近松門左衛門とはどんな人物だったのか?わかりやすくご紹介します

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近松門左衛門

前に「松尾芭蕉」や「井原西鶴」の記事を書きましたが、「元禄文化」を代表するもう一人の文化人が「近松門左衛門」です。彼らはほぼ同時代に生きたライバルでもありました。

今回は近松門左衛門の生涯と人物像について、わかりやすくご紹介したいと思います。

1.近松門左衛門とは

近松門左衛門像

近松門左衛門(1653年~1724年)は、江戸時代中期の浄瑠璃・歌舞伎作者です。本名は杉森信盛で、別号は平安堂、巣林子(そうりんし)、不移山人(ふいさんじん)です。

彼は元禄年間(1688年~1704年)に上方(京・大坂)を中心に開花した「元禄文化」の代表的担い手の一人です。五代将軍徳川綱吉(1646年~1709年、将軍在職:1680年~1709年)の時代で、浅野内匠頭の「松之廊下刃傷事件」(1701年)や赤穂義士の討ち入り(1703年)のあった時代です。

(1)生い立ち

越前国吉江藩の武士杉森信義の次男として生まれました。母は医者の家系で松平忠昌の侍医であった岡本為竹法眼の娘喜里です。

(2)父が浪人となり一家で京に移住した青少年期

1664年頃に父が浪人したため一家で京に移住し、公家の一条家、阿野家、正親町(おおぎまち)家などに仕えました。その間に有職故実(ゆうそくこじつ)を学び、古典の教養を身に付けました。ここで修めた知識や教養が、後に浄瑠璃を書くにあたって生かされたようです。

やがて公家に仕える暮しから離れ、当時京で評判の浄瑠璃太夫(浄瑠璃語り)の宇治加賀掾(うじかがのじょう)(1635年~1711年)の下で修業し、浄瑠璃を書くようになっています。

きっかけは、正親町公通に仕えていた時、公通の使いで加賀掾のもとに行ったのが縁で浄瑠璃を書くようになったようです。

1683年に初めて宇治加賀掾のために「世継曾我」(曾我兄弟の仇討ちの後日談を描いたもの)を書きましたが、それ以前は宇治座で無名の下積み時代を過ごしたようです。

(3)京・大坂で歌舞伎作者・浄瑠璃作者として活躍

歌舞伎役者の初世坂田藤十郎(1647年~1709年)のために脚本を書き、その名演技と相まって上方歌舞伎の全盛を招きました。1693年から坂田藤十郎に「傾城仏の原」などの作品を提供しました。

また、浄瑠璃の太夫の初世竹本義太夫(1651年~1714年)のために時代物・世話物の浄瑠璃を書き、義太夫節の確立に協力しました。

1685年に竹本義太夫のために「出世景清」を書いたことから協力関係が始まりました。これは「平家の残党悪七兵衛景清が源頼朝の命を狙って失敗し、入牢するが観音の力で救出され、盲目となって日向に下る物語」です。

