日本三大悪女とは?淀殿・北条政子・日野富子の三人についてご紹介します!

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淀殿

世の中には「三大」とつく言葉がたくさんあります。「三大栄養素」「三大橋」「三大寺」「三大祭」「三大都市」などです。

人物についても「三大美女」と言う美貌の女性を賞賛する言葉がある一方、「三悪人」とか「三悪女」「三悪妻」という非難を込めた言葉もあります

「雌鶏(めんどり)歌えば(鳴けば)家滅ぶ」とか「雌鶏歌えば(鳴けば)国滅ぶ」ということわざがあります。雌鶏が雄鶏に先んじて時を告げるのは不吉なきざしである」ということで、「妻が夫を出し抜いて権勢を振るうような家はうまく行かず、やがて滅びるというたとえ」です。現代では「女性差別的なことわざ」だと攻撃されそうな気もしますが・・・

これは中国由来のことわざで、古代中国では「妲己(だっき)と紂王(ちゅうおう)」や「楊貴妃と玄宗皇帝」の例のように、「女性が権力者に取り入って国を滅ぼす」ことが後を絶たなかったのです。

「女賢(さか)しくて牛売り損なう」「女の鼻の先思案」「女の浅知恵」「女の猿知恵」などという言葉もありますが、これも現代では「女性差別的なことわざ・言葉」だと攻撃されそうですね。

もちろん男の悪人の方が古来多いと思います。暴君ネロや、ヒトラースターリン毛沢東など歴史上の独裁者がそうですし、現代でもカンボジアのポル・ポト、ウガンダのアミン大統領、ジンバブエのムガベ大統領、イラクのフセイン大統領、シリアのアサド大統領、北朝鮮の金正恩委員長などの独裁者は間違いなく悪人です。

そこで今回は「日本三大悪女」についてご紹介したいと思います。

1.淀殿

大阪城桜

淀殿(1567年~1615年)は、安土桃山時代から江戸時代にかけて生きた女性です。

浅井長政(1545年~1573年)の長女で、母は織田信長(1534年~1582年)の妹お市の方(1547年~1583年)で幼少期は近江小谷城で過ごしました。名は茶々です。

浅井氏が織田信長に滅ぼされた後、柴田勝家に再嫁した母に従って越前北ノ庄城に入り、柴田氏が豊臣秀吉(1537年~1598年)に滅ぼされた後は、秀吉に引き取られて側室となりました。

最初は伯父信長の家臣であった秀吉の側室になることに拒絶しましたが、秀吉の粘り強い求愛の結果、最終的には側室になりました。彼女は子供を生んで織田家の再興、あるいは豊臣家の天下の存続を夢見たのかもしれません。

彼女は、秀吉の正室や多くの側室が誰一人として子供を生めなかったのに、鶴松と秀頼(鶴松は夭逝)を生みました。ただし父親は秀吉ではなく家臣の大野治長(1569年~1615年)ではないかと、当時から噂されていました。大野治長の母は淀殿の乳母だった大蔵卿局です。

秀吉在世中は政治の表舞台に出ることはありませんでしたが、秀吉の死後は淀城から大坂城に移って権勢を振るいました。

しかし、秀吉の死の2年後の1600年に起きた「関ヶ原の戦い」で徳川方(東軍)が勝利し、石田三成らの豊臣方(西軍)は敗れて 実質的に徳川家康の天下となり、豊臣家は一大名に転落します。

豊臣家の天下存続の夢から覚めない彼女は、大坂の陣で徳川家康(1543年~1616年)に敗れ、秀頼とともに自刃しました。彼女は生涯で3度の落城を経験したことになります。

1598年の「醍醐の花見」で「花もまた君のためにと咲き出でて世にならびなき春にあふらし」と言う歌を詠んでいます。

彼女が「悪女」と言われる最大の理由は、実質的に徳川家康の天下となった現実を認めようとせず、豊臣家の栄華の夢を捨てきれず、自ら身を滅ぼしたことですが、大野治長(?)との不義密通で秀頼を生んだこともあるでしょう。

