように回想しています。
わたくしはとうとう着いた。わたくしはヴァラン夫人に会った。……この一瞥の瞬間の驚きはいかばかりだったであろう。……。ボンヴェール司祭の言う親切な婦人というのは、私の考えでは、それ以外にはありえなかった。
しかし、わたくしは、優美さに満ちた顔、やさしい青い美しい目、まばゆいばかりの顔色、そしてうっとりとさせるほどの胸の輪郭を見たのだ。若い改宗者は、すばやい一瞥で何も見逃さなかった。若い改宗者と言ったのは、その瞬間わたくしは彼女のものとなってしまっていたし、また、この伝導師によって伝えられた宗教は、きっと天国に導いてくれると確信するようになったからである。……。
ボンヴェール司祭の手紙をちらりと見てから、彼女はわたくしをどっきとさせた調子で『坊や、こんなに若いのに放浪しているの。本当にお気の毒です。』といい、さらに、『私の家に行って私をお待ちなさい。そして食事を言いつけなさい。ミサが済みましたらお話に行きます。』と言った。
②救護院でカトリックに改宗した後、再び放浪生活に戻る
当時、ヴァランス夫人は夫と不仲のために家を出てカトリックに改宗していました。しかし彼と一緒に暮らすことはせず、彼をカトリックに改宗させるためにトリノの救護院に行くように手配します。
救護院では2ヶ月ほど缶詰状態の暮しでしたが、形ばかりの改宗の後、20フランを与えられて解放され、再び自由の身となりました。
その後もさまざまな職業を試しましたが、不良時代の名残で素行が悪く盗みを働いたり、虚言で人に罪を着せたりとしたため信用を失い、結局どの職にも落ち着くことができませんでした。
③サヴォアの助任司祭ジャン=クロード・ゲームとの出会い
その間、懇意になったジャン=クロード・ゲームという、20歳ほど年上のサヴォアの助任司祭から温かい援助を受けました。ゲームは裕福でもなく、仕事の紹介や世話をしたわけでもありませんが、悪事を働きそのたびに失敗する彼が生き方を改められるように「小さな義務を果たすことは英雄的行為に匹敵するほど大事なことで、常に人から尊敬されるように心がけるよう」助言を与えました。
幸福になるためこれまでの生き方を捨て健全な道徳と正しい理性を保って生きるように、ゲームから勧められ励ましてもらったことを、彼は後に「当時、わたしが無為のあまり邪道におちいりそうなのを救ってくれたことで、測りしれぬ恩恵をあたえてくれた」と回想しています。
④ヴァランス夫人のもとに再び戻り同居する
彼はその後も使用人などの職を転々として各地を放浪していましたが、1729年春、ヴァランス夫人のもとに再び戻ることになります。ヴァランス夫人は彼の無事を喜び、彼を引き取ることを決心します。
夫人は母のように彼にキスをして撫で「坊や」と呼び、彼は夫人を「ママン」と呼んだそうです。親子のような情愛を受けルソーは幸福でした。
ヴァランス夫人は彼を神学校や音楽学校に入れ、将来の職を得られるように図りましたが、彼は夫人からなかなか離れようとはせず学業は長続きしませんでした。
夫人は彼が不在の折にパリに出立して消息を絶ってしまいます。彼は突如孤独となりましたが夫人の女中メルスレが親元に帰るのに同行することになりました。
彼はジュネーヴを経由し、ニヨンに立ち寄って父イザークを訪ねた。二人は涙を流して再会を喜びました。しかし、彼は父親と暮らす意思はないことを父に伝えました。その後、メルスレを実家に送り戻しましたが、彼はアヌシーに帰らず、再び放浪を始めました。
⑤三度目の放浪生活に入る
ルソーは音楽が好きであったため(教えるほどの力はありませんでしたが)音楽家を自称して音楽教師になろうとしました。能力不足とはいえ、音楽を勉強する機会になったということです。
1731年4月、エルサレムの僧院長を自称する詐欺師に秘書兼通訳としてスイスのベルンで行動を共にしているところを、フランス大使館に引き留められ保護されることになりました。フランス大使館の書記官の計らいでパリに行く機会を与えられます。
彼はパリにはじめて到着しましたが、そこで目にしたのは悪臭に満ちた街路、黒くて汚い家々、乞食があふれる不潔な大都市でした。大使館から与えられた所持金はなくなりつつありました。しかし、彼はヴァランス夫人に再会できずにいました。夫人は2ヶ月前に同地を発っていたのです。
そこで彼は無一文でしたが徒歩でリヨンに向かいました。途中美しい田園風景が広がっており、彼は農家に泊めてもらいながら旅をしました。そこで彼はフランス農村部の百姓の暮らしを見ることになります。
彼は歩き通しで空腹に耐えかね、農家に宿を借りました。彼は夕食に油分を絞った後の薄いミルクと大麦パンという質素な食事を一気に食べます。これを見た主人は彼が役人ではないことを理解し、今度は隠していた小麦のパンとハムとワインを用意してオムレツまで提供したそうです。農民は度重なる重税から逃れるために貧しい暮らしを演じていたのです。
この放浪での経験は彼にとって意義深いものとなりました。「自然が美しい豊かな恵みを与えているのに、それを重税が破壊してしまう」様を目の当たりにしたからです。
⑥ヴァランス夫人との愛人生活
リヨンに着いてヴァランス夫人を探したものの、夫人はいませんでした。しかし、夫人の知人と会うことができ、連絡を取る約束を得ました。
彼は楽譜の写本の仕事をしながら滞在し、夫人からの連絡を待っていました。しばらくのち、シャンベリーにいた夫人から手紙と旅費が届き、1731年9月夫人と再会を果たします。
彼は土地測量の書記の仕事を紹介され地図作成の技術を教わり、デッサンに興味を持ちます。彼は植物のデッサンその時時のスキルを生かしています。しかし、ヴァランス夫人との生活はルソーの自立を困難なものにしました。共通の趣味となった音楽に嵌まり、仕事を半年余りで投げ出してしまったのです。
夫人が自宅で開く月1回の音楽会では、若くて麗しい美男子の彼は女性たちの関心の的となっていました。彼はラール夫人から娘の家庭教師を引き受けてほしいと頼まれましたが、夫人の彼への関心を知るヴァランス夫人はこれを聞き、彼を他の女性から守ろうと考え始めます。
