みなさんは大山捨松のことをご存知でしょうか?講談や浪曲で有名な「遠州森の石松」のようで男性の名前のようですが、れっきとした女性です。
しかも、2013年のNHK大河ドラマ「八重の桜」の主人公になった新島八重(1845年~1932年)や、新しい五千円札の肖像画に採用された津田梅子(1864年~1929年)とともに、明治時代の「女子教育のパイオニア」の一人です。
1.大山捨松とは
大山捨松(おおやますてまつ)(1860年~1919年)は、薩摩藩出身の陸軍軍人で元帥・公爵の大山巌(1842年~1916年)の妻で、明治を代表する女性知識人であり、陸奥宗光夫人の亮子や伯爵戸田氏共夫人の極子とともに「鹿鳴館の華」と呼ばれました。
また女子教育にも力を入れ、津田塾大学創始者の津田梅子とともに、明治の女子教育に多大な功績を残しました。
彼女は1884年に「鹿鳴館」(上の写真)で開かれた日本初のチャリティーバザーである「鹿鳴館慈善会」を取り仕切り、収益を全額「共立病院」に寄付しました。この資金を基にして1886年に、日本初の看護学校「有志共立病院看護婦教育所」が設立されました。
また彼女は「赤十字看護会」理事として、看護師教育を支援しました。
2.大山捨松の生涯
(1)生い立ち
彼女は会津藩国家老の山川尚江重固(やまかわなおえしげかた)の末娘として、1860年(安政7年)に会津若松で生まれました。幼名を「さき」と言い、後に「咲子(さきこ)」と改めました。
彼女が生まれた時、父は既に亡くなっており、幼少の頃は祖父の山川兵衛重英(やまかわひょうえしげひで)(1783年~1869年)が父親がわりとなりました。祖父も会津藩家老でした。
祖父の没後は長兄の山川浩(1845年~1898年)が父親代わりとなりました。彼は後に陸軍少将になった軍人で、貴族院議員も務めました。
(2)会津戦争で運命が暗転
家老のお嬢様として何不自由なく過ごしていた彼女の運命を変えたのは1868年に起きた「戊辰戦争」の一局面である「会津戦争」でした。
これは薩摩藩・土佐藩を中心とする明治新政府軍と、会津藩およびこれを支援する奥羽越列藩同盟などの徳川旧幕府軍との内戦です。
新政府軍が会津若松城に迫ると、8歳の彼女は家族と共に籠城し、負傷兵の手当てや炊き出しなどを手伝いました。この時の新政府軍の砲兵隊長が薩摩藩出身の大山弥助(後の大山巌)でした。
圧倒的な官軍の戦力の前に、会津藩は抗戦むなしく降伏し、会津23万石は改易となり、1年後に陸奥斗南3万石に封じられました。
しかし斗南藩は下北半島最北端の不毛の地で、藩士たちの生活は過酷を極めました、そこで山川家では、末娘の彼女を函館のキリスト教司祭・沢辺琢磨のもとに里子に出し、その紹介でフランス人の家庭に引き取られることになりました。
(3)アメリカへの官費留学
1871年にアメリカ視察旅行から帰国した北海道開拓使次官の黒田清隆は、「数人の男女の若者をアメリカに留学生として送り、未開地を開拓する方法や技術など北海道開拓に有用な知識を学ばせること」を計画しました。
この計画はやがて「政府主導による10年間の官費留学計画」となり、「岩倉使節団」に随行して渡米することになりました。この時留学生に選抜された若者の一人が彼女の次兄・山川健次郎(1854年~1931年)でした。彼は物理学者で、後に東大総長なども務めた教育者です。
この官費留学は女性の応募が認められていましたが、希望者はゼロでした。10年間という長期留学のため、親の反対もあったことでしょう。
しかし、彼女はフランス人の家庭で暮らした経験もあって西洋文化に親しんでおり、山川家でも「いざとなれば兄の健次郎に何とかしてもらえる」ということで、再募集の時に応募に踏み切りました。女性の応募者は5人だけで、全員合格となりました。5人とも旧幕府軍や賊軍の娘でした。
下の写真がその5人で、右端が満11歳の捨松で、その左隣が満6歳の津田梅子です。
この先10年という長い歳月を見ず知らずの異国で過ごすことになる娘を、母のえんが、「娘のことは一度捨てたと思って帰国を待つ(松)のみ」という思いから「捨松」と改名させました。
奇しくも彼女が横浜港からアメリカに向けて出発した翌日、大山弥助改め大山巌も横浜港からジュネーヴ留学に向けて出発しています。
