子供と鞠遊びに興じた無欲恬淡の70歳の僧侶良寛と30歳の貞心尼との恋とは?

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良寛と貞心尼

良寛と言えば、「村の子供たちと日暮れまで鞠つきをしたりかくれんぼをして遊んでいた優しいお坊さん」というイメージがあります。

「この里に 手まりつきつつ 子供らと 遊ぶ春日は 暮れずともよし」という和歌も残しています。

多くの人が良寛の無欲恬淡で高潔な人柄を語り、有名な作家は、自らの人生の理想として多くの名著を残しています。

ところで、良寛の最晩年の3年3ヵ月ほどは、なぜか明るく華やぎに満ちたものだったのをご存知でしょうか?

今回は良寛の生涯と良寛と貞心尼との恋について、分かりやすくご紹介したいと思います。

1.良寛とは

良寛と子供

良寛(りょうかん)(1758年~1831年)は江戸時代後期の曹洞宗の僧侶、歌人、漢詩人、書家です。

良寛は、越後出雲崎町(現新潟県出雲崎町)の名主兼神職の橘屋山本左門泰雄の長子として生まれました。母は佐渡相川の山本庄兵衛の娘です。

幼名栄蔵、のち文孝(ふみたか)、字(あざな)は曲(まがり)、剃髪して良寛、大愚(たいぐ)と号しました。

1770年ごろに大森子陽の塾に入門し儒学を学びました。その後18歳で名主見習役に就きましたが、実務家に適さない性格から役をなげうち、同年、隣町尼瀬(あまぜ)町曹洞宗光照寺の玄乗破了和尚(げんじょうはりょうわじょう)の徒弟となり出家して良寛と称しました。

1775年7月、備中国玉島(岡山県倉敷市)円通寺の国仙和尚が光照寺滞在中に感銘し、随行して玉島に赴き十数年間師事しました。

国仙和尚の死後、中国、四国、九州を行脚し、京都から高野山に上り40歳を過ぎてから越後に帰りました。

越後へ帰国後は郷本(ごうもと)(現長岡市寺泊郷本)、中山、寺泊を転々とし、それからさらに国上(くがみ)山山腹の草庵「五合庵(ごごうあん」に一人で住み、ここで15、6年を過ごしました。

69歳の時、国上山麓の乙子(おとご)神社境内に庵を作って移りましたが、老衰のため、三島(さんとう)郡島崎村(現長岡市島崎)の豪商能登(のと)屋木村元右衛門邸内の庵に移りました。

その頃、若い美貌の貞心尼(ていしんに)の来訪を受け、没するまで密接な交遊がありましたが、5年目の1831年(天保2年)正月6日ここで没しました。墓は長岡市真宗大谷派隆泉(りゅうせん)寺境内木村家墓地内にあります。

良寛は僧侶ではあっても、「生涯寺をもたず無一物の托鉢生活」を営んだため位階はありません。

人に法を説くこともせず、多くの階層の人と親しく交わりました。子供を好み、手毬(てまり)とおはじきをつねに持っていてともに遊びました。正直で無邪気な人であって、人と自然を愛して自然のなかに没入していました。無一物でありながら、震えている乞食に着物を脱いで与えたこともあるそうです。

彼は、歌と詩と書に優れていて、多くの作品を残しました。どれも一流ですが、どれにも師がなかったようです。

歌人としての良寛がもっとも広く知られていますが、和歌の師は『万葉集』で、人に借りてこれを愛読し、進んでその影響を受けました。

越後へ帰国前のわずか十数首ですが、残っている歌には『万葉集』の影響はみられません。帰国後の歌には『万葉集』の語句を多く使っていますが、それは模倣したのではなく、『万葉集』を愛読のあまり、つい口をついてその語句が出るようになり、『万葉集』即良寛という境地になったようです。