1732年、20歳の彼はヴァランス夫人の愛人となります。ヴァランス夫人との関係は1732年以降、保護者と被保護者の関係を越えた愛人関係になっていきました。ルソーはこの時の心境を次のように告白しています。
私は初めて女性の腕に抱かれた。熱愛する女性の腕に抱かれていたのだ。私は幸福であったであろうか。そうではなかった。私はあたかも近親相姦を犯したような気持ちであった。
そんな時期、夫人が手掛ける薬品の製作の補助で事故が起こり、彼は一時生死をさまよいます。その後も思うような回復が見られなかったことから、農村のレ・シュルメットに転居します。同地で彼は好きな読書に励み、菜園での果樹の栽培を行うなど快適な暮らしをしていました。
しかし、身体の変調から彼は死を感じるほど患い、これにより彼の人生に再び重要な転機が起こります。残り僅かの人生だと覚悟し、これを有意義に使おうと考えるようになったのです。
彼は元々の読書力を駆使して哲学、幾何学、ラテン語を学習し、独学で膨大な書物を読破して研鑽し、教養を身につけました。
哲学では、『ポール・ロワイヤル論理学』やジョン・ロックの『人間悟性論』、マールブランシュ、ライプニッツ、デカルトなど書物を読み、哲学と科学の学習を始めました。
ヴァランス夫人の庇護のもとに青年時代を送り、音楽を勉強し、貪婪なほどの好奇心でギリシア哲学やモラリストの著作、啓蒙主義などの自学自習に没頭して教養を高めました。
ヴァランス夫人の感化とルソーの敬愛の情は彼自身が認めるように大きいものでした。なかば母子でもあり愛人関係でもあるかたちでヴァランス夫人のもとで庇護されながら、さまざまな教育を受けたのです。この時期については晩年、生涯でもっとも幸福な時期として回想しています。
⑦ヴァランス夫人との別れ
1737年、医師の診断を受けるためにモンペリエに出かけた後、彼はヴァランス夫人との我が家に異変を感じます。ヴァランス夫人が18歳のヴィンシェンリードという新しい愛人を家に入れていたのです。
彼は新しい愛人と折り合うのを拒み、ヴァランス夫人と距離を置きはじめた結果、二人の関係は冷めていってしまいます。
彼は夫人に家を出ることを伝え、自分の進むべき道を探求する決意を告げました。マブリ家の家庭教師を務めるつもりであることを説明して、夫人はこれを了承し、ルソーは独立します。
⑧リヨンにあるマブリ家で家庭教師を務める
ヴァランス夫人と別れた後、1740年からリヨンのマブリ家(哲学者マブリ、コンディヤックの実兄の家)に逗留し、マブリ家の二人の子供の家庭教師を務めました。しかし長続きしませんでした。
彼は家庭教師もうまくいかず、さらにワインの盗み飲みを発見されて、マブリ家に居づらくなりました。
レ・シュルメットのヴァランス夫人の家に一時戻りますが、夫人の家は(彼がいたころからですが)家計が長く傾いており、そこに彼の居場所はありませんでした。
彼はヴァランス夫人への恩返しのためにパリでの立身出世を志すようになります。
(3)パリ時代
①学界デビュー
彼は家庭教師の職を辞めた後、1742年に数字によって音階を表す音楽の新しい記譜法を考案し、それを元手にパリに出て、一儲けしようと考えます。
パリ、ソルボンヌに近いコルディエ街のサン=カンタンというホテルに居住しながら執筆を行い、パリの科学アカデミーに『新しい音符の表記に関する試案』を提出しました。
彼に対してはいくらかの賛辞が贈られましたが、経済的に役立つような職への紹介や斡旋はありませんでした。音楽の個人教師をしながら生計を立てるという生活が続き、外出もなく孤独に引き篭もる毎日だったそうです。
例外的にドゥニ・ディドロ(1713年~1784年)(下の画像)と親しくなり、カステル神父の紹介で社交界の女性たちと交友する機会を得ています。
文化人の一人として活動するようになったものの、彼はサヴォア地方の田舎上がりの人物で、パリ社交界の中心的な存在とは程遠いものでした。
社交界には当時最高の美女と評されたデュパン夫人(上の画像)や大物知識人ヴォルテール(1694年~1778年)(下の画像)の姿もありました。
1743年彼は、ヴェネツィアにフランスの大使の秘書として勤務しましたが、大使の横暴に耐えかね一年後に辞職しました。やむなくパリに帰りますが、俸給の給与を受けられないなど不条理な扱いを受けました。さらに、音楽家として生きる道を志していましたが、満足いく評価を得られず大成の道は困難となっていました。
なお、1745年にはオペラの楽曲として『恋のミューズたち』の作曲活動に従事しています。
余談ですが、日本で童謡として有名な「むすんでひらいて」は、彼のオペラ「村の占い師」の一節に「ルソーの新しいロマンス」というタイトルで歌詞が付けられ、その旋律がヨーロッパ各国へ広まったものです。
②テレーズとの出会い
1745年、33歳の彼はサン=カンタンのホテルで23歳の女中テレーズ・ルヴァスールに出会い、恋に落ちます。テレーズに教養は無く、文字の読み書きも満足にできなかったとのことですが、彼は彼女の素朴さに惹かれたようです。
二人は「決して捨てないし結婚もしない」という条件で生涯添い遂げますが、晩年になるまで正式な結婚はしませんでした。
この二人の関係は、周囲の状況に影響を受け順調には行きませんでした。テレーズの親類縁者が彼を図々しく頼り、彼は稼がなくてはならなくなります。
また、二人の間には1747年から1753年までに5人の子供ができます。経済力のない彼は、当時は珍しいことではありませんでしたが、わが子全員を孤児院に入れています。
当時のパリでは年間3千人の捨て子が発生しており、この問題はすでに社会現象化していました。彼も当時の悪しき社会慣行に従ったわけですが、この出来事は「エミール」を書くときに深い反省を強いるものになり、彼に強い後悔の念をもたらします。
この時期の彼は窮乏しており、デュパン夫人とその義理の息子であったフランクィユ氏の秘書をして暮らしを立てていました。
③「学問芸術論」が入選し、一躍有名になる
