1.ホメーロス(ホメロス)とは
紀元前8世紀末の古代ギリシャの「アオイドス(吟遊詩人)」(職業的口承詩人)であったとされる人物です。
古代ギリシャの「アイオドス」は、11世紀末から13世紀末にかけて南フランスでオック語による抒情詩を残した「トルバドゥール」や、中世ドイツの騎士詩人「ミンネゼンガー(ミンネジンガー)」のような吟遊詩人の源流です。「平家物語」を琵琶で弾き語りした日本の中世の「琵琶法師」にも似ていますね。
彼の生まれや生涯などについてはほとんど知られていません。
西洋文学最初期の2つの作品「イーリアス」と「オデュッセイア」の作者と考えられています。
なお、「ホメーロス」という語は、「人質」もしくは「付き従うことを義務付けられた者」という意味です。現在のギリシャ語では「オミロス」と発音されています。
古代人はホメーロスを「詩人」というシンプルな異名で呼んでいたそうです。
「イーリアス」と「オデュッセイア」は、文字で書かれた書物ではなく、ホメーロスのような職業的口承詩人によって伝承されたものです。職業的口承詩人は、ホメーロスと同様に多くは盲人でした。日本の琵琶法師とよく似ていますね。
しかし1万数千行におよぶ長大な詩を暗誦できたということは大変な記憶力というべきです。古事記を暗誦していた稗田阿礼も驚異的な記憶力の持ち主だったようですが、それに匹敵します。
彼ら絶倫の記憶力を持つ職業的口承詩人たちは、文字を使うことに無関心か、あるいは軽蔑していたということです。
平家物語を琵琶で弾き語りした琵琶法師や長いネタを語る落語家の記憶力も敬服に値します。
2.「イーリアス」と「オデュッセイア」とは
この2作品は、ホメーロスの作として伝承された古代ギリシャの長編叙事詩です。
「イーリアス」が「トロイア戦争の物語(アキレウスの怒りが中心)」であるのに対し、「オデュッセイア」は「トロイア戦争が終わった後、英雄オデュッセウスが10年にわたる漂流・放浪の末、故国に戻り王位に復するまでの物語」です。
この2作品が成立した年代は、紀元前750年から紀元前700年まで、あるいはそれよりほんの少し後とするのが定説となっています。
この2作品が文字に写された(テキスト化された)のは、紀元前8世紀のホメーロスの時代ではなく、200年ほど経った紀元前6世紀のアテネで僭主政治を行ったペイシストラトス(もしくはその子のヒッパルコス)の時ではないかと言われています。
ローマのキケロの「弁論家について」には、ペイシストラトスがそれまで混乱していたホメーロスの巻々を今日(紀元前1世紀)見るような書物に整備した」とあります。
3.ボッカチオが再発見し、広くヨーロッパに紹介される
この2作品はその後、長い間ほとんど忘れ去られていましたが、ルネサンス期になってイタリアのボッカチオによって、そのギリシャ語原典が発見され、ヨーロッパに広く紹介されることになりました。
4.ヘロドトスの「ホメーロス伝」
古代ギリシャの歴史家ヘロドトス(B.C.484年頃~B.C.420年以前)が書いたとされるホメーロスの伝記があります。これはローマ時代にヘロドトスに仮託されて書かれた偽書で、正確な歴史的事実を述べたものではありませんが、「ホメーロス物語」として読めば面白い内容です。
小アジア西岸にアイオリス系の古都キュメの町で早くに両親を亡くした女の子のクレティスは養父に養われていたが、名も分からぬ男とを情を通じ、身重になってしまった。不祥事に怒った養父はクレティスを新しい町スミュルナの知り合いに預けた。メレスという川のほとりの祭に出かけた夜、クレティスは一人の男の子を産んだ。クレティスは男の子にメレス生まれに因んでメレシゲネスと名付けた。クレティスは母一人で手仕事をしながら力のおよぶ限りのことをして子供を教育した。
メレシゲネスは素質に加えて訓練と学習を重ね、スミュルナの町で学塾の教師となった。商業の町として栄えていたスミュルナは各地から商人が集まっていたが、その一人がメレシゲネスに町を出て船で商売をしようと持ちかけた。そのころ詩作に心を動かされていたメレシゲネスは、広い世界の知識を得ようと、学塾を閉じて船旅に出た。
エトルリアとイベリアを回って帰る途中、イタケに立ち寄った。この地でメレシゲネスはオデュッセウスの様々な伝承を知ることができたが、眼を患ってしまった。さらに旅を続けたが、コロポンに着いたとき、眼病が再発し、ついに盲目になった。明を失った彼はスミュルナに戻り、詩作に専念するになった。その後も各地を放浪しながら詩作を続け、故郷のキュメに帰った。
メレシゲネスは、キュメの町で年寄りたちに自作の詩を聞かせ、一同はその芸に感服するようになった。生活に困っていたメレシゲネスは人の勧めもあって町の議会に行き、公費によって扶養してほしいと請願した。議員の多くは賛成したが、王の一人がメレシゲネスを公費で扶養すれば、他の盲人たちも同じ要求をするだろうとして反対し、請願は通らなかった。この時から、メレシゲネスよりも盲人を意味するホメロスと呼ばれることが多くなった。その後、ホメロスは数々の苦難を味わいながら、詩作を続けた。こうした詩作によって、ホメロスの名はイオニアだけでなく、ギリシア本土(ヘラス)にも広がった。キオスに住んだホメロスのもとに、アテナイに来ないかと誘う人もあり、ホメロスはその気になり、イリアスとオデュッセイアの中に、アテナイのことを盛り込んだ。
サモスからアテナイに渡ろうとして、イオス島まで行ったが、そこで気分が悪くなり横になっていると、漁師の子供たちが「捕らえたるは捨て置きたり。捕らえざりしはここに持つ。」という詩の意味は分かるかとからかった。ホメロスはそのなぞなぞが分からぬまま死んだと言われるが、そうではなく死因はやはり病であった。
漁師の子の詩のなぞなぞは、漁で魚が一匹も捕れなかったので陸に上がって坐り、虱捕りをしたのだが、つかまえた虱はそこに捨て、とり損なった虱は身体に着いたままでいるという意味だった。