「そうせい様」と呼ばれた12代将軍・徳川家慶はオットセイ将軍・家斉の息子

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そうせい様・徳川家慶

前に、「左様せい様」と呼ばれた四代将軍・徳川家綱をご紹介しましたが、これとよく似た「そうせい様」というあだ名をつけられた将軍がいます。12代将軍・徳川家慶のことです。

1.徳川家慶(いえよし)とは

12代将軍・徳川家慶(1793年~1853年、在職:1837年~1853年)は、「オットセイ将軍」と呼ばれた11代将軍・徳川家斉(1773年~1841年)の次男です。

長兄である竹千代が早世したため将軍継嗣となり、1837年に45歳で父・家斉から将軍職を譲られましたが、家斉が大御所として強大な発言権を保持していました。

家斉の死後に、家慶は四男・家定を将軍継嗣に決定しています。

彼は老中首座の水野忠邦(1794年~1851年)を重用し、家斉派を粛清して綱紀粛正・質素倹約を掲げた「天保の改革」(1841年~843年)を行わせました。

しかし、この改革はあまりに性急であまりに厳しすぎたため、庶民からも大いに反感を買い、わずか2年で失敗に終わりました。

改革の失敗で水野忠邦が失脚した後の1843年、25歳の阿部正弘(1819年~1857年)を老中に抜擢しました。

阿部正弘は有力諸藩の改革派勢力に対して柔軟な路線を採用したため、結果的に幕末の雄藩連合運動の素地を作ることになりました。

父・家斉を反面教師にしていた家慶ですが、精力絶倫ぶりは父親譲りだったようで、彼も27人の子供を儲けました。しかし皮肉なことに、無事に成人したのは13代将軍となる家定(1824年~1858年、在職:1853年~1858年)だけという悲しい結果に終わりました。

さらに家定自身も病弱で実子を残さなかったため、家慶の血筋は断絶しました。

彼はまた、水戸藩主・徳川斉昭の七男・七郎麿(後の徳川慶喜)に、御三卿の一つである一橋家を相続させています。

2.「そうせい様」というあだ名で呼ばれた理由

家慶は家臣の意見に反対することなく、「そうせい」と答えるだけだったことから、「そうせい様」というあだ名で呼ばれるようになりました。

趣味の絵画に没頭したため、「無能な暗君」というイメージで語られることが多い将軍です。

「幕末の四賢侯」の一人の松平春嶽(1828年~1890年)には「凡庸の人」と酷評されています。

ちなみに「幕末の四賢侯」とは、福井藩主・松平春嶽、宇和島藩主・伊達宗城、土佐藩主・山内豊信、薩摩藩主・島津斉彬のことです。

3.徳川家慶の時代に起きた主な出来事

(1)「大津浜事件(おおつはまじけん)」(1824年)

1824年に、水戸藩領の大津(現在の茨城県北茨城市大津町)の浜に、イギリス人12人が上陸し、水戸藩が尋問した後、彼らを船に帰した事件です。

1825年の「異国船打払令(いこくせんうちはらいれい)」の一因となりました。

これは家慶の父・家斉の将軍在位の時代に起きた事件ですが、その後に起こる「モリソン号事件」や「黒船来航」につながる事件です。

(2)「モリソン号事件」(1837年)

1837年にアメリカ船モリソン号を、「異国船打払令」にもとづき砲撃して打ち払った事件です。モリソン号は漂流した日本人漁民を乗せており、その送還と通商を目的として来航したものでした。

(3)「蛮社の獄(ばんしゃのごく)」(1839年)

1839年に、開明的な蘭学者の高野長英(1804年~1850年)・渡辺崋山(1793年~1841年)などが、「モリソン号事件」と「幕府の鎖国政策」を批判したため、捕らえられて獄につながれるなど処罰を受けた言論弾圧事件です。

「蛮社」とは、国学者が蘭学を勉強している学者の集団のことを呼んだ名前です。

(4)「黒船来航(くろふねらいこう)」(1853年)

1853年に、代将マシュー・ペリーが率いるアメリカ海軍東インド艦隊の蒸気船2隻を含む艦船4隻が日本に来航した事件です。

温和で冷静沈着な性格だったという家慶も、黒船来航にショックを受けたのか事件から2週間後に病に倒れ、外交を阿部正弘と水戸藩主・徳川斉昭に任せて、間もなく亡くなりました。

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