1750年、彼は『メルキュール・ド・フランス』という雑誌の広告を目にし、ディジョン科学アカデミーが「学問及び芸術の進歩は道徳を向上させたか、あるいは腐敗させたか」という課題の懸賞論文を募集していることを知ります。
彼に突然の閃きが生じて、30分にわたり精神が高揚して動けなくなってしまったということです。彼はこのときの感想を「これを読んだ瞬間、私は他の世界を見た。私は他の人間になってしまった。」と述べています。
『ファブリキウスの弁論』という小論をディドロに読んで聞かせて感想を求めました。ディドロは速やかに論文を執筆するように助言し、彼は早速執筆を進めアカデミーに論文を提出しました。
彼は「文明への道徳的批判」のテーマを掲げて持論を展開させ、自分自身の確固たるものとなっていた信念を一流の論述によって表現しました。
「人間は本来善良であるが、堕落を正当化する社会制度によって邪悪となっている」という直感のもとに、学問・芸術の発達が素朴さに表されるような美徳を喪失させて、衒学的な知識と享楽的な文化を用いて人々に専制君主のもとでの奴隷状態を好ませていると批判を展開します。
「学問、芸術の光が地平線の上に昇るにつれて、美徳が逃れ去るのがみられる」と述べて、文化・文明の発達は不平等の起源であり、道徳の堕落と併行すると主張したのです。
質実剛健と公的精神にあふれた古代スパルタの市民の道徳的な貞潔さや健全さを指摘、郷愁に満ちた思いのうちに答えを見出そうとしました。
文化を健全化させるには人間自身に内在している「自然の導きに従えば良い」との見解を示し、人間の良識に学問や哲学、芸術を基礎付けるべきだと主張しました。
彼は、学問と芸術の発達が人間の腐敗と堕落をもたらすことを主張するとともに、文化は圧政を布く専制君主が人々を支配して抑圧に順応させるための懐柔策だと指摘して、論壇に衝撃を与えました。
彼が執筆した著作「学問芸術論」(Discours sur les sciences et les arts)は見事入選を果たします。
これが契機となり不遇な状態は一変、以後次々と意欲的な著作・音楽作品を創作します。彼は自分が有名になって以降、パトロンとして保護したいというフランクィユ氏など周囲からの申し出を断り、独力で音楽活動にも邁進しながら楽譜の写本などの手段で生計を立てる道を模索します。
④政治哲学の古典「人間不平等起源論」の執筆
1753年、ディジョンの科学アカデミーが再び「人々の間における不平等の起源は何であるか、そしてそれは自然法によって容認されるか」という主題のもと懸賞論文を募集しました。
彼は論文執筆のためにサンジェルマンに行き、彼にとってさらに本質的な問いに対して「人間不平等起源論」(Discours sur l’orgine de l’inégalité parmi les hommes)を著しました。
彼は「学問芸術論」の論文の文明批判の思想を更に展開させました。「人間不平等起源論」は41歳にして書き上げたルソー初の大作であり、懸賞論文への解答でした。
ルソーは、原初の自然人は与えられた自然環境のもとでその日暮らしをしており、自己愛と同情心以外の感情は何も持たない無垢な精神の持ち主であったと想像しました。
冒頭に登場する自然人の描写は「原始人」といってもよい段階です。彼は本書において進化論を採用しなかったものの、現代科学でいうなら旧石器時代に現れた化石人類に相当する種をイメージしたと考えられます。先史時代における平等で争いのない自然状態を描きだしました。
しかし、こうした理想の状態は人間自身の技術的な進歩によって失われていったと見ました。狩猟の道具が高度になり、獲物の数も増え人口も増加しました。狩猟採集段階に到達した人類の「自然人」イメージはインディアンやコイサン族など現存する未開人をモデルに描かれました。
やがて、人々が農業を始め土地を耕し家畜を飼い文明化していく中で、生産物から「余剰」が、すなわち不平等の原因となる富が作り出され、富をめぐって人々がしだいに競い合いながら不正と争いを引き起こしていったと考えました。
「私有財産制度がホッブス的闘争状態を招いた」と指摘したのです。また、文明化によって人間は「協力か死か」という状況に遭遇しますが、相互不信のため協力することは難しいと喝破しました。これは一般的にルソーの「鹿狩りの寓話」として知られます。
やがて、こうした状況への対処として争いで人間が滅亡しないように「欺瞞の社会契約」がなされます。その結果、富の私有を公認する私有財産制が法になり、国家によって財産が守られるようになります。
かくして不平等が制度化され、現在の社会状態へと移行したのだと結論付けました。富の格差とこれを肯定する法が強者による弱者への搾取と支配を擁護し、専制に基づく政治体制が成立します。
「徳なき名誉、知恵なき理性、幸福なき快楽」に基づく桎梏に人々を閉ざし、不平等という弊害が拡大していくにつれて悪が社会に蔓延していくのだと述べました。
彼はこうした仮説に基づいて、文明化によって人民が本源的な自由を失い、社会的不平等に陥った過程を追究、現存社会の不法を批判しました。
不平等によって人間にとっての自然が破壊され、やがて道徳的な退廃に至るという倫理的メッセージを含んだ迫力は人々の心に恐怖感を煽るほどの強烈な衝撃となりました。
その後この書はヴォルテールなど進歩的知識人の反発を強めさせ、進歩の背後に堕落という負の側面を指摘する犬儒性の故に「世紀の奇書」とも評されました。
⑤テレーズと共にジュネーヴに帰郷
1754年、彼はテレーズと共にジュネーヴに帰郷しました。
彼は若いころにカトリック教徒に改宗していました。しかしジュネーブはジャン・カルヴァンが導いたプロテスタント国なのでルソーは宗派の違いに悩み、ジュネーヴ市民になるためにプロテスタントに再び改宗しました。
しかし、ジュネーヴでの彼の評価は芳しくありませんでした。彼は「人間不平等起源論」をジュネーヴ市民に捧げ献辞も捧げましたが、これについても予想していたような好評は得られませんでした。
彼はパリでの生活を整理するために一時パリに戻りますが、ジュネーヴでの評判が思わしくないのを知り、ジュネーヴに戻るのを断念したため滞在はごく短期間に終わります。