彼の歌は正直で純真で、人間と自然に対して純真な愛を感じ、その心のままを正直に平易に詠み、個性が赤裸々に出て人を感動させます。

漢詩の才にも恵まれ、自筆の『草堂詩集』(未刊)、『良寛道人遺稿』があります。良寛の書は古典を正確に学び、人格がにじみ出ていて高く評価され多くの愛好者がいます。

中央歌壇との交渉がなく,生前は一般には知られませんでしたが,明治末期~大正に評価が高まりました。

これは新潟県糸魚川市出身の詩人・評論家の相馬御風(そうまぎょふう)(1883年~1950年)が1918年に発表した「大愚良寛」の影響も大きいようです。「大愚良寛」は御風の長年にわたる良寛研究の成果で、良寛の生涯とその芸術、思想に及び、広く世に知られた点でも画期的な、不朽の名著と言われています。

歌集の自筆稿本はなく、没後に弟子の貞心尼編『蓮(はちす)の露』、村山半牧編『良寛歌集』、林甕雄(かめお)編『良寛和尚遺稿』などがあるにすぎません。まとまった歌集としては、『良寛歌集』がようやく1879年(明治12)に出版されました。

多くの人から親しまれ愛された良寛の遺跡として、生家跡に良寛堂、国上山五合庵跡に小庵、乙子神社の庵跡には良寛の詩と歌を刻んだ碑が建てられ、島崎の木村家邸内には遷化(せんげ)跡の標示と良寛遺宝堂、出雲崎町に良寛記念館があります。

良寛は「道元」の『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』を精読しており、道元が古代仏教の経典から引いて説いた菩薩行を実行していました。それは「四摂事(ししょうじ)」という菩薩が人々を悟りに導くための、次の四つの方法のことです。

  • 布施(ふせ):貪らず分かち合うこと
  • 愛語(あいご):優しくいたわる言葉をかけること
  • 利行(りぎょう):相手のためになる行いをすること
  • 同事(どうじ):人々に協力すること

良寛は特に「愛語」を大切にしていたとされ、人々に交わって愛語の実践を行い、「書」にも書いて残しています。また、良寛の生きた江戸時代は辻説法などが禁じられて布教ができなかったこともあり、子供たちに語りかけることが良寛のできる衆生の救済でもありました。

3_良寛_正法眼蔵との出会い

良寛は道元の徹底した反世俗的な生き方に従い、只管打坐や托鉢を行って修行し、さらには道元も行わなかった、寺を持たず山中に独居する無一物の生涯を送ることを貫きました。

その野僧の人生を選んだきっかけについては明らかにされていませんが、父との確執があったともされています。

2.良寛と貞心尼との恋と「相聞歌(そうもんか)」

貞心尼と良寛

老いらくの恋」と言えば、この言葉のもとになる歌を詠んだ川田順を思い出しますが、72歳のゲーテが17歳のウルリーケ・フォン・レヴェツォーという美少女と恋に落ちたことも有名です。

最近は高齢の男性芸能人の若い女性との「年の差婚」も時々話題になりますし、「紀州のドンファンという好き者の男性もいました。

1827年のこと、良寛の歌と書を知り、人柄に感銘を受けた貞心尼は、良寛に弟子なりたいと願い出ます。良寛70才、貞心尼30才の時です。

貞心尼が会ってくれるよう願い出ても、歌詠みの尼僧である貞心尼に会おうとしなかったので、ついに貞心尼は草庵に良寛を訪ねました。

良寛は不在でしたが、貞心尼は持参した手鞠と歌を庵に残して帰ります。

・これぞこの の道に 遊びつつ つくや尽きせぬ 御法(みのり)なるらむ(貞心尼)

このことがあってから良寛は、貞心尼に興味をもち歌を返します。

・つきて見よ ひふみよいむなや ここのとを とをとおさめて またはじまるを(良寛)

貞心尼は、初めて良寛に会った時の喜びを素直に歌にしています。

・きみにかく あひ見ることの うれしさも まださめやらぬ 夢かとぞおもふ(貞心尼)

・夢の世に かつまどろみて 夢をまた 語るも夢も それがまにまに(良寛)

・秋萩の 花咲く頃は 来て見ませ 命全(また)くば 共に挿頭(かざ)さむ(良寛)

・秋萩の 花咲く頃を 待ちとほみ 夏草わけて またも来にけり(貞心尼)

・秋萩の 咲くを遠(とほ)みと 夏草の 露をわけわけ 訪(と)ひし君はも(良寛)