(4)滞米生活
彼女はコネティカット州ニューヘイブンの牧師ベーコン宅に寄宿し、4年近くをベーコン家の娘同様に過ごして英語を習得しました。この家の末娘アリスとは終生の友人となります。
その後、地元の高校を経てアメリカを代表する女性知識人を輩出したヴァッサー大学に進みました。下が大学在学中の彼女の写真です。
大学2年の時には学年会会長に選出されたり、傑出した頭脳を持った学生のみが入会を許される「シェイクスピア研究会」や「フィラレシーズ会」にも入会しています。
彼女の成績は極めて優秀で卒業生総代の一人にも選ばれており、官費留学生としての強い自覚を持っていたようです。彼女はアメリカの大学を卒業した初の日本人女性です。
留学生には帰国命令が出ていましたが、彼女は滞在延長を申請し、大学卒業後はコネティカット看護婦養成学校に1年近く通い、上級看護婦の資格を取得しています。
彼女はこの前年に設立された「アメリカ赤十字社」に強い関心を寄せていたのです。
(5)アメリカからの帰国
1882年の暮れに彼女はアメリカから帰国しました。
しかし、当時の日本では彼女が学んだことや看護婦の資格を生かせる場がまだ存在しませんでした。まだ20歳を過ぎたばかりなのに、縁談も来ません。
(6)大山巌との恋愛結婚
ちょうどその頃、薩摩藩出身の大山巌は、最初の妻・沢子を亡くして困っているところでした。
家庭のことを任せられる女性が必要ということもありますが、当時明治政府は「欧化政策」で西洋風の社交界を作ろうとしているところだったため、パーティーに連れて行ける夫人が不可欠だったのです。
これについては沢子の父・吉井友実も大変心配して方々で候補者を探していました。巌は当時、軍での責任も重くなり始めていて、ドイツ語やフランス語で交渉に当たることもあったため、同等の語学ができる女性が必要でした。
そこで白羽の矢が立ったのが捨松でした。
山川家では一瞬喜んだものの、相手がかつての敵と知ると態度が一変します。「敵のところへ嫁に行くなどとんでもない」と大反対でした。特に長兄の山川浩は、会津若松城への砲撃で妻を亡くしていましたので、許せないのも無理はありません。
しかしそれでも大山巌は諦めませんでした。彼はそれ以前に、別の結婚披露宴で彼女がダンスを披露するのを見て、大変惚れ込んでいました。
彼は後妻には彼女しかいないと思い、親友の西郷従道(西郷隆盛の弟)に間に入ってもらい、粘り強く交渉します。
そして、山川家では「そこまで言うなら、あとは本人次第で」ということになりました。彼女は「お人柄を知らないのに、結婚するともしないとも言えません」と答えて、直接会って話すことを希望しました。
見合いの席では、最初彼の薩摩弁がきつすぎて会話が進まなかったそうですが、お互い留学経験があることから英語で話し始めるとたちまち意気投合したそうです。
ルイ・ヴィトンの最初の日本人顧客で、自他ともに「西洋かぶれ」と認めていた彼と「アメリカ娘」の彼女はすぐに惹かれあい、お似合いのカップルとなったようです。
(7)鹿鳴館での活躍
1883年に二人は出来たばかりの「鹿鳴館」で結婚披露宴をし、千人以上もの招待客が詰めかけたそうです。
すでにドレスや西洋式のマナー、そしてダンスに慣れていた彼女は、その後も鹿鳴館で行われたパーティーで欧米の外交官たちと鮮やかに渡り合ったそうです。
日・独・英・仏の四ヵ国語全てを冗談が言えるレベルで話せる女性は、当時の日本には彼女以外にいなかったのでしょう。
いつしか人々は彼女を「鹿鳴館の華」と讃えるようになり、「アメリカ娘」と蔑む者はいなくなりました。
余談ですが、当時の欧米人には「黄禍論」のような日本人などのアジア人を蔑視する人種差別意識が強くありました。(現代の欧米人にも深層心理には、日本人に対する蔑視や人種差別意識があると思いますが)
フランス海軍士官として1885年に来日し鹿鳴館のパーティーにも参加したことのあるピエール・ロティ(1850年~1923年)は、この時の見聞録「江戸の舞踏会」の中で、彼はダンスを踊る日本人を「しとやかに伏せた睫毛の下で左右に動かしている、巴旦杏(はたんきょう)(*)のように吊り上がった眼をした、大層丸くて平べったい、ちっぽけな顔」「個性的な独創がなく、ただ自動人形のように踊るだけ」と酷評しています。
