「婆沙羅大名(ばさらだいみょう)」と呼ばれた「佐々木道誉(ささきどうよ)」と言えば、1991年のNHK大河ドラマ「太平記」で陣内孝則さんが演じた姿が強烈な印象として残っています。
しかし、どんな人物だったかについては「謎めいていて、正直なところよくわからない」という人がほとんどではないでしょうか?
そこで今回は佐々木道誉の生涯と人物像について、わかりやすくご紹介したいと思います。
1.佐々木道誉の生涯
(1)生い立ち
佐々木道誉(1296年~1373年)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将、守護大名です。「道誉」は法名で、実名は「高氏(たかうじ)」です。
鎌倉幕府創設の功臣で近江を本拠地とする佐々木氏一族の京極氏に生まれたことから、京極道誉または京極高氏とも呼ばれます。
近江の地頭である佐々木氏の分家の京極宗氏の子として生まれ、1304年に母方の叔父・佐々木貞宗の跡を継いで佐々木氏の家督を継承しました。
(2)御相伴衆として鎌倉幕府に出仕
最初は鎌倉幕府の執権・北条高時(1304年~1333年、執権在職:1316年~1326年)に御相伴衆として仕えました。1326年に高時が病により執権職を辞して出家した際には、彼も出家して道誉と号しました。
1314年には軍事・警察組織である「検非違使(けびいし)」となりました。そして後醍醐天皇の行幸に随行したりしています。
(3)後醍醐天皇の倒幕運動との関わり
1331年に後醍醐天皇(1288年~1339年、在位:第96代天皇1318年~1339年、ただし南朝初代天皇1321年~1339年)が倒幕運動を起こし、京を脱出して笠置山に拠った「元弘(げんこう)の乱」(1331年~1333年)では、幕府が編成した鎮圧軍に従軍し、主に京における事後処理を担当しました。
捕らえられた後醍醐天皇が廃位され、近臣らと共に隠岐島へ配流された際には、彼が道中警護を務めました。
(4)後醍醐天皇に味方し、足利尊氏に従って鎌倉幕府を倒す戦いに参加
後醍醐天皇配流後も河内の楠木正成らは反幕府活動を続けて幕府軍と戦い、後醍醐天皇も隠岐を脱出して伯耆国船上山に立て籠もりました。
幕府は下野国の足利高氏(後の尊氏)(1305年~1358年)らに船上山討伐を命じました。しかし足利高氏は幕府に反旗を翻し、京の六波羅探題を攻略しました。
この時期の彼の動向に関する史料がないため、はっきりしたことはわかりませんが、後醍醐天皇を隠岐へ警護していく道中で再起して倒幕する意向を知り、後醍醐側に味方することにしたようです。
彼と足利高氏との間に「倒幕に向けて連携行動を取る密約」があったとも言われています。
足利高氏や新田義貞らの活躍で鎌倉幕府が滅亡し、入京した後醍醐天皇によって「建武の新政(1333年~1336年)」が開始されると、彼は「雑訴決断所寄人(ざっそけつだんしょよりゅうど)」となりました。
(5)天皇と尊氏が対立すると、尊氏に従い南朝との戦いに参加
足利尊氏が「建武の新政」の政権に参加せず、武士層の支持を集められなかった後醍醐天皇の新政に対して、各地で反乱が起こりました。
1335年に信濃において北条高時の遺児・北条高行らを擁立した「中先代(なかせんだい)の乱」が起こり、高行勢が尊氏の弟・直義が守る鎌倉を占領すると、その討伐に向かった尊氏に彼も従っています。
高行勢を駆逐して鎌倉を奪還した尊氏は、後醍醐天皇の許可なく独自に恩賞の分配を始め、彼も上総や相模の領地を与えられました。
後醍醐天皇は尊氏に上洛を求めましたが、尊氏は新田義貞との対立もあってこれに従いませんでした。そこで天皇は義貞に尊氏と直義追討の綸旨を出しています。
1336年の天皇と尊氏(足利軍)との戦いである「建武の乱」では、彼は足利軍として戦いましたが新田義貞に「手越河原の戦い」で敗れて降伏し、以降新田軍として足利軍と戦っています。
しかし、「箱根・竹ノ下の戦い」の最中に新田軍を裏切って、足利軍に寝返りました。彼のこの裏切りによって、新田軍は全軍崩壊して敗走しました。
彼を加えた足利軍は新田軍を追って京に入りました。しかし奥州から下った北畠顕家らに敗れ、兵庫から九州へと逃れています。この時彼は九州下向に従わず、近江に滞在していたとも言われています。
九州から再び東上した足利軍は、「湊川の戦い」で新田・楠木軍を撃破して京に入り、比叡山に逃れた後醍醐天皇や新田義貞らと戦いました。
彼は「近江の戦い」では、比叡山包囲に当たりました。
(6)足利政権成立の立役者となる
1336年、足利尊氏は光明天皇(1322年~1380年、在位:1336年~1348年)を擁立して「北朝」を成立させ、征夷大将軍に任じられて室町幕府を開きました。後醍醐天皇は吉野に逃れて「南朝」を成立させました。
彼は、建武政権に対して武家政権を樹立することを躊躇する尊氏に、積極的に後醍醐天皇に反旗を翻すよう勧めていたとされています。