⑥デピネ夫人により、田園地帯のモンモランシーに邸宅を提供され「新エロイーズ」を執筆
2年後の1756年、彼はデピネ夫人(上の画像)から田園地帯のモンモランシーにレルミタージュ(隠者の庵)という小さめの邸宅を宛がわれ、そこで暮らすことになりました。
ヴォルテールとの関係は好ましいものではありませんでした。「人間不平等起源論」を贈っていますが、「人はあなたの著作を読むと四足で歩きたいと思うでしょう」と嫌味を言われています。
こうしたこともあって、ヴォルテールがジュネーヴで暮らすのを聞き、そこでの生活を断念しました。彼の新しいモンモランシーの住居はパリから16キロ離れた田園地帯にあり、都市の喧騒から離れたいと願っていた彼にとって非常に良い環境にありました。
彼は邸宅の周辺の森を散歩しながら哲学、政治思想、教育理論に関する思索を行い「政治制度論」を執筆し、「社会契約論」や「エミール」の中心部分を仕上げていきました。
また、時には恋愛について夢想して、ベストセラー恋愛小説となる「新エロイーズ」などの執筆活動を進めていきました。
そんな中、彼は友人サン・ラベールの愛人であったデュドト夫人の訪問を受けます。夫人は30歳にちかい年齢の女性で美人ではなかったそうですが、柔和で優しい生き生きとした女性でした。
彼は彼女に心奪われてしまいます。デュドト夫人には彼と恋仲になるつもりはなかったので片思いで終わりますが、彼と夫人は親しく交流し、彼にヴァランス夫人やテレーズでは得られなかった幸福な思いをもたらしました。
しかし、恋に夢中となってデピネ夫人との関係は悪くなりました。デピネ夫人が妬みを起こして二人の関係を裂こうとしたのです。
デピネ夫人にグリムやディドロ、そして妻のテレーズも加担していたので、ディドロとの関係も悪化しました。
とうとうレルミタージュから出ていくことになり、パトロンであったコンティ公の計らいで彼の税理士だったマタス氏がモンモランシーに所有していたプティ・モン・ルイという小さな田舎家を借りて暮らすことになります。
⑦百科全書派との断交と「新エロイーズ」の執筆
彼が名を馳せるようになったことが縁で、一時期は『百科全書』に「政治経済論」を執筆・寄稿しています。しかし、1755年に10万人の死傷者を出す大災害リスボン地震が発生、ヨーロッパに衝撃が広まりました。
ヴォルテールは「リスボンの災禍に関する詩」において神の存在性と慈悲に対する批判を行いました。これに対して、彼はヴォルテールに手紙を書いて自説を展開させています。彼は地震の災厄が深刻化したのは神の非情さではなく、都市の過密によるものであり、これは人災であるという見方を提示しました。
文明への過度の依存が持つリスクに対して警鐘を鳴らすとともに自然と調和することの必要性を説いてヴォルテールの見解に異論を唱えたのです。こうした論争の中で対立関係は決定的なものとなりました。
次の1758年の「演劇に関するダランベールへの手紙」(La Lettre à d’Alembert sur les spectacles)に至ってヴォルテール、ジャン・ル・ロン・ダランベール、ディドロら当時の思想界の主流とほとんど絶交状態となりました。
ダランベールが『百科全書』の「ジュネーヴ」の項に町に劇場がないことを批判する一文を載せました。カルヴァンが町に劇場を建てることを禁じたため、劇場がなかったのです。彼はジュネーヴでの劇場の建設は市民の徳を堕落させるもので有害であると見解を示しました。
そして、こうした立場のため、ヴォルテール、ディドロら他の啓蒙思想家たちの無神論的で文明賛美的な傾向との違いが顕著となり、彼らとの関係は決定的に破局しました。
これは思想的な対立によるものだけでなく、感情的な反感も含まれています。ディドロは彼の引き篭もりと田舎暮らしを批判し、またデピネ夫人との確執に首を突っ込み、彼の家族を引き離そうと画策しました。こうした争いの結果、彼はかつての友人たちと仲違して行きます。
彼は壮年期の大作にしてベストセラーとなった書簡体の恋愛小説である「新エロイーズ」(Julie ou La Nouvelle Héloïse)を1761年に発表します。この手紙体の長編小説は自然への回帰による人間性、家族関係、恋愛感情、自然感情等の調和的回復を謳い、熱狂的な反響を呼びました。
⑧政治哲学書「社会契約論」と教育論「エミール」の執筆
1762年4月、彼の思想は「社会契約論」(Le Contrat social)によって決定的な展開、完成を示しました。
彼は、「人間不平等起源論」の続編として国家形成の理想像を提示しようとします。ホッブスやロックから「社会契約」という概念を継承しながら、さまざまな人々が社会契約に参加して国家を形成するとしました。
そのうえで、人々の闘争状態を乗り越え、さらに自由で平等な市民として共同体を形成できるよう、社会契約の形式を示しました。
まず、社会契約にあたっては「各構成員の身体と財産を、共同の力のすべてを挙げて守り保護するような、結合の一形式を見出すこと。そうしてそれによって各人がすべての人々と結びつきながら、しかも自分自身にしか服従せず、以前と同じように自由であること」を前提とした上で、多人数の人々が契約を交わして共同体を樹立するとしました。
彼によると、暗黙に承認されねばならない「社会契約」の条項は次のたった一つの要件に要約されます。それは、これまで持っていた特権と従属を共同体に譲渡して平等な市民として国家の成員になることです。その上で上で市民は国家から生命と財産の安全を保障されるという考えを提示しました。
社会契約によってすべての構成員が自由で平等な単一の国民となって、国家の一員として政治を動かして行きます。しかし、各々が自分の私利私欲を追求すれば、政治は機能せず国家も崩壊してしまいます。
そこで、彼は各構成員は共通の利益を志向する「一般意志」のもとに統合されるべきだと主張しました。公共の正義を欲する一般意志に基づいて自ら法律を作成して自らそれに服従する、人間の政治的自律に基づいた法治体制の樹立の必要性を呼びかけました。
