小野妹子と言えば、遣隋使として有名ですが、その生涯はあまり知られていません。
そこで今回は小野妹子についてわかりやすくご紹介したいと思います。
1.小野妹子とは
小野妹子(おののいもこ)(生没年不詳)は、飛鳥時代の官人です。607年、聖徳太子(574年~622年)に選ばれて遣隋使となり、隋の第2代皇帝の煬帝(ようだい)(569年~618年、在位:604年~618年)に「国書」を提出し、翌年(608年)隋使の裴世清(はいせいせい)とともに帰国しました。隋では蘇因高(そいんこう)と称しています。
同年、隋使の裴世清を送って、僧旻(みん)、高向玄理(たかむこのくろまろ)、南淵請安(みなぶちのしょうあん)ら留学生とともに再び隋に渡り、翌年(609年)帰国しています。
小野妹子の遣隋使派遣の目的は、隋の政治制度や技術を日本に取り入れることもありますが、長らく途絶えていた外交を再開するためでもありました。
2.聖徳太子の「国書」が隋の煬帝を激怒させた理由
「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや」という有名な文言の入った国書を隋の煬帝に提出しました。これは、中国の史書である「隋書」に記録されています。
この文言に煬帝は激怒しました。その第一の理由は、「天子」という言葉は「世界を統治する者」という意味があり、煬帝はそれは隋の皇帝である自分のみに許された呼び名だと考えていたことです。
第二の理由は、隋を「日没する処」と表現したことが、まるで隋が衰退に向かう国であるかのような印象を与えたことです。
煬帝の本音は「東の野蛮な民族がなぜ『天子』などというのか?文化レベルが低い小さな島国日本の天皇が隋の皇帝と同じ天子と称するのは無礼千万!」といったところでしょう。
煬帝は「無礼な蕃夷(ばんい)の書は、今後は見せるな」と厳命したそうです。
聖徳太子の国書は、なかなか気骨のある文書でしたが、当時の隋は超大国であり、一歩間違えば日本が隋に滅ぼされる危険もありました。
大国の隋と「対等の外交」を目指すことはよかったのですが、リスクはかなり高かったと言えます。
ただ日本にとって幸いだったのは、煬帝が大運河建設などの大土木工事や高句麗遠征などで民衆を酷使したため、各地で反乱がおこり、最後は臣下の宇文化及に殺害され、隋が唐に滅ぼされて滅亡したことです。
3.隋の煬帝から日本への「返書」の紛失事件
激怒した煬帝は、日本への返書として「国書」を小野妹子に預けています。しかし、この国書は日本に届きませんでした。
彼は「帰路に百済でこの大切な返書を百済人に盗まれた」と申し出ています。この失敗によって彼は流罪に処されましたが、なぜかすぐに許され、さらに出世を遂げています。
4.「返書の盗難(紛失)」は小野妹子の偽装工作の可能性が高い
煬帝の返書は、日本にとって大変失礼なものであったに違いありません。その場合、隋との対等外交という名目が成立しなくなってしまいます。
そこで、これを恐れた彼が、意図的に「返書を盗まれた(紛失した)」という偽装工作を行った可能性が高いと考えられます。
5.晩年の小野妹子
二度の遣隋使派遣以降の、彼に関する史料は残されていませんので、はっきりしたことはわかりませんが、晩年は出家して聖徳太子が建立した六角堂に入り「小野妹子専務」と称して六角堂最初の住職になったとされています。
当時の日本では仏に花を供える習慣がありませんでしたが、隋で仏に花を供える習慣を知った彼は、六角堂でもその習慣を行っていたようです。
仏に花を供えたことが華道の始まりとされていますので、華道の家元・池坊では小野妹子は「華道の祖」とされています。池坊の家元は代々「小野妹子専務」から「専」の一文字を取って受け継いでいます。