斎藤茂吉と言えば「アララギ派の代表的歌人」で、斎藤茂太(精神科医・随筆家)と北杜夫(精神科医・随筆家・小説家)の父親としても有名ですが、その生涯について詳しく知っている方は少ないのではないでしょうか?
今回は、道ならぬ「老いらくの恋」も経験した人間斎藤茂吉の生涯に迫りたいと思います。
1.斎藤茂吉とは
(1)斎藤茂吉とは
斎藤茂吉(さいとう もきち)(1882年~1953年)は、大正昭和期の歌人、精神科医です。伊藤左千夫門下であり、大正から昭和前期にかけて活躍した「アララギ」の中心人物です。
精神科医としては青山脳病院(現在の都立梅ヶ丘病院や斎藤病院)の院長を務めました。長男は精神科医で随筆家の「モタさん」こと斎藤茂太、次男は精神科医・随筆家・小説家の「どくとるマンボウ」こと北杜夫で、随筆家の斎藤由香はこの北杜夫の娘にあたります。
(2)斎藤茂吉の生涯
山形県南村山郡金瓶村に農家の守谷伝右衛門熊次郎、いくの三男として生まれました。幼少期から成績優秀で神童とまでいわれた茂吉ですが、生家である守谷家には進学のための経済的な余裕がありませんでした。そのため15歳のときに、東京・浅草で医院を開業する同郷の医師斎藤紀一(さいとうきいち)(1861年~1928年)の「養子候補」として上京することなりました。
この時はあくまで「養子候補」で、斎藤家としては茂吉が医師になれる目処がついたら養子にしようという程度で、確たる将来が約束されていたわけではありませんでした。
開業医斎藤紀一方に寄寓し、開成中学を経て一高理科在学中の1905年(明治38年)正岡子規の『竹の里歌』に感動して作歌に打ち込むようになりました。
同年斎藤家の養子となり、翌年正岡子規の影響を受けて伊藤左千夫に入門しました。1910年(明治43年)東京帝大医科卒業、呉秀三のもとで精神医学を専攻、巣鴨病院に勤務しました。
短歌を「生のあらはれ」とするその生命主義は、1913年(大正2年)の第1歌集『赤光』に美しくみなぎり、有名な「死にたまふ母」の連作をはじめ、その清新な歌風によって歌壇・文壇に大きな反響を巻き起こしました。
のど赤き玄鳥(つばくらめ)ふたつ屋梁にゐて足乳根の母は死にたまふなり
翌年紀一の次女輝子と結婚、1917年(大正6年)長崎医専教授。1921年(大正10年)第2歌集『あらたま』出版後にウィーン、ミュンヘンに留学し、ゴッホその他の近代美術にも触れて1925年(大正14年)帰国しました。
1927年(昭和2年)4月養父、に代わって青山脳病院長となりました。同年7月、芥川龍之介が茂吉にもらっていた睡眠薬を飲んで自殺し、大きな衝撃を受けました。
この前後「短歌に於ける写生の説」(1920年~1921年)(「実相に観入して自然・自己一元の生を写す」)などの評論、『念珠集』(1926年)などの随筆にも健筆を揮い、島木赤彦没後は『アララギ』の編集責任者となり、歌集『ともしび』(1950年)、『寒雲』(1940年)などに収められる作を次々に発表しました。
大著『柿本人麿』(1934年~1940年)によって学士院賞受賞。戦時下には「聖戦」讃美の歌も作りましたが、1945年(昭和20年)郷里山形県に疎開、敗戦後同県大石田に移り、国亡びて山河ある悲哀と挫折感のなかに、「最上川逆白波のたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも」などの絶唱を詠みました(1949年刊第16歌集『白き山』)。
1947年(昭和22年)に帰京し、1951年(昭和26年)に文化勲章を受章しました。
2.斎藤茂吉の妻・輝子とは
(1)猛女と呼ばれた淑女
1914年4月、茂吉は養父・斎藤紀一の長女で当時19歳だった斎藤輝子(1895年~1984年)と結婚、斎藤家の婿養子となりました。茂吉の才能を早くから見抜いていた紀一は輝子に、「変わっているが、きっと偉くなる。お前は看護婦のつもりで仕えなさい。」と諭していたそうです。
この輝子は、後に「猛女」と呼ばれた女性で、父に「なんで男に生まれなかったのか」と言わしめたという逸話が残っているほどです。
輝子は、今でいう「セレブ」。名家の令嬢が集う学習院女学部に通い、女性誌の写真ページには「王者の誇りをもった緋牡丹(ひぼたん)」のキャッチコピーで紹介されています。その名は「ドクトル斎藤紀一氏令嬢輝子」。裕福に育ち、恐れを知らぬ勝ち気なお嬢さまと、質素倹約が常の農村社会で生活していた茂吉。価値観の違いは明らかで、夫婦仲は良いとは言い難く衝突することもしばしばでした。
(2)ダンスホール事件
1933年には、ダンス教師が華族や上流階級の婦人との不倫や集団遊興を繰り広げていたとされる「ダンスホール事件」が発生しました。この事件では、逮捕されたダンス教師の取り巻きのひとりに輝子がいたことがメディアに報じられる事態になります。茂吉も輝子と警察に呼ばれ、事情聴取を受けることになりました。
ついに、茂吉の堪忍袋の緒が切れて輝子と別居を決意。以後12年に渡って別れて暮らすことになるのです。この事件について茂吉は、「精神的負傷」と記しています。その後、戦争中に輝子が茂吉の故郷である山形に疎開することになったのを機に1945年から同居を再開します。