彼は、若狭・近江・出雲・上総・飛騨・摂津の守護を歴任し、「政所執事(まんどころしつじ)」を務めて権勢を振るいました。1337年に勝楽寺(滋賀県甲良町)に城を築き、以降亡くなるまで本拠地としています。
(7)尊氏の死後は幕府の実質的な最高権力者となる
1358年に尊氏が亡くなり、二代将軍義詮(1330年~1367年)の時代になると、政所執事として幕府内における守護大名の抗争を調停したり、執事(後の管領)の任免権を握るなど絶大な力を持ち、事実上の幕府の最高権力者として君臨しました。
2.「婆沙羅大名」佐々木道誉の人物像
(1)風見鶏のような裏切りの繰り返し
彼は鎌倉時代末期から南北朝時代の動乱期に、「風見鶏」のように戦いの情勢を見て、どちらが優勢かを見極め、優勢な方に寝返る「裏切り」を繰り返したようです。
「返り忠(かえりちゅう)」という言葉があります。これは「主君に背いて敵に通じること。裏切り」、また「一旦背いた者が再び忠義を尽くすこと」を指す言葉ですが、彼は「返り忠」を繰り返した人物です。
骨肉相食む「保元の乱」(1156年)の時代もそうでしたが、このような動乱の時代に、生き残るためには臨機応変に強い者に味方するしかなかったのでしょう。当時、無能な主君を見限る「返り忠(裏切り)」はさほど道義的に責められることではなかったようです。
(2)華美なものを好む婆沙羅
「婆沙羅」とは、南北朝内乱期に見られた顕著な風潮で、「華美な服装で飾り立てた伊達(だて)な風体(ふうてい)や、派手で勝手気ままで遠慮のない常識外れの振る舞い、またはその様子」を表す言葉です。
サンスクリット語の「vajra(バジラ)」(金剛・伐折羅)から転訛した言葉と言われています。「ダイヤモンドのような輝き」ということでしょうか?
足利尊氏が1336年に発布した17条の武家法「建武式目」には、次のように書かれています。
近日婆佐羅(ばさら)と号して、専ら過差(かさ)を好み、綾羅錦繍(りょうらきんしゅう)・精好(せいごう)銀剣・風流(ふりゅう)服飾、目を驚かさざるなし、頗る物狂(ぶっきょう)と謂(い)ふべきか。
「過差」(奢侈)が「物狂」といわれるほど異常な形で現れることを「婆佐羅」と表現しています。
足利尊氏は、「建武式目」で「質素倹約に努め、贅沢は禁止する」として、「婆沙羅」と言う行いを強く禁じています。これは佐々木道誉を念頭に置いたものと思われます。
(3)既成の権威を無視する婆沙羅
「婆沙羅」は、主に戦乱の中で実力で下からのし上がった者が、豪華絢爛な衣装や傍若無人な振る舞いをすることです。「婆沙羅」は戦国時代の「下剋上」の前兆のようなものだったのでしょう。
今も昔も変わらない話ですが、新興勢力は既得権益層を強く嫌います。この当時の「婆沙羅」の者たちも、天皇や公家、天台座主など旧来の権威に対して強く反発する反骨精神の持ち主でした。
この「婆沙羅」は、武家と公家との調和をめざす足利尊氏にとっては好ましくないものだったわけです。
「太平記」には「佐々木佐渡判官入道道誉ガ一族若党共、例ノバサラニ風流ヲ尽シテ」などとあり、伝統的価値観を食い破って現れてきた時代の風潮が語られています。
彼の山門への敵意・蔑視は激しく、1340年には長男の秀綱とともに天台座主・妙法院門跡亮性法親王の御所を焼き討ちしました。
事件の発端は、彼が通りがかりに妙法院の庭の木の枝を折り取ってしまったことです。飛び出してきた妙法院の僧兵たちが騒ぎましたが、彼は「たかが枝の一本や二本、そう騒ぎ立てることもあるまい。この判官が、こちらの庭で立ち腐れている木を立花で蘇らそうと言うておるのじゃ。どれ、もう一本・・・」と手を伸ばしてさらに一本枝を折りました。
激怒した僧兵たちが斬りかかり、彼の家臣たちと斬り合いになりました。「天台座主が怖くて戦ができるか!」と彼は吠え、松明(たいまつ)を次々と寺の中へと投げ込んだため、妙法院はたちまち炎に包まれてしまったのです。
これに怒った山門宗徒が彼の処罰を求めて朝廷に強訴したため、朝廷は幕府に対して「道誉を出羽に、秀綱を陸奥に配流」するよう命じました。
しかし幕府は足利政権成立の立役者である道誉に遠慮してか、この命令を一旦拒否しています。結局道誉父子は上総へ配流されることになりました。ただし、まもなく復帰しています。
この配流の行列は「婆沙羅大名」佐々木道誉の面目躍如たるものでした。若衆数百人を従え、道中宿所に着くたびに傾城を弄び、さらには比叡山の神獣である猿の皮を腰当てにするという有様だったそうです。
この事件の当時は、「比叡山」と言えば権威の象徴でした。また独自の僧兵を養い、政治的・軍事的な面においても絶大な権力を持っていました。その「比叡山」を相手に乱暴狼藉の限りを尽くしたのですから、人々は「あなあさましや」と言いつつも、拍手喝采したのです。
前に「仏教伝来以降の僧侶の歴史は横暴の歴史?」という記事を書きましたが、「権力は腐敗する」と言う格言通りで、私も僧侶については佐々木道誉と同様に悪い印象しかありません。
(4)文化への寄与
彼はまた連歌・立花(りっか)・茶の湯に通じ、近江猿楽の保護者でもあり、風流を解する武将としての一面もありました。