1703年には「曾根崎心中」を上演しました。1705年に「竹本座」の座付作者となり、1709年の坂田藤十郎没後は浄瑠璃に専念しています。

1715年に上演した「国性爺合戦」は、初日から17カ月の続演となる大当たりとなりました。

(4)近松門左衛門の名前の由来

1686年の竹本座上演の「佐々木大鑑」で初めて「近松門左衛門」の名前を出しています。

若い頃、近江国大津の近松寺(ごんしょうじ)(肥前国唐津の近松寺とする説もあり)に遊学したことがあり、そのため「近松」と名乗ることになったようです。

(5)近松門左衛門の芸術論「虚実皮膜諭(きょじつひにくのろん)」

①「虚実」とは

一般的な考え方は、「虚」は「実体のないもの、うそ、偽り」で、「実」は「実体のあるもの、まこと」というものです。

しかし古代中国の荘子は、「虚は超越的な存在根拠で、実はその具体的な現れである」と考えました。

②「虚実皮膜諭」とは

「創作においては、事実を完全に描写するのではなく、多少事実と外れてデフォルメ(誇張・歪曲)するところがミソ」という意味です。

江戸時代中期の儒学者で近松門左衛門と親交のあった穂積以貫(1692年~1769年)が、彼の言葉を筆録した「難波土産」には次のように書かれています。

芸といふものは実と虚(うそ)との皮膜(ひにく)の間にあるもの也。・・・虚にして虚にあらず、実にして実にあらず、この間に慰が有たもの也。

魂のない人形に魂を吹き込むには、文句に情を込めることが大切で、個々の人物にふさわしい言葉を用い、人物の実情・底意を表すためのデフォルメを行い、また浄瑠璃の眼目である愁いの表現には、説明的な描写を排して芸の展開に内的な必然性を持たせるべきだと説いています。

(6)辞世

辞世は二つあります。後世にも自分の作品の花が匂い続けることを希望した辞世です。

①それぞ辞世 去程(さるほど)に扨(さて)も そののちに 残る桜が 花し匂はば

②残れとは 思ふも愚か 埋(うず)み火の 消ぬ間あだなる 朽木書きして

武士の家柄であった彼が、蔑視されていた芸能の世界に身を投じたのは、当時としては思い切った転身でしたが、結果的には大成功でした。

彼は亡くなるまでの四十数年間に、歌舞伎脚本約40編、時代浄瑠璃約90編、世話浄瑠璃24編を書き、「日本最大の劇詩人」と讃えられる輝かしい業績を残しました。

2.近松門左衛門の代表作

(1)曾根崎心中(そねざきしんじゅう)

醤油屋の手代・徳兵衛と遊女・お初の心中を描いたもので、「世話浄瑠璃」の第一作とされ、現在でも文楽の人気演目です。

曾根崎心中人形浄瑠璃曾根崎心中

(2)国性爺合戦(こくせんやかっせん)

中国人を父に、日本人を母に持ち、台湾を拠点に明朝の「清朝からの復興運動」を行った鄭成功(国性爺、史実は国姓爺)を題材に取り、これを脚色したものです。

3.「人形浄瑠璃」と「文楽」の違い

(1)人形浄瑠璃

「人形浄瑠璃」とは、「三味線で演奏する浄瑠璃と人形によって演じられる江戸時代に創始された古浄瑠璃を原形とする日本の伝統芸能・人形劇」のことです。

「太夫(語り手)・三味線・人形遣い」の「三業(さんごう)」によって成り立っています。

(2)文楽

一方「文楽」は、「大坂で成立した人形浄瑠璃の系譜(種類)の一つで、人形遣いの一人(主遣い)が顔出しで人形を操るもの」「人形浄瑠璃文楽」を略したものです。

「文楽」の起源は、17世紀後半に竹本義太夫が大坂(現在の大阪)で創始した「義太夫節(ぎだゆうぶし)」であり、近松門左衛門が多くの人情ものの作品を書いたことで知られています。

余談ですが、「文楽」は2008年にユネスコの「世界無形文化遺産」に認定され、海外からも脚光を浴びつつあります。

例によって海外で評価されると、また日本で「文楽再発見」「文楽再評価」という動きが出てくるのでしょうか?

私は個人的には現代の日本において、文楽の人気が復活するのはなかなか難しいのではないかと感じています。それは文楽が地味な伝統芸能で古臭い感じが拭えず、今の大衆に受ける要素が少ないからです。

文楽

歌舞伎界では、市川海老蔵・中村獅童や、大人気となったテレビドラマ「半沢直樹」で片岡愛之助・市川中車(香川照之)・市川猿之助・尾上松也などの新しいスター役者が、歌舞伎の「睨み」や「見得を切る」ような大仰な「顔芸」で人気を博しています。

片岡愛之助香川照之市川猿之助尾上松也

文楽にも、そのような新しい試みが行われることを期待したいものです。

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