このように、主権者と市民との同一性に基づく人民主権論を展開し、近代民主主義の古典として以後の政治思想に大きな影響を及ぼしました。そして政府は人民の「公僕」であるべきだと論じつつ、国民的な集会による直接民主制の可能性も論じました。
ただし、人民の意志を建前に圧政がしかれる可能性があり、「社会契約論」には過酷な政治原理が提唱されていると指摘する論者もいます。
1762年5月、小説的な構成をもつ斬新な教育論「エミール」(Émile ou De l’éducation)が刊行されました。
「エミール」では理想となる教育プランを構想しています。彼は自分を教師として位置付け、架空の孤児「エミール」をマン・ツー・マンで育成する思考実験を行い、教育を理論化しようとしました。
社会からの余計な影響を受けないよう家庭教師による個別指導に徹するべきだと主張しました。そのうえで、「自然による教育、人間による教育、事物による教育」という三つの柱を示しました。
自然による教育とは、子どもの成長のことです。人間による教育とは、教師や大人による教育です。最後に事物による教育とは、外界に関する経験から学ぶということです。
また、教育期間の段階も三段階に整理しました。第一に、12歳までの子どもを感覚的生の段階にあるとし、身体の発育(自然による教育)と外界に見られる因果律についての経験(事物による教育)を中心に成長とします。
第二に、12歳から15歳までは事物の効用の判断を鍛えて、有用性のために技術や学習をする功利的生の段階を経ます。
最後に15歳以降、神や自然、社会に関する知識と洞察が開かれ、道徳と宗教を身につける理性的道徳的生の段階へと至ります。
彼は「子どもを小さな大人」として見る社会通念を否定し、「子どもは大人ではない。子どもは子どもである」とする立場を打ち出しました。
そして、子どもの自主性を重んじ、子どもの成長に即して子どもの能力を活用しながら教育をおこなうべきだという考えを示しました。
彼は、子どもは年齢に応じた発達段階に合わせて、教訓や体罰によらず危険なことからは力(保護)で制止し、有用な知識は読書ではなく自分の経験から学習させ教育していくべきだと考えました。
幼い子ども(5歳以下)に対しては情操面の発達を重んじ、児童期(5~12歳)には感覚や知覚で理解できる範囲を経験で教えて行きます。自然人として理想的な状態をつくっていくことを目標としました。
彼は「私たちは、いわば、二回生まれる。一回目は存在するために、二回目は生きるために。」と語っています。成人すると社会で生きていく必要があるので社会人になれるような教育を行う必要があります。感覚教育から理性教育の段階へと移行して行きます。
子どもが思春期(12~15歳)に入って理性に目覚めると「理性の教育の時代」が始まり、本格的な教育を受けるべきだと考えました。
彼はエミールを野外へと連れていき、迷わずに周囲を巡るには太陽の位置などを参考に方位を手がかりとして地図を読むなど、天文や地理に関する基本的な知識や情報が必要になることを教えます。
彼は生活のために役に立つ知識を出発点にして専門的な学問へとエミールの関心を刺激し、自ら体系的な理解や知識を構築していく力を鍛えることへ注意を向けさせる重要性を指摘しました。
青年期(15歳以降)に入ると道徳感情から社会を学んだり、自然の法則から神の存在を確信して、やがて宗教から生きる意味を考えたり、歴史に関する知識も与えられて行きます。このように、成長と共に教育を受けて人間としても市民としても相応しい大人となっていく過程が描かれました。
「エミール」において、彼はエミールが成人した後に理想のフランス人男性を描写しようとしました。彼はエミールが大人になって農夫(フランスの「普通の男性」)となるとしたのです。
そして伴侶を探す旅の途中、エミールは出会った女性ソフィーに一目惚れをして結婚、やがてソフィーと家族をつくるという設定でストーリーを終えています。
「人間不平等起源論」では先史時代が人類の歴史の舞台でしたが、「エミール」において彼のイメージする市民エミールは、農村で慎ましく生活し、家族を養い、そして学んだ知識をもとに隣人のために知恵を働かせる、そうした人物として描かれました。
これは自営の農家とその暮らしぶりを理想化した彼が長年愛したフランス農村への憧憬を示すと考えられます。
「人間不平等起源論」、「社会契約論」、「エミール」は三部作の関係です。
(4)迫害による亡命
①迫害
「エミール」はオランダとパリで印刷され、出版される運びとなりました。「社会契約論」は自由と平等を重んじ、特権政治を否定する立場が表明されました。
それ以上に問題になったのは、「エミール」第4巻にある「サヴォア人司祭の信仰告白」が持つ理神論的で自然宗教的な内容でした。 カトリック教会を否定する思想は当時の世では危険思想でした。印刷の段階で中断が相次ぎ、容易に出版には入れなかったこともあり、彼は状況を心配せねばならなくなります。懸念していた通り、「サヴォア人司祭の信仰告白」はパリ大学神学部から厳しく断罪されました。
「エミール」はパリ高等法院から焚書とされ、1762年6月9日彼自身に対しても逮捕状が出ました。前日の深夜、このころ支援者となっていたリュクサンブール元帥の忠告に従い、彼はモンモランシーを離れて一路スイスのジュネーブに亡命しようと計ります。しかし、ジュネーヴでも一時の滞在地に選んだイヴェントンでも、彼への迫害がはじまり、彼の居場所はどこにもなくなりつつありました。
余談ですが、私は個人的に宗教を全く信じません。宗教による魂の救済というのは欺瞞で、異なる宗教勢力間の対立抗争や戦争、魔女裁判などの宗教裁判による理不尽な迫害、個人信者の過度な寄進による経済的破綻、聖職者の横暴・腐敗堕落、帝国主義国家による侵略・植民地支配の道具として使用されるなど弊害の方がはるかに多いと私は思います。
これについては、次のような記事に詳しく書いていますので、ぜひご覧下さい。
・アフガニスタンを制圧したタリバンとは?女性の権利を制限するイスラム法とは?
