今はあまり名前を聞きませんが、私が高校生だった頃、文芸評論家の亀井勝一郎の批評や文章は、同じく評論家の小林秀雄と並んで高く評価されていました。小林秀雄や亀井勝一郎の文章は、当時高校の「現代国語」の教科書にも掲載されていました。
亀井勝一郎とは一体どんな人物だったのでしょうか?
1.亀井勝一郎とは
亀井勝一郎(かめい かついちろう)(1907年~1966年)は、北海道函館市生まれの昭和期の文芸評論家です。はじめ左翼的政治運動に参加しましたが、のち転向し、仏教思想に関心を深め、文芸評論、文明批評で活躍しました。
旧制山形高等学校(現・山形大学)経て、1926年(大正15年)に東京帝国大学文学部美学科に入学しました。1927年(昭和2年)には「新人会」会員となりマルクス・レーニンに傾倒し、大森義太郎の指導を受けました。社会文芸研究会、共産主義青年同盟に加わり、翌1928年(昭和3年)には退学しています。
1928年3月15日に「三・一五事件(さんいちごじけん)」が起きました。これはマルクス主義 を忠実に実践するため非合法の 無産政党 の設立および 第三インターナショナル の日本支部を目的として設立された日本共産党等の活動員数千名を検束、検挙された者が約300名、「治安維持法」に問われただちに 市ヶ谷刑務所 に収監された者が30名にのぼった事件です。
この「三・一五事件」の後、4月20日に彼は治安維持法違反で検挙されました。1930年獄中で発病し、「転向」を表明して出所しましたが、その後も1932年「プロレタリア作家同盟」に加わって評論家として活躍しました。
しかし、同盟解散後の左翼運動退潮期に自己内面の真実を問う処女評論集『転形期の文学』(1934年)で頭角を現すとともに、この評論集刊行後は唯物的思潮や左翼文学と決別し、保田与重郎(やすだよじゅうろう)らと『日本浪曼(ろうまん)派』(1935年)を創刊しました。
そして日本の古美術、古典、仏教などに関心を深め、『大和(やまと)古寺風物誌』(1943年)にまとめました。『日本浪曼派』廃刊後は小林秀雄らの『文学界』同人としても活躍し、河上徹太郎と「近代の超克」座談会を企画しました。
第二次世界大戦後は『我が精神の遍歴』(1948年)をはじめとして、自己を通して日本人の精神史を探る仕事に着手し、社会的には日中国交回復にも尽力しました。
未完に終わった宗教的立場からの文明批評である『日本人の精神史研究』(1959年~1966年)がライフワークでした。1965年(昭和40)芸術院会員となっています。
2.亀井勝一郎の「転向」に至る苦悩の精神遍歴
函館の亀井家は江戸後期に能登の国(現石川県)から移住し、網問屋として財を成しました。
勝一郎の生まれた亀井家はその有力分家の一つで、父(喜一郎:工藤家出身)は函館貯蓄銀行の支配人(常務取締役)のほか幾多の公職に就く函館屈指の富豪でした。
生家の前には亀井家の菩提寺である浄土真宗 東本願寺函館別院がそびえ、隣にはフランス系、その隣にロシア系、その前にはイギリス系、坂を少し下るとアメリカ系の教会がありました。
小学校入学の年からはアメリカ系のメソジスト教会の日曜学校に通い、中学3年まで宣教師から聖書と英語の個人教授を受けました。彼は「幼い私は宗教的コスモポリタンであった。」と書いていますが、洗礼は受けませんでした。
小・中学校を通じて秀才の誉れが高く、父自慢の少年でした。生まれながらにして富と名声が備わっていたのです。しかしこのことは「富める者は罪人なり」という思いで亀井少年の心を苦しめました。
「この世には『富める者』と『貧しき者』と二つある。この差は心の高さや才能に由るのでなく、ただ偶然の運命である財力に基づくものだ。これは罪悪ではないだろうか。」と考えるようになり、大正11年(中学3年:15歳)に町の公会堂で賀川豊彦の講演を聴いて「富める者は罪人なり」と宣告されたと確信するに至りました。
大学時代のマルクス主義への急傾斜について、彼は「ブルジョアジーに生まれた自分」、「マルキシズムは正しい」、「自分が没落する階級に属することの恐怖」、「2~3年のうちに
革命が起こると確信」、等々の心境の過程を「ノート」などに記しています。
治安維持法違反で検挙された彼は、共産主義活動の放棄を約束すれば早期に釈放されることを知っていましたが、これを拒否しました。外見には共産主義への信念がそうさせたと映りますが、実際には胸中はかなり複雑に揺れていました。彼は後に「組織から離反し背反の心的準備を重ねているようなものだった」と率直に書いていますが、簡単にいえば、違約を前提に出所して元の活動家に戻ることの価値に疑問を覚え、一方、活動を離れることによって裏切り者、
