「世界三大美人」と言えば、日本では一般には「クレオパトラ」「楊貴妃」「小野小町」のことを指します。ただし、日本以外では「クレオパトラ」「楊貴妃」と古代スパルタの王妃「ヘレネー」を指すようです。いずれにしても、「クレオパトラ」は歴史上最も有名な絶世の美女です。
私にとってクレオパトラの思い出と言えば、高校2年の文化祭(学園祭)で、私のクラスがシェイクスピア原作の「アントニウスとクレオパトラ」の演劇をしたことです。私の役はブルータスとともにカエサルを暗殺する元老院の一団(その他大勢)の一人でした。古代ギリシャの衣服である「キトン」(布を二つに折って体に巻き、肩を留め具で留める)を着る必要があり、母に「敷布」で作ってもらいました。
そこで今回はクレオパトラについてご紹介したいと思います。
1.クレオパトラとは
クレオパトラ(B.C.69年~B.C.30年、在位:B.C.51年~B.C.30年)は、古代エジプトのプトレマイオス王朝最後の女王(クレオパトラ7世)です。
ローマ人からは「ナイルの魔女」と悪罵されましたが、古代ギリシャの伝記作家プルタルコスは「アントニウス伝」の中で「彼女は魅力的で教養豊かであったものの妖婦ではなかった」と述べています。
彼女はプトレマイオス12世(B.C.117年~B.C.51年、在位:B.C.80年~B.C.51年)の次女として生まれました。当時のエジプトの首都アレクサンドリアは、地中海世界屈指の大都市で、ヘレニズム文化の中心として栄えていました。
マケドニア・ギリシャ系の才色兼備の女性で、高い教養を持ち、ギリシャ語しか話さなかった王家の人々の中で、エジプト語はもちろん近隣諸国の言語を解し、外交使節とも通訳なしで応対したと言われています。
17歳の時、プトレマイオス家の「血族結婚の慣例」と父王の遺言に従って9歳の弟プトレマイオス13世(B.C.63年~B.C.47年、在位:B.C.51年~B.C.47年)と結婚し、共同統治をしていました。
しかしやがて二人は反目して宮廷内も二派に分かれ、反ローマ派のプトレマイオス13世は彼女を追放しましたが、親ローマ派のクレオパトラが頼ったカエサル率いるローマ軍の介入によって、B.C.47年の「ナイルの戦い」で敗れ、殺害されます。
彼女はプトレマイオス13世と敵対していた時、何とかカエサルと接触しようと試みましたが、宮廷はプトレマイオス13世派が多数を占めていたため、王宮では会えませんでした。そこで彼女は自らを絨毯に包んでカエサルのもとへ「贈り物」として届けさせたのです。古代エジプトでは、贈り物や賄賂の宝物を絨毯に包んで渡す習慣があったそうです。
カエサルは、彼女の美貌、敵の中枢に単身潜入する豪胆さ、危険な目的にも遊び心を持たせるセンス、それら全てに驚愕し、一瞬にして魅了されたようです。
彼女はカエサルの裁定によって、末弟のプトレマイオス14世との共同統治者として復位し、エジプトを統一します。カエサルの愛人となったクレオパトラは、男児カエサリオンを生みます。カエサルのローマ凱旋後、彼女は男児を伴ってローマを公式訪問し、彼の邸宅に迎えられています。彼女はカエサリオンが嫡子のいないカエサルの後継者になることを望んでいましたが、カエサルは遺言書で、養子であり大甥(妹の孫)であるオクタヴィアヌス(B.C.63年~A.D.14年)を後継者と定めていました。
そのためB.C.44年にカエサルが暗殺されると、彼女は急いでエジプトに帰り、プトレマイオス14世を殺害して息子のカエサリオンを共同統治者としています。
オクタヴィアヌスとアントニウスらは、B.C.42年の「フィリッピの戦い」でブルータスなどのカエサル暗殺者たちを撃滅します。
彼女はオクタヴィアヌスへの対抗上、ブルータスらを支援しました。そのためオクタヴィアヌス側のアントニウスが彼女に出頭を命じます。彼女は女神アフロディテのように着飾り、香を焚いて彼のもとに出頭します。彼はたちまち魅了され、彼女は彼を味方に引き入れて危機を乗り越えます。
そして彼女は、アントニウスと結婚し、男女の双生児を含む3人の子供を生んでいます。
彼女はアントニウスと組んで、オクタヴィアヌスに対抗しようとしました。
しかし、彼女とアントニウスとの連合軍が、オクタヴィアヌス(後のアウグストゥス)のローマ軍との決戦「アクティウムの海戦」(B.C.31年)で敗れ、アントニウスが自殺したことを受けて、彼女も最後には自殺しました。
