前に明治時代の「女子教育のパイオニア」の一人である「大山捨松」の記事を書きましたが、もう一人大変有名な女性がいます。
それは、2024年の新五千円札の肖像画に採用された津田梅子です。NHK朝ドラの「ハイカラさん」や大河ドラマ「八重の桜」「花燃ゆ」で脇役として登場しました。
しかし津田梅子が主人公のドラマはまだありません。NHK朝ドラ「あさが来た」の主人公で日本女子大学を創設したのは広岡浅子(1849年~1919年)で、同じく朝ドラ「梅ちゃん先生」の下村梅子は名前が似ているので勘違いする方もいるかもしれませんが、全くのフィクションでモデルはいません。
そこで今回は大山捨松と共に満6歳でアメリカに留学した津田梅子の生涯をご紹介したいと思います。
1.津田梅子とは
津田梅子(1864年~1929年)は、日本における女子教育の先駆者で、女子英學塾(のちの津田塾大学)の創設者です。
名前は初め「うめ」(「むめ」と表記)でしたが、1902年に漢字表記に改めて「梅子」としました。
(1)生い立ち
彼女は旧幕臣の津田仙と初子夫妻の次女として、江戸の牛込南御徒町(現在の東京都新宿区)に生まれました。
父は幕臣であったため、江戸幕府崩壊で職を失い、1869年(明治2年)に築地のホテル館に勤めることになり、一家で向島に移りました。
幼少時の彼女は手習いや踊りなどを学び、父の農園の手伝いなどもしています。
(2)満6歳でアメリカ留学
1871年に父が明治政府の事業である「北海道開拓使」の嘱託となり、津田家は麻布に移りました。開拓次官の黒田清隆は女子教育にも関心を持っていた人物で、父は黒田が企画した「女子留学生」に彼女を応募させ、同年11月に「岩倉使節団」に随行して横浜港から渡米しました。
5人の女子留学生がいましたが、彼女は最年少の満6歳でした。
アメリカではジョージタウンで、日本弁務館書記で画家のチャールズ・ランマン夫妻の家に預けられました。その後十数年間を同家で過ごすことになります。
5人のうち、年長の二人は外国生活に順応できずホームシックになって1年後に帰国しました。残った彼女と山川捨松(のちの大山捨松)・永井繁子(のちの瓜生繁子)3人は生涯の親友となり、のちに彼女が「女子英學塾」を創設する際には助力しています。
彼女は英語・ピアノなどを学び始め、市内のコレジエト・インスティテュートに通いました。日本への手紙も英文で書いています。1873年にはフィラデルフィアの独立教会で洗礼を受けています。
1878年にはコレジエト校を卒業し、私立の女学校であるアーチャー・インスティテュートに進学し、ラテン語・フランス語などの語学や英文学のほか、自然科学や心理学、芸術などを学んでいます。
1881年には開拓使から帰国命令が出ましたが、在学中であった彼女と山川捨松は延長を申請し、1882年7月に卒業して、同年11月に帰国しています。
(3)帰国後の活動
彼女が帰国した当時の日本では、儒教の価値観が色濃く残り、女子留学生の活躍できる場は乏しく、山川捨松と永井繁子はともに軍人に嫁ぎました。
彼女は幼少からの長い留学生活で、日本語能力はむしろ通訳が必要なほど低く、日本的風習にも馴染めませんでした。
1883年に、外務卿・井上馨の邸で開かれた夜会に招待され、伊藤博文から「華族子女を対象にした教育を行う私塾・桃夭女塾を開設していた下田歌子を紹介されました。
このころ、父との確執もあったことから、伊藤への英語指導や通訳のため雇われて伊藤家に滞在し、歌子からは日本語を学び、「桃夭女塾」へ英語教師として通いました。
1885年には伊藤の推薦により、学習院女学部から独立して設立された華族女学校で英語を教えることになりました。
華族女学校で3年余り教えましたが、上流階級的気風には馴染めなかったと言われています。何度か勧められた縁談も断っています。やがて彼女は「二度と結婚の話はしないでください。話を聞くだけでもうんざりです」と手紙にしたためたほど日本の結婚観に辟易し、生涯独身を誓いました。
(4)二度目の留学
1888年に、留学時代の友人アリス・ベーコンが来日し、彼女に勧められて、再度の留学を決意しました。
