皆さんは「ガダルカナル島の戦い」をご存知でしょうか?
太平洋戦争で日本が敗北に至るターニングポイント(転換点)となった戦いで、その前に行われた「ミッドウェー海戦」とともに日本が大惨敗を喫した戦いです。
ではなぜ精鋭部隊は全滅し、日本が敗れることになったのでしょうか?
今回はこれらについてわかりやすくご紹介したいと思います。
1.ガダルカナル島の戦い
(1)「ガダルカナル島の戦い」とは
「ガダルカナル島の戦い」(Battle of Guadalcanal)とは、太平洋戦争において、1942年8
月から1943年2月まで日本軍と連合軍が西太平洋ソロモン諸島のガダルカナル島を巡って繰り広げた戦いです。
日本側は激しい消耗戦によって、戦死者だけでなく、兵員に多数の餓死者を出した上、軍艦、航空機、燃料、武器等多くを失いました。
なお、ガダルカナル島は、「ソロモン諸島」最大の島で、同国の首都ホニアラがあります。太平洋戦争の激戦地で、展開した日本軍部隊の多くが補給路を絶たれ、多数の餓死者を出したことから、略称を「ガ島」をもじった「餓島(がとう)」とも呼ばれました。
「ガダルカナル島」の名前は、1568年にスペイン人探検家アルバロ・デ・メンダーニャ・デ・ネイラ率いる探検隊がソロモン諸島を「発見」し、部下に一人ずつ順番に島の名前を付けさせたのが由来です。その一人ペドロ・デ・オルテガが出身地の「グァダルカナル(現スペインアンダルシア州セビリア県)」にちなんで命名したものです。「グァダルカナル」は「運河の川」という意味の地名です。
1893年に「イギリスの保護領」となりました。1978年にソロモン諸島がイギリスから独立し、首都がガダルカナル島のホニアラに置かれました。
余談ですが、たけし軍団の一員でお笑いタレント「ガダルカナル・タカ」の芸名は、彼が戦争映画に出てくる日本兵に似ていたことから、太平洋戦争の激戦地になったこの島の名前を取り入れたのだそうです。
(2)「ガダルカナル島の戦い」における日米の戦力・損害比較
<指揮官>
①日本:百武晴吉、塚原二四三、一木清直、川口清健
②アメリカ:アレクサンダー・ヴァンデグリフト、リッチモンド・ターナー、ロバート・L・ゴームレー、ウィリアム・ハルゼー、フランク・J・フレッチャー、
<戦力>
①日本:36,200人(地上部隊のみ)
②アメリカ:60,000人(地上部隊のみ)
<損害>
①日本:死者19,200人(うち戦闘による死者8,500人)、捕虜1,000人、軍艦38隻損失、航空機683機損失、撤退10,652人
②アメリカ:死者7,100人、負傷者7,789人以上、捕虜4人、軍艦29隻損失、航空機615機損失
(3)「ガダルカナル島の戦い」に至った背景
1941年12月8日の真珠湾攻撃から、日本は南方にある石油などの資源を手に入れるために東南アジア方面に軍隊を進めました。
アメリカの植民地であるフィリピン、イギリスの拠点シンガポール、オランダの植民地である蘭印(今のインドネシア)が当初の攻略目標でした。
日本軍はこれらの地域へ予想以上に快進撃を続け、3月には一帯の占領が完了しました。そこで日本軍は新たな第二段作戦計画を練る必要が出てきたのです。
日本軍が考えたのは、連合軍の反攻拠点になる可能性のあるオーストラリアとアメリカの分断を図る「米豪分断作戦」です。
この「米豪分断作戦」には、空母機動部隊の支援が必要でしたが、6月の「ミッドウェー海戦」で空母4隻を失ったため、作戦計画の変更を余儀なくされました。
