「原始、女性は太陽であった」という言葉で有名な女性解放運動家の平塚らいてうとはどんな女性だったのでしょうか?
1.平塚らいてうとは
(1)平塚らいてうとは
平塚らいてう(ひらつか らいちょう)(1886年~ 1971年)は、評論家、女性解放運動家です。本名は平塚 明(ひらつか はる)。「らいてう」は「雷鳥」を平仮名にしたペンネームです。
戦後は主に反戦・平和運動に参加しました。日本女子大学校(現日本女子大学)家政学部卒で、高村光太郎の妻の智恵子と同級でした。
彼女は、特に大正から昭和にかけて婦人参政権等、女性の権利獲得に奔走した活動家の一人として知られています。結局、その実現は、第二次世界大戦後、連合国軍の日本における占領政策実施機関GHQ主導による「日本の戦後改革」を待たざるを得ませんでした。
しかし、1911年9月、平塚25歳の時、雑誌「青鞜」を創刊し、創刊号に自らが寄せた文章の表題に『元始、女性は太陽であった。真正の人であった。今、女性は月である。他に依って生き、他の光によって輝く、病人のような蒼白い顔の月である』と書きました。
(2)平塚らいてうの生涯
彼女は会計検査院高官平塚定二郎と母光沢の3女として東京に生まれました。
1903年日本女子大に入学しましたが、良妻賢母教育に失望、哲学書に親しみ、参禅したりして自我を追求しています。1906年卒業後、成美女子英語学校に通い「閨秀文学会」に参加しています。
1908年に「閨秀文学会」の講師だった森田草平との心中未遂事件を起こした後、評論家の生田長江(1882年~1936年)に勧められて、1911年9月女性のための文芸誌『青鞜』を発刊しました。恋愛と結婚の自由を説き、婦人解放への道を開きました。
ちなみに『青鞜』とは18世紀のロンドンで流行った「ブル―ストッキング」からのネーミングです。サロンで盛んに芸術や化学を論じた新しい婦人たちが、「青い靴下」を履いていたことが由来です。
創刊の辞「元始,女性は太陽だった」は、今日につながる女権宣言となりました。以後『青鞜』は女性解放思想の拠点となりました。
スウェーデンの婦人運動家エレン・ケイの『恋愛と結婚』翻訳を契機に、その思想に共鳴、育児を社会的仕事と位置づけ、母性の尊重を主張しました。
1918年には与謝野晶子・山川菊栄らと『婦人公論』誌上で、「母性保護論争」を展開しました。
「母性保護論争」とは、婦人公論3月号で与謝野晶子が『女子の徹底した独立』(国家に母性の保護を要求するのは依頼主義にすぎない)という論文を発表すると、彼女はこれに噛み付き、同誌5月号で『母性保護の主張は依頼主義か』(恋愛の自由と母性の確立があってこそ女性の自由と独立が意味を持つ)という反論を発表したのが発端です。
すると、山川菊栄がこの論争に加わり、同誌9月号で『与謝野、平塚2氏の論争』(真の母性保護は社会主義国でのみ可能)という論文を発表。その後、山田わかなどが論争に加わると一躍社会的な現象になりました。
この論争の中、1919年の同誌1月号で、彼女は『現代家庭婦人の悩み』(家庭婦人にも労働の対価が払われてしかるべき、その権利はあるはず)を発表しています。
1919年には市川房枝,奥むめおらと初の女性による政治的市民団体「新婦人協会」を結成しました。治安警察法案5条(婦人参政の禁止)改正を中心として対議会活動を行いましたが、2年後運動から退いています。
1930年には高群逸枝らの「無産婦人芸術連盟」に参加し、『婦人戦線』に関与しました。また協同自治社会の理想をめざして成城に「消費組合」を設立しました。
第二次世界大戦後は、全面講和、再軍備反対の声明発表など平和問題に発言しています。「婦人団体連合会」初代会長、「新日本婦人の会」代表委員なども歴任し、85歳で亡くなるまで女性解放運動の先頭に立ちました。
2.森田草平との心中未遂事件(煤煙事件)
1908年(明治41年)3月、平塚22歳の時、塩原(栃木県)で、小説家の森田草平と心中未遂事件(煤煙事件)を起こし、「紳士淑女の情死未遂」「情夫は文学士・小説家、情婦は女子大卒業生」などと新聞に書き立てられて世間の注目を浴びました。
「閨秀文学会」(文学の勉強会)で森田草平と出会って恋に落ちたものです。しかし森田草平には妻子がいたため、これは「許されない恋」でした。
ある日二人は「心中」を決意し、雪山へと向かいました。心中決行前に彼女は次のような内容の遺書を書いています。
「恋のため、人のために死ぬのではありません。自分を貫くために死ぬのです」
しかし二人は結局死ぬことはできませんでした。肥満気味の森田草平は雪に足をとられて、登るだけで疲労困憊し、短刀を谷底に捨てて心中を諦めました。そのまま一夜を明かし、二人は翌日捜索隊に発見されました。何とも滑稽にも見えるお騒がせな心中未遂事件です。
翌1909年に森田草平は、この心中未遂事件を小説『煤煙』に描いて発表しました。
ちなみに森田草平(1881年~1949年)は、東大英文科卒の小説家で夏目漱石の門下生です。漱石はこの心中未遂事件の後、彼を2週間自宅に引き取り、マスコミから隠してやっています。また事件の後始末として、漱石は馬場胡蝶とともに平塚家に対し、草平と明子の結婚を申し出ますが、結婚など全く考えていなかった明子に呆れられたそうです。
3.「若いツバメ」との結婚
1914年、今度は3歳年下の画学生奥村博史(1889年~1964年)と恋に落ち、「共同生活」を始めました。
今度の相手は妻子持ちでないため、恋愛自体は全く問題ないはずでしたが、『青鞜』の編集の仕事を半ば放り出したことが、青鞜社内の動揺と反発を招きました。
その騒動の中で、画家は彼女との別れを決意し、次のような手紙を残しました。
「水鳥たちが仲良く遊んでいるところへ一羽のツバメが飛んできて平和を乱してしまった。若いツバメは池の平和のために飛び去って行く」
この「若いツバメ」は、この年の流行語となり、以後女性から見て年下の恋人のことを「若いツバメ」と呼ぶようになりました。
このような騒ぎを起こしましたが、結局二人は「事実婚」(法律によらない自由な結婚。夫婦別姓)を実践し、1男1女をもうけました。