・「パレスチナ問題」とは何か?なぜパレスチナとイスラエルは争い続けるのか?
・仏教はインド発祥の宗教なのにインドでは衰退したのはなぜか?
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・かつてのイギリスとフランスとの対立関係は現代の米露中の覇権争い並みだった!
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スイスのヌーシャテル地方のモチエ村に支援者ロガン氏の縁者が所有する家があり、彼はそこに落ち着き先を得ます。モチエ村はプロイセン領であり、当時プロイセン王国は啓蒙専制君主フリードリヒ大王の治世でした。
彼は「以前から王についての悪い事を言ってきており今後も言うかもしれない」としながらも、寛大で知られる王との「庇護ではない契約」を求める手紙を王に送りました。彼はキース卿に手紙を書き、受け入れてほしいと願います。彼の願いは聞き入れられ、隠遁が許されます。
彼にとって望まぬ迫害より辛いのは、この年(1762年)育ての親であり恩人であったヴァランス夫人が亡くなったことです。1754年にジュネーヴに訪問する際に会った折、彼は既に零落していた夫人を引き取って旧恩に報いることを考えおり、夫人に提案していましたが夫人がこれを固辞し、以来二人は会っていませんでした。
悲しみに暮れる彼を世間は放置しませんでした。モチエにも彼への非難と迫害がはじまり、彼は居場所を失います。
彼はカトリック教会の教義に反発し、人間の権威には従わないと語りましたが、これはカトリックだけでなくプロテスタント側からも反感を買いました。当てにしていたジュネーヴの冷淡さに失望した彼は1764年「山からの手紙」を書いてジュネーヴ批判と自分の弁明を始めます。
しかし、彼の弁明に対してさらなる攻撃が行われます。ジュネーヴ市民という匿名を持ってヴォルテールからもプライベートな家族の問題、とりわけ子どもを孤児院に送り捨てた過去をやり玉に挙げられ非難されました。ルソーへの糾弾は思想対立ではなく、誹謗中傷を伴なう人格攻撃へと変わっていたのです。
彼は命の危険を感じてモチエ村を離れビール湖のサン・ピエール島に避難します。彼はこの島の自然を気に入るようになり、植物収集をして楽しみ、傷心を慰めています。牧野富太郎のようですね。
②イギリスへの亡命を決意
しかし、サン・ピエール島にもいられなくなって1765年ベルリンを目指して途中ストラスブールに立ち寄ります。ストラスブールでは大歓迎を受けたため、彼はこの地で落ち着くことを考えますが、ヴェルドラン夫人がフランスの通行許可証を用意してイギリスへの渡航を提案しました。
ロンドンには彼と同様高名な哲学者デイヴィッド・ヒューム(1711年~1776年)(上の画像)がおり、二人を引き合わせようと手筈を整えていました。自由で寛容なイギリスでなら彼も暮らしていけるだろうと考えたのです。ヒュームからも招待したいという手紙が届き、彼はロンドンに行くことを決意します。
1765年12月彼はパリに向かい、コンティ公から保護を受けてホテル・サンシマンに投宿します。しばらくは人目を忍んでいましたが、すぐ人々の知るところとなり、人々が続々と彼を訪問しました。実質的にパリへの凱旋となりました。
そこで、ヒュームとも出会っています。ヒュームは彼にすぐさま好感を感じ、すっかり心酔してしまったようです。しかし、彼はヒュームの友人ホーレス・ウォルポールの皮肉に嫌悪感を抱いていました。
③イギリスへの亡命とヒュームとの確執
1766年1月、彼はヒュームに連れられてロンドンに向かって出立しました。
ロンドンに到着して、ヒュームは彼を宿泊先としてエリオット夫人の邸宅を指定したが、そこに彼に対して敵対的なスイスの医者トロンシャンの息子がいて、二人が鉢合わせしたため、彼が侮辱されることを恐れてエリオット夫人に他の住居を求めるといった悶着がありました。
ロンドンに滞在中も彼は熱烈な歓迎を受けており、人々の訪問を受けました。国王ジョージ3世もルソーを訪ねたそうです。
ヒュームはウーットンに住居を用意して新居に彼が入れるように手配しましたが、その際、手配役が彼に路銀の節約のために自分の馬車を提供したところ、この対応が彼の機嫌を損ねてヒュームと喧嘩するといったことが起こりました。
彼は配慮に欠くヒュームの振る舞いに次第に不信感を持つようになります。ウォルポールが彼を非難するために作成したフリードリヒ大王の偽造書簡を新聞に掲載させたことがありました。
ヒュームはウォルポールの冗談として済ませたことも彼にとって不愉快なことでした。彼が嫌いな人物をヒュームが弁護するのが我慢できなくなっていました。彼はヒュームに騙されていると感じ始めるようになります。
一方、ヒュームは国王から彼に対して年100ポンドの年金を支給するように嘆願をして、彼のために八方手を尽くして奔走していました。彼はヒュームを信じられなくなり、ついに6月23日にヒュームと絶交を宣言しました。
④度重なる誹謗中傷に対する弁明として「告白」を執筆開始
この時期、彼は度重なる誹謗中傷に対して自分の弁明をしなければと考え、回想録を書こうと考えます。スイスでの流転やヒュームへの不信と確執は自伝的作品「告白」(Les Confessions)を書き始める契機となりました。