空母がないため、どこかの島に飛行場を作り、基地航空隊を配備する必要があります。その島に選ばれたのがガダルカナル島でした。東京から6,000kmほど離れたソロモン諸島の島です。ここに1,000人ほどの兵員で飛行場を建設し、8月5日には第一期工事が完了しました。
2.ガダルカナル島の戦いの経過
(1)アメリカ軍の反撃
海では「ミッドウェー海戦」で日本の勢いを止めたアメリカ軍は、今度は陸上戦で成果を挙げようと反撃の機会をうかがっていました。
飛行場が完成した2日後、アメリカ軍はガダルカナル島に対して約8,000人の戦力で攻撃を開始しました。日本軍守備隊は約1,000人と少数のため苦戦し、アメリカ軍の上陸を許し、日本軍が作った飛行場も占領されてしまいました。
アメリカ軍はブルドーザーを使って飛行場を整備し、「ヘンダーソン飛行場」と名付けて使用を開始しました。
日本軍はこれを「アメリカ軍の本格侵攻」だとは思わず予測を誤ったことも、その後の戦いに苦戦する要因となりました。
(2)第一次ソロモン海戦
海でも戦いが行われました。島へ兵員や物資を輸送するためには「制海権」を握らねばなりません。
日本軍はアメリカ軍の輸送艦隊を撃破するために艦隊を出動させました。アメリカ艦隊と遭遇した日本艦隊はこれを攻撃し、敵の重巡洋艦4隻を沈めますが、輸送艦隊への攻撃は中止になりました。
その結果、アメリカ軍は大量の物資の揚陸に成功し、その後の戦いを有利に進められることになりました。
この後、日米双方の島への物資補給のための輸送作戦が展開されますが、普通の輸送船では速度が遅く敵に見つかって攻撃される可能性が高いため、本来は戦闘艦である「高速の駆逐艦」を使って輸送することになりました。
(3)日本軍の反撃と餓死者の発生
日本軍は反撃のために、陸軍の一木清直大佐が率いる「一木支隊」をガダルカナル島に送り込みました。この部隊は本来、ミッドウェー島の攻略を担当する予定でしたが、ミッドウェー海戦の敗北によって、グアム島で待機していたのです。
一木支隊に届いていたアメリカ軍についての情報は、兵員2,000人(実際は11,000人)という実際よりもかなり少ない戦力でした。
これに対する一木支隊は1,000人弱です。一木支隊は果敢に攻撃を仕掛けましたが、圧倒的な敵戦力の前にほぼ壊滅状態に陥りました。
その後、日本軍は川口清健(かわぐちきよたけ)少将(1892年~1961年)(下の写真)率いる川口支隊4,000人を派遣しました。ちなみに川口清健少将は、陸軍士官学校出身の職業軍人です。
敵艦船の攻撃を受けながらも、川口支隊はガダルカナル島に上陸し、アメリカ軍を攻撃しましたが、武器弾薬が不足し、十分な攻撃を加えるには至りませんでした。
以後、日米両軍は兵員や物資の輸送に取り組みましたが、日本軍は兵員はともかく物資の輸送に苦労し、アメリカ軍との戦闘だけではなく、餓死との戦いにも苦しみました。
(4)日米の補給力の差
ガダルカナル島への空からの日本軍への援軍は、日本海軍の航空基地のあるラバウルからやって来ました。
しかし、航続距離の長いゼロ戦でも、ガダルカナル島上空では帰りの燃料切れを気にしながらの戦いとなります。また飛行時間も長いので、相当の集中力を必要としました。
代わりの搭乗員も十分にいないため、出撃はほぼ同じメンバーで行くことになり、攻撃のたびに搭乗員も機体も失われて行きました。
一方アメリカ軍は自分の基地の上に飛来する日本軍と戦うだけなので、待ち構えていればいいので、攻撃のために長距離飛行をする必要もありませんでした。
また、交代兵員もいるので、数週間前線で戦った後は、後方に戻って休息が取れます。
このように時間が経てば経つほど戦局はアメリカ軍優位となって行きました。