二十年つれそひたりわが妻を忘れむとして衢(ちまた)を行くも
輝子は、晩年寝たきりになった茂吉を献身的に看護します。猛女と評されることもある輝子ですが、最後は父親の言葉に従い茂吉に寄り添う日々を過ごしたのです。
しかし茂吉の死を契機に、輝子は旺盛なバイタリティーと行動力で世界108ヵ国を旅行し、79歳で南極にでかけ「快妻オバサマ」と呼ばれるほどアクティブな女性でした。
3.永井ふさ子との「老いらくの恋」
(1)永井ふさ子との出会い
輝子と別居の翌年、正岡子規33回忌の年にあたる1934年9月16日に、向島百花園で行われた正岡子規忌歌会で、傷心の茂吉の前にひとりの美しい乙女が現れます。
永井ふさ子(1910年~1993年)は、愛媛県松山市の出身。永井家は松山藩の御殿医に繋がる家系で父親は医師で、正岡子規とも縁戚にありました。美貌と才気あふれるふさ子はこの時24歳。親子ほど年の差のあるふたりは、歌の師と愛弟子という関係を超えて恋に落ちるのです。
すでに頭は薄くなり、初老といっても過言ではない茂吉に訪れた奇跡的なこの恋。敬愛する正岡子規とふさ子の父が幼な友達であることを知ると、茂吉は「ほう、それは因縁が深いな」と言ったそうです。茂吉はこの時、ふさ子との縁を感じていたのかもしれません。
(2)永井ふさ子の虜となる
その二ヵ月後、奥秩父でのアララギの吟行会が催され、混雑する帰りの電車で、二人分にはちょっと狭い空席に、ふさ子と茂吉は並んで腰掛けました。ふさ子の柔らかな肌の感触が、衣服を貫いて茂吉の体の芯にまでしみていきました。
それからさらに一ヵ月後、茂吉が親しい弟子たちを呼んでトロロ飯を食べる「とろろ会」にも、ふさ子の姿がありました。帰途、兄弟子のひとりがふさ子に茂吉の家庭事情をさりげなく話したのは、茂吉の意志によるものだったのかどうか。ふさ子は同情と軽い義憤を感じ、それがやがて恋情へと移ろっていきました。
恋に落ちた茂吉は、なんとも率直かつ赤裸々な文を綴っています。
「実際たましひはぬけてしまひます。ああ恋しくてもう駄目です」
文面からもわかる通り、いつか二人は男女の一線を越えていました。ある時は、茂吉が自ら恋愛歌の上の句をつくり、ふさ子に下の句をつくるように懇望したこともありました。そうして、できあがったのが、次のような短歌でした。
光放つ神に守られもろともにあはれひとつの息を息づく
秘めたる恋が結婚にむすびつく帰結を、ともに夢見たひとときもあったのでしょうか?
しかし結局は結ばれぬ仲で、別離が訪れます。ふさ子は茂吉を愛していましたが、「道ならぬ恋」だとわかっていましたので、茂吉への想いを断ち切るため、岡山の医師と婚約しました。しかし1年後には婚約を解消し、独身を通してその生涯を終えました。
茂吉ほどの人に愛された以上、他の人の愛を受け入れることはできない、というのがふさ子の信念だったのかもしれません。
(3)茂吉の死後に公開された熱烈な恋文
この恋は茂吉の死後10年を経た1963年、ふさ子がに80通にのぼる書簡を雑誌を通して発表するまで秘められたままでした。茂吉はふさ子という愛人の存在が世間に知られるのを恐れ、ひた隠しにしていたのです。茂吉は彼女に、手紙を読んだら必ず燃やすように懇願していました。ふさ子は最初の30通ほどは焼き捨てたものの、その後は焼却せずに保管、大事な文面や歌を手帳に書き留めていたものもありました。
1936年6月1日の茂吉の手紙にある、「ふさ子さんは小生のどういふところがお好きなのですか 小生には不明ですからお仰つて下さい。」という問いに対してのふさ子の返信は下記のような内容です。
「非常に素朴で純粋で、偉い方のようではなくて子供の様なところが好きです、という様なことを書いたとおもう。歌の師としても非常に尊敬していた。歌の添削にしても、たとえ一字だけであっても先生が手を加えられると、その歌がまるで生きてくる様な感じがした。同じ言葉でも先生が使われると、どうしてこうも活き活きとした美しい調べになるのだろうと感嘆せずにいられなかった。」
( 永井ふさ子著『斎藤茂吉・愛の手紙によせて』 より)
茂吉の恋心は狂おしいまでに高まっていきます。(下記2通は、なんと手渡しです)
「春あたりまで、気が引けて、醜老身を歎じていましたが、このごろは全く、とりこになつています。」(11月24日書簡より抜粋)
「ふさ子さん! ふさ子さんはなぜこんなにいい女体なのですか。何ともいへない、いい女体なのですか。どうか大切にして、無理してはいけないと思います。玉を大切にするやうにしたいのです。ふさ子さん。なぜそんなにいいのですか。」(11月26日書簡より抜粋)
茂吉の次男で作家の北杜夫は「古来多くの恋文はあるが、これほど赤裸々でうぶな文章は多くはあるまい」(評伝『茂吉彷徨』より)と記しています。
故郷を後にした15歳の茂吉。もなかを食べて「こんなうまいものがあるのか!」と驚き、たどり着いた東京で「こんなに明るい夜があるものだろうか!」と驚いた茂吉。それから40年の時を経て、ふさ子を前にしてすっかり15歳の少年に戻った茂吉がいます。
矜持を持って生を全うした、茂吉、輝子、そしてふさ子。運命を受け入れる柔軟さと力強さに満ちたその生き方は、これからも輝きを放ち続けることでしょう。