(*)「巴旦杏」とはアーモンドのこと
また彼は「ロチのニッポン日記 お菊さんとの奇妙な生活」に収録された「日本の婦人たち」では、鹿鳴館の印象を次のように書いています。
千年の形式をもつ驚嘆すべき衣裳や大きな夢のような扇子は,箪笥や博物館の中に所蔵され,今はすべてが終わってしまった。・・・・・
命令は上からやって来た。天皇の布告は,宮廷の婦人たちに,ヨーロッパの姉妹たちと同じ服装をすることを命じた。人々は熱に浮かされたように生地を,型を,仕立屋を,できあいの帽子をとり寄せた。こうした変装の最初の衣裳合わせは密室の中で,おそらく慙愧と涙と共に行われたにちがいない。だが,誰知ろう,それ以上に笑いと共に行われたかもしれぬことを。それから人々は外国人を見学にくるよう招き,園遊会,舞踏会,コンサートなどを催した。大使館関係で以前ヨーロッパを旅行する機会に恵まれた日本婦人たちが,早のみこみの驚くべきこの喜劇の模範を示した。
東京のど真ん中で催された最初のヨーロッパ式舞踏会は,まったくの猿真似であった。そこでは白いモスリンの服を着て,肘の上までの手袋をつけた若い娘たちが,象牙のように白い手帳を指先につまんで椅子の上で作り笑いをし,ついで,未知のわれわれのリズムは,彼女たちの耳にはひどく難しかろうが,オペレッタの曲に合わせて,ほぼ正確な拍子でポルカやワルツを踊るのが見られた。・・・・・
この卑しい物真似は通りがかりの外国人には確かに面白いが,根本的には,この国民には趣味がないこと,国民的誇りが全く欠けていることまで示しているのである。ヨーロッパのいかなる民族も,たとえ天皇の絶対的命令に従うためとはいえ,こんなふうにきょうから明日へと,伝統や習慣や衣服を投げ捨てることには肯んじないだろう。
「ノルマントン号事件」の風刺画でも有名なフランス人画家ビゴー(1860年~1927年)が鹿鳴館を描いた風刺画「鹿鳴館の月曜日 ダンスの練習」(下の画像)も、ロティと同様の日本人蔑視の視点が見られます。彼は1882年から1898年まで日本に滞在し、日本を描き続けました。
(8)女子教育に尽力
その後彼女は、それまでの不遇を乗り越えて、日本初の看護婦学校の設立や、かつての留学仲間である津田梅子が大学を設立する際の支援をするなど、積極的に活動しました。
(9)晩年と死
晩年の彼女(下の写真)は、巌の国葬後は公の場にほとんど姿を見せず、亡夫の冥福を祈りつつ静かな余生を送ったようです。
彼女はその当時世界中で猛威を振るっていた「スペイン風邪」に罹り、その予後が優れず、58歳で亡くなりました。
2.大山捨松にまつわるエピソード
(1)不如帰(ほととぎす)
彼女は大山巌の3人の連れ子に加えて、2男1女に恵まれましたが、徳富蘆花(とくとみろか)(1868年~1927年)が1898年11月から1899年5月にかけて国民新聞に連載した小説「不如帰」に登場する意地の悪い継母のモデルとされ、それが彼女の実像と誤解されて世間から非難・中傷を受ける風評被害がありました。「プロパガンダ」のようなものです。
この小説は当時ベストセラーとなり大評判となっただけに、彼女の苦悩は大変大きいものだったようです。モデル小説は今も昔もモデルとされた人にいろいろと迷惑がかかるものです。本人が存命中であればなおさらです。
徳富蘆花は、発表から19年も経った彼女の死の直前になって謝罪したようですが、遅きに失したと言えます。
(2)洋風夫妻
大山夫妻は「おしどり夫婦」として有名でした。
ある時新聞記者から、「閣下はやはり奥様のことを一番お好きでいらっしゃるのでしょうね」と下世話な質問を受けた彼女は、「違いますよ。一番お好きなのは児玉さん(児玉源太郎)、二番目が私で、三番目がビーフステーキ。ステーキには勝てますけど、児玉さんには勝てませんの」と言いつつ、まんざらでもないところを見せていたそうです。
先妻の娘3人からは「ママちゃん」と呼ばれるなどハイカラな家庭だったようです。
下の写真は、晩年の大山夫妻の写真です。
鹿鳴館の貴婦人大山捨松 日本初の女子留学生 (中公文庫) [ 久野明子 ]