秀吉の辞世「露と落ち露と消えにし我が身かな浪速のことは夢のまた夢」ではありませんが、早く夢から覚めて現実を直視し徳川幕府のもとで一大名の母子として安穏に生きる道を模索すべきだったのではないかと私は思います。しかし、それは彼女のプライドが許さなかったのでしょう。

2.北条政子

北条政子

北条政子(1157年~1225年)は、平安時代から鎌倉時代にかけて生きた女性です。

北条時政(1138年~1215年)の長女で、のちに鎌倉幕府初代将軍となる源頼朝(1147年~1199年)の妻です。

北条氏は伊豆国の豪族で平氏に属する家柄でしたが、平氏の栄華とは程遠く、家格も低い地方の一豪族でした。時政は伊豆国府の役人で配流中の頼朝の監視役でした。

彼女は流人である頼朝と恋仲になります。最初時政はこの結婚に反対でしたが、頼家・実朝および二人の娘が生まれたのを契機に頼朝の後ろ盾になる決断をします。

夫の幕府創設を助け、1199年に頼朝が亡くなると尼になりますが、実家北条氏と結んで幕政を左右しました。

まず、1203年には北条氏の合議制による将軍権能の制限を嫌った頼家を廃して実朝を将軍に立て、1204年には頼家を幽閉先の修善寺で殺害しています。1205年には時政の後妻牧の方の陰謀を抑え、1219年に実朝が暗殺されると、京都から九条頼経を将軍に迎えて傀儡とし、自ら後見となって幕政を裁断し「尼将軍」と呼ばれました。

1221年に後鳥羽上皇が皇権回復を目指して討幕の兵を挙げ、鎌倉幕府軍に鎮圧された「承久の乱」では、御家人たちを集めて幕府の恩を諭し聞かせ、彼らの動揺を抑えて忠誠を誓わせました。

彼女が「悪女」と言われる最大の理由は、我が子である二代将軍の頼家を死に追いやったことでしょう。頼家が母の実家である北条氏を軽んじたことや、幕府を束ねる能力がないと見限ったこともあるでしょうが・・・

このほか、源範頼に謀反の疑いがあると頼朝に讒言したり、「承久の乱」で鎌倉幕府に謀反を起こした後鳥羽上皇を隠岐の島への流罪に処したりしたこともあるでしょう。

また嫉妬深く、頼朝が他の女性と接することをあまり許さなかったため、結果的に後継者不足となり、源氏が棟梁を務めたのは三代までに終わったこと、源氏の嫡流が絶えた後は彼女と北条家が政治の実権を握ったことも理由でしょう。

3.日野富子

日野富子

日野富子(1440年~1496年)は、室町時代に生きた女性です。日野重政(?~1443年)の娘で、室町幕府八代将軍足利義政(1436年~1490年、在位:1449年~1474年)の妻です。

16歳で義政に嫁ぎ、最初男子が生まれなかったため、義政の弟義視を還俗させて後嗣としました。

しかし、1465年に義尚が生まれたので、義尚を将軍の後継者とするため山名宗全と結び、義視を推す細川勝元と対立して争い、ついには「応仁の乱」(1467年~1477年)を引き起こしました。

そのため幕府の実権は失われ、社会は混乱し、政治は腐敗の極にありましたが、彼女は兄の日野勝光と結んで賄賂を取り、内裏修理の名目で関を設けて関税を課し、高利貸しをして私腹を肥やしました。「日野富子の悪政」と呼ばれるものです。「私腹を肥やす」と言えば、戦後アジア・アフリカ諸国の独裁者の妻たちもやっていたことです。

義尚を将軍にすることには成功し、後見として絶大な権力を振るいましたが、義尚は1489年に近江六角討伐の陣中で病没し、1490年には義政も亡くなったのでその権勢も衰え、義視の子義植が将軍になると所領を没収され、失意のうちに亡くなりました。

彼女が「悪女」と言われる最大の理由は、実子を将軍に就けたいという思いから「応仁の乱」を招いたことですが、このほか夫の義政を疎んじて政治の実権を握ったこと、政治活動よりも自らの蓄財に熱心で、結果として民衆の生活の困窮を招いたことなどが理由に挙げられです。

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