良寛と貞心尼は、良寛が死ぬまでの 3年間、お互いを慈しみ敬愛する恋愛が、続きました。

・天が下に みつる玉より 黄金より 春のはじめの 君がおとづれ(良寛)

良寛の恋の歌に貞心尼は、良寛の恋心を茶化し遊ぶように返します。

墨染法衣姿の良寛が、自分はまるでカラスのようだと笑うと、同じ法衣姿の貞心尼は、ならば自分は子ガラスですと返し笑い合ったことを歌にしました。

・誘(いざな)ひて 行かば行かめど 人の見て あやしめ見らば いかにしてまし(良寛)

・鳶はとび 雀はすずめ 鷺はさぎ 烏はからす 何かあやしき(貞心尼)

村人は、二人の仲を噂し心配しますが、二人は一向に意に介する風ではありませんでした。

・あづさ弓 春になりなば 草の庵を とく出て来ませ 逢ひたきものを(良寛)

・いついつと 待ちにし人は 来たりけり いまは相見て 何か思はむ(良寛)

二人は、度々会って花鳥風月を愛で、仏を語り、歌を詠みました。そして良寛は、貞心尼に看取られて亡くなりました。

良寛の死後、貞心尼は良寛の旅した跡を追い、良寛の遺した歌を集め「はちすの露」という良寛の歌集を自ら編み、それを生涯肌身離さず持っていたそうです。

3.貞心尼とは

貞心尼

貞心尼(ていしんに)(1798年~1872年)(俗名:奥村ます)は、江戸時代後期の曹洞宗の尼僧・歌人で、良寛の弟子です。法名は孝室貞心比丘尼(こうしつていしんびくに)、孝室貞心尼(こうしつていしんに)です。

長岡藩士・奥村五兵衛の娘として生まれました。17歳の時、漢方医・関長温のもとに嫁ぎましたが、子がなく離縁され、5年後に実家に戻りました。

23歳の時、柏崎市の尼寺で眠竜尼・心竜尼の弟子となり、貞心尼と名乗りました。

29歳で今の長岡市福島の閻魔堂に入り、その秋、良寛を訪ねました。しかし不在であったため、後日再訪して良寛に対面しました。

仏道や和歌の指導を受けるうちに愛情が高まり、歌を詠み交わしましたが、3年あまりで良寛の逝去を看取りました。

4.良寛の俳句・和歌・漢詩・書

(1)俳句

・うらをみせ おもてを見せて 散るもみぢ (辞世の句)

(2)和歌

・飯乞(いひこ)ふと 我(わ)が来(こ)しかども 春の野に 菫つみつつ 時を経にけり

・風きよし 月はさやけし いざともに 踊り明かさむ 老いのなごりに

・歌もよまむ 手毬もつかむ 野にもいでむ 心ひとつを 定めかねつも

・いにしへを 思へば夢か うつつかも 夜はしぐれの 雨を聞きつつ

・世の中に まじらぬとには あらねども ひとり遊びぞ 我はまされる

・生き死にの 境離れて 住む身にも さらぬ別れの あるぞ悲しき

・形見とて 何残すらむ 春は花 夏ほととぎす 秋はもみぢ葉 (辞世)

・良寛に 辞世あるかと 人問はば 南無阿弥陀仏と 言ふと答へよ (辞世)

(3)漢詩

生涯懶立身 生涯身を立つるにものうく(この生涯出世には興味が無かった)

騰々任天真 騰々と天真に任す(与えられた姿のままに過ごしてきた)

嚢中三升米 嚢中に三升の米(米袋には三升の米のみ)

炉辺一束薪 炉辺に一束のたきぎ(暖炉には一束の薪しかない)

誰問迷悟跡 誰か問わんめいごのあと(誰も私の法話に興味など無く)

何知名利塵 何ぞ知らんみょうりのちり(評判も財産も何もない)

夜雨草庵裡 夜雨草庵のうち(夜の雨の中この草庵で)

双脚等閑伸 双脚を等閑に伸ばす(両足をぼんやりと伸ばしたりしているだけである)

(4)書

良寛・天上大風

良寛紹介アニメ『天上大風』

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