ルソーの精神状態はひどい状態になっていました。現在でいえば統合失調症とも言えるような状態で、極度の不安と人間不信、被害妄想に悩まされました。
(5)フランスへの帰国と晩年
<晩年のジャン=ジャック・ルソー>
①フランスへの帰国
もはやイギリスにはいられないと考え、フランスに帰る決断をしました。そして1767年5月半ばにドーバーからカレーに赴き、フランスに帰国します。
②帰国後、逮捕を恐れて1年間身を隠す
彼がフランスに帰国することは多くの人々の知るところとなりました。かねてより親交をもっていたコンティ公やオノーレ・ミラボーに状況を知らせて保護を求めました。
まだパリ高等法院の逮捕状は効力を持っていたため、身を隠さなくてはなりませんでした。そこで、コンティ公はトリーの城に彼を匿うことにしました。1768年までの一年間彼はこの城で過ごすことになります。
③精神不安定になり執筆活動は中断
彼の精神は錯乱状態になっていました。彼はヒュームから攻撃されるという妄想に苛まれ、城の関係者が敵のスパイではないかと怯えながら暮らしていました。病人が出たり、関係者に不幸があったりすると、城の中には暗殺者がひそみ毒を盛ったり盛られたりしているのだと思い込んだりするほど切迫した精神状態でした。この時期はまともな精神状態ではなかったため執筆活動はほとんどできませんでした。
④ついにテレーズと正式に結婚するも精神不安定の病状は改善せず
1768年、彼はリヨンに向かい、そこからグルノーブルに進んで旅をします。この旅では彼の尊敬する人々や彼を敬愛する人たちに会う機会があり、シャンベリーに行ってヴァランス夫人の墓参りもしました。テレーズも彼のもとに到着し、二人はブルゴワン近郊のホテル「ラ・フォンテーヌ・ド・オル」で正式に結婚します。テレーズはついにルソー夫人になったわけです。
しかし、彼の病状は好転しては悪化したりを繰り返していて、この旅のさなかでも極度の不安に陥ることがしばしばありました。
⑤パリに戻った後は気ままに過ごし、被害妄想に悩まされつつ自伝的作品「告白」を完成
1770年、彼は友人の反対にもかかわらずパリに帰ります。パリでは依然としてお尋ね者でしたが、市民の人気は熱狂的なもので、警察は彼の所在を知っていましたが、全く捜索や逮捕などしようとしませんでした。そのため、彼はパリで思うように好きに過ごすことができ、もてなしを受けたり、譜面の写本の仕事をしながら植物採集を楽しみ執筆活動に従事しました。
パリでは、被害妄想に悩まされつつ晩年の自伝的作品「告白」(Les Confessions)を完成させました。彼は「要注意人物」で、出版は禁じられていたため、「告白」は朗読会で公表されました。
この頃の暮らしは5時ごろに起床して楽譜を写す仕事をして、7時半ごろ朝食、午前中は仕事をして、午後になってからカフェに行ったり、植物採集をしたりして夕方になるころに帰宅し、21時ごろには寝るという暮らしだったそうです。
⑥体調不良が続く中、「ポーランド統治論」を執筆
彼は体調不良が続く中で、1771年に「ポーランド統治論」 (Considérations sur le gouvernement de Pologne)を執筆し、政治制度に関する研究や提言も行っています。まもなくポーランドはプロイセン、オーストリア、ロシアの三国による分割によって消滅します。
⑦迫害の恐怖に悩まされる中、自己弁明の「ルソー、ジャン=ジャックを裁く – 対話」を執筆
精神状態は悪化の一途を辿っていました。彼は迫害の恐怖に恐れおののき正気を保てなくなって行きました。そこで、1772年から自己弁明のために「ルソー、ジャン=ジャックを裁く – 対話」 (Rousseau juge de Jean-Jacques)の執筆に取り組み始めています。
ノートルダム寺院に奉納しようとしますが門が閉じていたため目的を果たせず、神さえ敵と共謀していると考えるようになりました。ルソーはビラを印刷して人民に自分の身の潔白を訴えようとしました。
⑧自分を見つめ直す「孤独な散歩者の夢想」の執筆を開始
そして自分を見つめることに老年の仕事を見出し、1776年から「孤独な散歩者の夢想」(Les Rêveries du promeneur solitaire)の執筆を始めました。
これらも「新エロイーズ」とともにロマン主義文学に、自然と自我の問題を提起して広大な影響を及ぼしました。
⑨体力の衰えと貧困や妻の看病のために執筆活動を中断
しかし、彼は年齢と共に体力も衰えて貧困に窮していき、病気になったテレーズの看病をしなくてはならず執筆活動は中断したままとなりました。
1778年、愛読者のジラルダン侯爵の好意を受けてパリ郊外のエルムノンヴィルに移ります。この地で彼はジラルダン侯爵と好きな植物採集を楽しんだりしています。
⑩死去
しかし、7月2日、ジラルダン侯爵の娘にピアノを教えるため支度をしている際、彼は倒れます。死因は尿毒症と言われていますが、彼の容態は急激に悪化して、そのまま帰らぬ人となりました。享年66。7月4日彼の遺体はポプラ島に埋葬されました。
その死後、フランス革命が勃発、かれは革命の功績者と讃えられ、栄誉の殿堂パンテオンに合祀されています。
3.ジャン=ジャック・ルソーの言葉
・私たちは無知によって道に迷うことはない。自分が知っていると信じることによって迷うのだ。
・ある者は明日に、他の者は来月に、さらに他の者は十年先に希望をかけている。
