徳川幕府の将軍は15人います。初代将軍の徳川家康は誰でも知っていますが、2代将軍・秀忠、3代将軍・家光、5代将軍・綱吉(犬公方)、8代将軍・吉宗、15代将軍・慶喜も比較的有名です。
しかし、4代将軍・徳川家綱については、ご存知の方は少ないと思います。
1.徳川家綱とは
4代将軍・徳川家綱(1641年~1680年、在職:1651年~1680年)は、3代将軍・徳川家光(1604年~1651年)の長男で、母は於楽之方(おらくのかた)(宝樹院)です。
1650年に世子となって西の丸に移り、1651年家光の死去に伴いわずか11歳で将軍となりました。
彼は徳川氏初の「幼将軍」であり、かつ長じても病弱であったため、自ら政治を行うことは少なく、幕閣による集団指導体制がとられました。
具体的には叔父の保科正之(ほしなまさゆき)、大老・酒井忠勝(さかいただかつ)、老中・松平信綱(まつだいらのぶつな)ら徳川一門、大老・老中たちによる文治政治でした。
保科正之(1611年~1673年)は、二代将軍・秀忠の庶子で家光の異母弟にあたり、後に会津藩主となりました。秀忠の死後、家光はこの謹直で有能な異母弟をことのほか可愛がり、別格の扱いをして将軍家の弟として世に知らしめました。
1651年、死の床にあった家光は「肥後よ、宗家を頼みおく」と遺言しました。「肥後守(保科正之)よ、我が息子(家綱)をよろしく頼むぞ」という意味です。彼は忠実に家光の遺言を守り、その子孫の会津藩主も最後まで幕府に忠誠を尽くしました。
松平信綱(1596年~1662年)も、先代・家光にも重用された知恵者で、才知と官職の伊豆守から「知恵伊豆」と呼ばれました。彼は家光の時代に起きた「島原の乱」(1637年~1638年)を見事に鎮圧しました。
2.家綱が「左様(さよう)せい様」というあだ名で呼ばれた理由
家綱は温厚な人柄で絵画や魚釣りなどの趣味を好み、政務を酒井忠清をはじめ老中らに任せ、自らは「左様せい」で決裁していたことから、「左様せい様」という異名が付けられたということです。
私が子供の頃に見た時代劇映画で、家臣が言うことには何でも「良きに計らえ」というだけの「何でも家臣に丸投げ」の殿様がいました。実際にも家綱のような将軍や大名の殿様が多かったということでしょう。
3.家綱の時代に起きた主な出来事
(1)「由井正雪の乱(ゆいしょうせつのらん)」(慶安の変)(1651年)
軍学者の由井正雪(1605年~1651年)が、幕府政策への批判と浪人の救済を求めて、浪人とともに起こした反乱です。
(2)「明暦の大火(めいれきのたいか)」(1657年)
これは3日間で江戸の大半を焼いた大火災です。「明和の大火(1772年)」「文化の大火(1806年)」とともに「江戸三大大火」と呼ばれています。
出火の状況から「振袖火事(ふりそでかじ)」、その年の干支から「丁酉火事(ひのととりのかじ)」、火元の地名から「丸山火事(まるやまかじ)」とも呼ばれました。
(3)お家騒動
「お家騒動」とは、江戸時代に大名家中に起こった家督・家政をめぐる藩内の紛争・抗争です。
①「伊達騒動」(1660年~1703年)
「綱宗隠居事件(1660年)」「寛文事件(1671年)」「綱村隠居事件(1697年~1703年)」の3つの事件の総称ですが、主に「寛文事件」を指す言葉です。
仙台藩3代藩主・伊達綱宗は遊興放蕩三昧であったため、叔父に当たる一関藩主・伊達宗勝が諫言しましたが、聞き入れられませんでした。
そこで宗勝は、親族大名の岡山藩主・池田光政、柳川藩主・立花忠茂、宮津藩主・京極高国と相談の上、老中首座の酒井忠清に対して、綱宗と仙台藩家老に注意するよう提訴した事件です。
②「越後騒動」(1679年~1681年)
これは越後国・高田藩で起こったお家騒動です。藩政を執っていた筆頭家老・小栗矩矩(小栗美作)と、これに敵対するお為方と称する永見長良(永見大蔵)、荻田元繁(荻田主馬)ら一族重臣とが争い、結局五代将軍・綱吉の裁定で両派に厳しい処分が下され、高田藩が改易となった事件です。
(4)対外的な事件
①鄭氏政権からの援兵要請
「鄭氏(ていし)政権」とは、清朝への抵抗拠点を確保するために鄭成功(1624年~1662年)が台湾を制圧することで成立した政権です。
鄭成功は清との戦いに際し、たびたび日本に軍事的な支援を申し入れましたが、鎖国体制を整えつつあった幕府は火中の栗を拾うことは避け、援兵要請を拒否しました。
②蝦夷地でのシャクシャイン蜂起(1669年)
蝦夷地のアイヌ部族の首長シャクシャイン(1606年?~1669年)が、蝦夷地全域のアイヌ部族に対して、松前藩への戦いを呼び掛けて蜂起した事件です。
幕府は東北諸藩に対し、松前藩への援軍や鉄砲・兵糧の供与を命じ、実行させました。結局、シャクシャインは松前藩によって謀殺され、蜂起は鎮圧されました。
③イングランド船リターン号による通商再開要求(1673年)
1673年に長崎に来航したイングランド船リターン号は、日本で売るための羊毛を積み、幕府に貿易再開を要求しましたが、幕府は家光以来の「鎖国政策」を堅持して上陸を拒否しました。
4.家綱の業績(功績)
保科正之の主導により、従来の武力に頼った「武断政治」から「文治政治」への政策切り替えが行われました。
1663年に「武家諸法度」の改正を行い、「殉死の禁止」と「大名証人制度の廃止」を実施しました。これは「寛文の二大美事(かんぶんのにだいびじ)」と呼ばれます。
「殉死の禁止」は、主君への後追い自殺である殉死を禁止したものです。理由は人材損失の防止と、個から家への忠義意識の変更を促す狙いもありました。
「大名証人制度の廃止」は、江戸へ居住させた大名の家臣とその家族はもう証人としては不要としたものです。主君の行動に家臣が責任を持つ必要はないとした考えもありました。