当時、進化論において「ネオ・ラマルキズム」が反響を呼んでいたため、彼女はフィラデルフィア郊外の名門女子大学・ブリンマー大学で生物学を専攻しました。またオズウィゴー師範学校で教育学も学びました。
彼女に再度の留学を勧めたアリス・ベーコンは日本習俗に関心を持ち、日本女性に関する研究をしていました。アリスが研究を出版(「日本の女性」)する際には手助けをしています。これが、彼女が日本の女性教育に関心を持つきっかけになったとも言われています。
下の写真は来日したアリス・ベーコンと留学生仲間3人です。左から順に津田梅子、アリス・ベーコン、瓜生繁子、大山捨松です。
(5)教育者として女子高等教育に尽力
大学からは、アメリカに留まり学究生活を続けるよう勧められましたが、1892年に帰国し、再び華族女学校に勤めています。1894年には明治女学院の講師となり、1898年には女子高等師範学校教授を兼任しています。
①女子英學塾(現在の津田塾大学)の創設
成瀬仁蔵の女子大学創設運動や、1899年に高等女学校令・私立学校令が公布され女子教育への機運が高まると、1900年に官職を辞し、「女子英學塾」設立願いを出して認可され、1909年に開校し、塾長となっています。彼女は華族平民の別のない女子教育を志向しました。
しかし、無理が祟ったのか彼女は塾の創業期に健康を損ね、塾経営の基礎が整った1919年に塾長を辞任しました。鎌倉での長期間の闘病の末に、1929年に脳出血のため亡くなりました。
②日本婦人米国奨学金制度の創設
二度目のアメリカ留学中に日本の実情を訴える講演などを行って、寄付金8000ドルを集め、1891年に「日本婦人米国奨学金制度」を創設し、帰国後に制度を利用して合計25人の日本女性をアメリカに留学させました。
③YWCA(日本基督教女子青年会)の会長就任
1905年に彼女を会長としてYWCAが創立されました。
2.津田梅子のエピソード
(1)ヘレン・ケラーとの面会
ヘレン・ケラー(1880年~1968年)は三重苦の重複障害者でありながら、ラドクリフ・カレッジ(現在のハーバード大学)を卒業し、世界各地を歴訪して障害者の教育・福祉の発展に貢献した女性です。映画「奇跡の人(The Miracle Worker)」で日本でもよく知られています。
彼女は1898年にアメリカのコロラド州で開かれた「万国婦人連合大会デンバー会議」に日本女性代表として出席し、当時17歳の女学生であったヘレン・ケラーとの面会を果たしています。
彼女はその会場で和服姿で颯爽と登壇し、3000人の聴衆の前で、日本の女性問題について英語で堂々とスピーチしました。
この講演は大喝采を受け、彼女は一躍「時の人」となり、ヘレン・ケラーと面会することになったわけですが、ヘレン・ケラーは聾唖の才女として、すでに全米でも注目される存在となっていました。
(2)ナイチンゲールとの面会
彼女はその後、さらにイギリスに招かれ、かねてより切望していたナイチンゲール(1820年~1910年)との面会を果たしています。
ナイチンゲールは看護婦で、クリミア戦争での負傷兵への献身的看護から「クリミアの天使」として有名ですが、この時80歳で、病床での面会だったそうです。
3.津田梅子の言葉
・東洋の女性は、地位の高い者はおもちゃ、地位の低い者は召使いにすぎない。
・環境より学ぶ意志があればいい。
・何かを始めることはやさしいが、それを継続することは難しい。成功させることはなお難しい。
・先生をするのであれ、主婦になるのであれ、どのような方面の仕事をするのであれ、高尚な生活を送るように努力してください。古い時代の狭量さ、偏屈さを皆さんから追い払い、新しいことを求めつつ、過去の日本女性が伝統として伝えてきたすぐれたものはすべて保つ努力をしてください。
・高い志と熱意を持ち、少数だけでなく、より多くの人々との共感を持てれば、どんなに弱い者でも事を成し遂げることができるでしょう。
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