「アクティウムの海戦」は、兵員数では彼女とアントニウスとの連合軍が上回っていましたが、アントニウス軍は大型船主体で重く操縦が不自由だったのに対し、オクタヴィアヌス軍は小型軽量船で機動力に優れていたので、次々とアントニウス軍の巨船を沈めました。両軍が少し交戦した時点で、戦況不利を悟った彼女の艦隊は戦線を離脱し、アントニウスも彼女を追って撤退したため、指揮官を失ったアントニウス軍は陸海ともに総崩れとなって潰走し、オクタヴィアヌスの勝利となりました。
オクタヴィアヌス軍から「部下を置き去りにし、女の後を追った」と嘲笑されたアントニウスは、エジプトの首都アレクサンドリアへと逃亡します。アントニウスはクレオパトラが自殺したとの報(誤報)を聞き(あるいは彼を見限った彼女から絶縁を伝えられて)、自刃しました。
彼女が早々に戦線を離脱した理由は、私の勝手な想像ですが、エジプト軍の消耗を避けて温存し、極力ローマ人同士で戦わせて疲弊させ、最終的に勝った方に付いてプトレマイオス王朝の延命を図ろうとしたのではないかと思います。「自分が自殺したとの誤報」も彼女がアントニウスに諦めさせるために流した虚報だったかもしれません。そしてオクタヴィアヌスが勝利したことを知ると、彼を籠絡して将来的には息子のカエサリオンをローマ皇帝にしようとしたのかもしれません。
オクタヴィアヌスはクレオパトラとカエサルの間に生まれたカエサリオンを殺害しています。生かしておけば、いつ誰が「カエサルの後継者」に担ぎ上げ、再びローマを混乱に陥れるかわからないからです。
なお、彼女とアントニウスとの間に生まれた3人の子供は、オクタヴィアヌスの姉でアントニウスの前妻に預けられ養育されたそうです。
彼女は美貌と豊かな教養を武器にしながら、カエサル、アントニウスの後ろ盾を得てプトレマイオス王朝の維持に全力を傾けました。しかし、オクタヴィアヌスには彼女の誘惑は通じなかったようです。
余談ですが、「クレオパトラの鼻がもう少し低かったら、世界の歴史も変わっていただろう」という言葉を昔よく聞きましたが、これはフランスの数学者・物理学者・思想家のパスカル(1623年~1662年)の「パンセ」にある言葉です。
「鼻」はあくまでも比喩で、もしクレオパトラが美女でなかったらカエサルが愛人にしなかったかもしれないし、アントニウスが虜になることもなかったかもしれない。そうすると、初代皇帝アウグストゥス(B.C.63年~A.D.14年)のローマ帝国の誕生もなかったかもしれないし、その後の歴史も大きく変わっていたかもしれないということです。「大事に大きな影響を及ぼす些細な物事のたとえ」です。
話が脱線しますが、私は個人的に「夏目漱石が教師を辞めて小説家になっていなかったら、日本の国民文化は貧弱なものに変わっていただろう」と思っています。明治時代に活躍した小説家で、現在も広く愛読されている国民的小説家は彼ぐらいではないでしょうか?彼の小説は現代人にも訴える「古さを感じさせない」「普遍的な」ものがあります。
2.カエサルとは
カエサル(B.C.100年~B.C.44年)とは、古代ローマの将軍・政治家です。フルネームは、ガイウス・ユリウス・カエサルで、英語名はジュリアス・シーザーです。
ポンペイウス・クラッススと、第一回三頭政治を結成しました。ガリアを平定したのち独裁者となりましたが、共和派によって元老院内で暗殺されました。
3.アントニウスとは
アントニウス(B.C.83年~B.C.30年)とは古代ローマの軍人・政治家です。カエサルの武将としてガリア遠征で活躍しました。カエサルの没後、オクタヴィアヌス・レピドゥスとともに、第二回三頭政治を行いました。
「フィリッピの戦い」で、オクタヴィアヌスとともに、カエサルの暗殺者ブルータスらを破りました。しかし後にオクタヴィアヌスと対立し、クレオパトラと結んで「アクティウムの海戦」を戦いましたが敗れ、翌年アレクサンドリアで自殺しました。
4.クレオパトラを題材とした作品
(1)映画
1963年に20世紀フォックスが製作した「クレオパトラ」(主演:エリザベス・テイラー)が有名です。
(2)絵画
フランスの画家ジャン=レオン・ジェローム(1824年~1904年)の「カエサルとクレオパトラ」が有名です。これは絨毯からクレオパトラが出て来て、カエサルが仰天している有名なシーンです。
もう一枚、ドメニコ・マリア・ムラトーリの作品(1720年)をご紹介します。これはオクタヴィアヌスの捕虜となっていたクレオパトラがアントニウスの死を受けて、自ら蛇の毒によって命を絶った場面です。
(3)小説
宮尾登美子(1926年~2014年)が1996年に発表した「クレオパトラ」があります。