(5)「転進」という名の撤退
その後も日本軍は兵員や物資の輸送計画を立てましたが、アメリカ軍の攻撃の前になかなかうまく行きませんでした。
第二次・第三次ソロモン海戦、南太平洋海戦などもありましたが、戦局は一向に好転せず、ガダルカナル島にいる部隊は、マラリアや飢えとも戦っていました。
1942年12月31日、ついに日本軍は「ガダルカナル島からの撤退」を決定し、2月には「撤退が完了」しました。
この「撤退」の際に、負傷したり病気になって動けない兵隊は自決させられました。
大本営は、この「撤退」を「転進」と発表しました。これは「当初の目的を達したので部隊を移動させた」という意味で、国民に「撤退」の事実を知らせないための「虚偽の発表」でした。
「全滅」を「玉砕」という美名に言い換えて国民を欺いたのと同じやり方ですね。
最終的にガダルカナル島に上陸した日本軍約30,000人のうち撤退できた者は約10,000人、死者行方不明者は約20,000人に上りました。このうち、戦闘での死者は約8,500人で残りは餓死とマラリアなどによる戦病死でした。
(6)その後の戦いへの影響
半年間の「ガダルカナル島の戦い」において、日本軍の航空機の損失は「ミッドウェー海戦」の3倍にもなりました。
その結果、この後の搭乗員の数・練度は著しく低下しました。
また、大量の輸送船や駆逐艦を失ったことも、日本軍の作戦遂行上大きな打撃となりました。
「ガダルカナル島の戦い」で、アメリカと消耗戦をしてしまったことが、日本軍にとって取り返しのつかない大失敗となりました。
これ以降、日本軍は各地で防戦一方となり、「敗戦」を繰り返すことになりました。
3.なぜ精鋭部隊は全滅したのか?
日本陸軍の精鋭部隊916人が1万人を超えるアメリカ海兵隊に戦いを挑み全滅しました。
部隊を率いた指揮官の一木清直(いちききよなお)大佐(1892年~1942年)(下の写真)は、無謀な突撃作戦にこだわり、部下の命を奪ったとして非難を浴びてきました。ちなみに一木清直大佐は、陸軍士官学校出身の職業軍人です。
しかし最近アメリカで見つかった膨大な戦闘記録から、謎に包まれた戦いの実像が明らかになりました。
(1)大本営の楽観
陸軍屈指の精鋭部隊だった一木支隊の全滅の始まりは、「作戦を立案した大本営陸海軍の参謀が米軍の兵力を見誤った」ことでした。
海軍航空隊の偵察では米軍艦艇は1隻も見当たらず、「主力部隊は撤退した」と判断しました。この海軍の情報をもとに、陸軍は「米軍の数は2,000人」と見積もりました。ところが、「実際は10,900人で、致命的な判断ミス」でした。
一木支隊が所属する陸軍第17軍司令部は、この見積もりに疑問を持ちました。二見秋三郎(ふたみあきさぶろう)参謀長(1895年~1987年)(下の写真)は、「すでに上陸を果たして空港の占領を続ける米軍は8,000人はいる」と見ていました。
ちなみに二見秋三郎参謀長は、陸軍大学校出身の職業軍人です。
二見参謀長は、敵の数がはっきりしない中で攻撃することに不安を抱き、一木支隊の進軍に待ったをかけようとしました。
ところが、陸軍参謀本部のナンバー2の参謀次長から「速やかに飛行場を奪還することを考えよ」との電報が入ったため、二見参謀長は大本営の命じるまま、一木支隊の進撃を認めるしかありませんでした。
(2)陸海軍の亀裂
無謀な作戦を強行したと非難されてきた一木大佐ですが、実際は作戦を続けるべきかどうか司令部の判断を仰ごうにも、連絡できない状況に置かれていました。