誰一人として、今日に生きようとする者がいない。
・ある真実を教えることよりも、いつも真実を見出すにはどうしなければならないかを教えることが問題なのだ。
・最も教育された者とは、人生のよいことにも悪いことにも最もよく耐えられる者である。
・人は手に入れているものよりも期待するものを喜ぶ。
・男は知っていることをしゃべり、女は人に喜ばれることをしゃべる。
・恋と同じで、憎悪も人を信じやすくさせる。
・人は、実際の恋愛対象よりも、自分で心に描き出した相手の像の方を一層愛する。
人がその愛する者を正確にあるがままに見るならば、もはや地上に恋は無くなるだろう。
・私たちは、いわば二回この世に生まれる。一回目は存在するために、二回目は生きるために。
・イギリスの人民は自由だと思っているが、それは大まちがいだ。彼らが自由なのは、議員を選挙する間だけのことで、議員が選ばれるやいなや、イギリス人民は奴隷となり、無に帰してしまう。
・人は常に幸福を求めるが、常に幸福に気づかない。
・人間をつくるのが理性であるとすれば、人間を導くのは感情である。
・人生の最初の四分の一はその使い道もわからないうちに過ぎ去り、最後の四分の一はまたその楽しさを味わえなくなってから過ぎて行く。
しかもその間の期間の四分の三は、睡眠、労働、苦痛、束縛、あらゆる種類の苦しみによって費やされる。人生は短い。
・ある人の生き方が非合理だといって反対するのは手前勝手なでしゃばりではあるまいか。
なぜなら、そのように言うことは、その人の信念確定の方法が自分のそれとは違う、ということを言っていることにすぎないからだ。
・優雅は美貌と違ってすり切れない。それには生命があり、たえず新しくなる。
したがって三十年の結婚生活の後にも、貞淑な妻に優雅ささえあれば、彼女は結婚の最初の日のように夫に気に入られる。
・悔恨の情は、得意の折には熟睡し、失意のときには目を覚ますものである。
・慣習とは反対の道を行け。そうすれば常に物事はうまくいく。
・学問とはわずかな時の間に、数百千年の人類の経験を受け取ることである。
・人間は生まれながらにして自由である。しかし、いたるところで鎖につながれている。
自分こそが主人だと思っている人も、実は奴隷であることに変わりはない。
・我々は生まれると競技場に入り、死ぬとそこを去る。
その競技用の車を一層うまく操るすべを学んだとて何になろう。
いまとなっては、ただどんなふうに退場したらよいかを考えればよいのだ。
老人にもまだ勉強することがあるとすれば、ただひとつ、死ぬことを学ぶべきだ。
・生きるとは息をすることではなく行動することだ。
・他人の不幸に同情するのは、自分に無関係だと思えない時だけである。
・人間が生きている間、決して消え失せることのない唯一の情欲は自愛である。
・自然を見よ。そして自然が教える道をたどっていけ。自然は絶えず子供を鍛える。
・教育とは自然の性、すなわち天性に従うことでなければならない。国家あるいは社会のためを目標とし、国民とか公民になす教育は、人の本性を傷つけるものである。
・自然に還れ。
・嘘には二種類ある。過去に関する事実上の嘘と未来に関する権利上の嘘である。
・理性は独りで歩いてくる、偏見は群れで走ってくる。
・十歳では菓子に、二十歳では恋人に、三十歳では快楽に、四十歳では野心に、五十歳では貪欲に動かされる。人間はいつになったら、英知のみを追うようになるのだろうか。
・人生は短いと言われる。しかしそれはわずかな時間しか生きられないからというよりも、人生を楽しむ時間をほとんど持たないからだ。
・肉体があまり安楽すると、精神が腐敗してくる。
・子どもに純真な心をも持ち続けさせるよい方法は一つしかないと思われる。それは、子どものまわりにいるすべての人が純真なものを尊重し、愛することだ。
・最大の災害は自ら招くものである。
・最も長生きした人間とは、最も年を経た人間のことではない。人生を楽しんだ人間のことである。
・一緒に泣くことほど、人の心を結びつけるものはない。
・子供を不幸にする一番確実な方法は何か。それをあなた方は知っているだろうか。それはいつでも何でも手にいれられるようにしてやることだ。
・わずかなる知識しか持たぬ人間は多く語る。 識者は多く黙っている。
・過ちを犯すことは恥ずべきことではない。むしろその過ちがわかった後も、その過ちを改めようとしないで、繰り返すのは恥ずかしいことだ。
・他人を愛せよ。そうすれば彼らもまた、あなたがたを愛するだろう。彼らの役にたて、そうすれば彼らもあなたがたの役にたつであろう。
・私達は何事にも刃向かえる。が、好意にだけは反抗できない。
・他人の好みにかなう妻より、自分の好みにかなう妻を求めよ。
・教育とは、機械を造る事ではなく、人間を創る事である。
・人民の自由は、国家の健全に比例する。
・不運は確かに偉大な教師だが、その授業料は高く、それから得た利益は、しばしばそれに費やした費用に匹敵しない。
・人はよくあることには動じない。
・あらゆる人間の知識のうちで最も有用でありながら最も進んでいないものは、人間に関する知識であるように思われる。
・教育は、自然の本性に合わせなければならない。国政に合わせるものは、個性に逆らうものである。
・大都会は、人類の掃きだめである。
・持っている金は、自由への手段であり、求めている金とは、隷属への手段である。