陸軍司令部があるラバウルは、ガダルカナル島から1,000kmと遠く、無線が届きません。そのため、海軍の潜水艦が中継することになっていました。
ところがこの共同作戦中に潜水艦はこの任務を放棄し、持ち場を離れていました。
この日の朝、偵察に当たっていた海軍機がガダルカナル島の沖合でアメリカの空母を発見しました。そこで連合艦隊は周辺にいた全艦に出撃命令を下しました。潜水艦もこの命令に従ったため、一木支隊は無線連絡ができなくなったのです。
連合艦隊参謀長の宇垣纒(うがきまとめ)(1890年~1945年)(下の写真)は、「ミッドウェー海戦」でアメリカ艦隊に大敗した復讐に燃えていました。宇垣の日記には、アメリカの艦隊をおびき出すために、ガダルカナルの陸軍部隊を利用する策(陸軍を種とし、囮となす)が記されています。
陸軍が米軍と戦えば、救援のためにアメリカの空母が駆けつけるので、それを叩こうというわけです。
アメリカの空母部隊を誘い出し、殲滅することを最優先に考えた海軍は、一木たちの陸軍部隊を囮(おとり)にすることも作戦のうちでした。
「日本陸軍と日本海軍は仲が悪かったいう話」は私も聞いたことがありますが、ここまで酷いとは思いませんでした。
ちなみに宇垣纒は、海軍大学校出身の職業軍人です。
(3)米軍の罠
8月20日夜10時30分、一木支隊は闇に紛れて飛行場の米軍基地に忍び寄りました。その時、突然照明弾が光り、待ち構えた米軍から一斉攻撃を受けました。
日本側から見ると、米軍は川向こうの少し高くて見えにくい場所に陣を敷いていました。逆に米軍側からは、川で足止めされた日本軍を上から見下ろせる天然の要塞のような地形でした。
待ち構えていた米軍は、一木支隊に二方向から「十字砲火」を浴びせました。圧倒的な火力で攻撃する米軍の銃撃を避けようと、川べりのくぼ地に身を隠しました。
しかしそれは罠で、米軍はくぼ地めがけて追撃砲を雨あられと撃ち込みました。
敵の罠を察知した一木大佐は、部隊に突撃中止を命じました。しかしその時、米軍の戦車隊が現れ、逃げ道をふさぐように、一木支隊の側面から背後へと回り込みました。
行き場を失った一木支隊は狭い砂州を進みましたが、そこは米軍の攻撃が集中する最も危険な場所でした。
島の飛行場を離陸した米軍機が、僅かに残った一木支隊に容赦なく機銃掃射を浴びせかけ、一木支隊は全滅しました。
以上が「一木支隊全滅の真相」のようです。
コメント
こんにちは!
ガダルカナル島の戦いは、詳しく知りませんでした。
戦争映画などは苦手で、あまり見ていません。しかし、今回、ブログを真剣に読んでました。途中でやめられませんでした。詳しく書かれておりよく分かりました。
2万人の方が亡くなったことを思うと、セツナイですね。
また、のぞきに来ます。
ニューヨークにある日米交流団体に勤める者です。パンデミックの直前に、50代の一人のアメリカ人男性がオフィスにきました。義父がガダルカナル島で日本軍と戦った際、先勝品として持ち帰った2冊のアルバムを持ち主の親族に返したいので、手伝ってほしいと言ってきたのです。そのアルバムを預かったのはいいのですが、どうしていいのかわからないまま仕事が全てリモートとなり、時間が経ってしまいました。アルバムにはいろいろな写真が貼ってあり、説明も詳しく書いてあります。NYにある総領事館に連絡したところ、所定のフォームに、いつどこで品を手に入れたか、どういう状況かなど詳しく書かねばならないと言われたので、アルバムを持ってきた人に連絡したところ、そのか方は亡くなっていました。仕事が忙しく、なかなか先に進まないのですが、早くご親族に返してあげたい気持ちでいっぱいです。