背信者の謗りを受けることを恐れ、身動きが出来なくなったようです。
そこに文学という絶好の、というより彼の生来の本性を目覚めさせる対象がありました。
父は寛大で、もちろん転向による早期の出所を求め、そうすることを強く説き、願ったようですが、一方で彼が希望するままに文学書などを差し入れていました。生活は不便でしたが、何に煩わされることもなく存分に本を読み、思索に耽り、人生、つまりは生き方を探求しました。
しかし、刑務所の独房という劣悪な生活環境は確実に彼の肉体を蝕んでおり、昭和5年7月、喀血しました。今度は病による死に怯えました。何としても生きたかったのです。病状を大袈裟に申告して市谷刑務所の病監に移してもらい、生きるための転向を決断しました。
転向後、日本の古美術、古典、仏教などに関心を深めたのは、「転向の苦悩」から逃避し「精神の安定・心の平安」を求めたためではないかと私は思います。
3.亀井勝一郎の言葉
・小林秀雄は江戸の職人である。小林秀雄は栄養料理の名手である。只 この料理が必ずしも吾々の美観を満足させぬ。
・絶望は人生に必ずつきまとうものだ。
絶望しないような人間はある意味でたよりない人だといえる。
なぜなら小さな自己に満足しなんらの努力も考えごともしない人に、絶望は起こり
えないからだ。
・死そのものよりも、死についての想像の方が、遥かに我々を恐怖させる。
・自己に絶望し、人生に絶望したからといって、人生を全面的に否定するのはあまりにも個人的ではないか。
人生は無限に深い。我々の知らないどれほどの多くの真理が、美が、あるいは人間が、隠れているかわからない。それを放棄してはならぬ。
・私は年をとるにつれて、幸福の反対を不幸だとは思わなくなった。
幸福の反対は怠惰というものではなかろうか。
・青年時代に一番大切なことは、いつまでたっても解決できないような途方にくれる
ような難題を、自己の前に設定することではなかろうか。
・未完成の自覚を持って、絶えず努力してゆくところに青春がある。たとい若くても、自己満足におちいっているなら、その人は老人に等しい。
・徒党というものは一面からいえば孤独に耐え得ざる精神の休憩所だ。
・結婚とは青春の過失であるとある作家は言ったが、過失であって結構なのである。お互いにしまったと思いつつ、「お互いに、しまったわね」などとニヤニヤ笑いながら、さし向いで言うようになったらしめたもので、それが夫婦愛というものだ。
4.(ご参考)亀井勝一郎のような左翼運動家からの転向者
戦時中から戦後にかけては、亀井勝一郎だけでなく、詩人・評論家の中野重治(なかのしげはる)(1902年~1979年)などのように「転向」する者が多く出ました。
昭和前期に治安維持法違反容疑で検挙された者は7万人を超えるといわれますが、多くの者が転向の誓約書を書きました。最後まで主義を貫いたのは日本共産党でも徳田球一・宮本顕治・袴田里見などごく少数でした。
(1)水野成夫
フジテレビジョン初代社長で財界人として活躍し、「財界四天王」(小林中・水野成夫・永野重雄・櫻田武)と呼ばれた水野成夫(みずのしげお)(1899年~1972年)は、元日本共産党員で、「赤旗」(しんぶん赤旗)の初代編集長です。
彼は1924年に東京帝国大学法学部を卒業し、1925年に日本共産党に入党しています。共産党時代に所属していた産業労働調査所を赤字経営であったのを黒字に転換させるなど、後年の経営者の片鱗を見せています。
1927年日本共産党代表として、コミンテルン極東政治局に派遣され、中国で武漢国民政府の樹立に参画しています。1928年に帰国して赤旗(現:しんぶん赤旗)初代編集長として2月1日から発行を開始していましたが、1928年の「三・一五事件」で検挙されました。
「三・一五事件」で検挙された水野成夫ら日本共産党労働者派は獄中転向第一号で、転向理論の原型を作ったと言われ、その後の獄中での大量転向のきっかけを作ることになりました。
(2)渡邉恒雄
読売新聞グループ本社主筆の渡邉恒雄(わたなべつねお)(1926年~ )も、大学時代に共産党に入党しています。
彼は学徒出陣時代に受けた暴行などから天皇制ファシズムを嫌悪していました。そこで、東京大学法学部在学中の1945年12月、反天皇制を掲げていた日本共産党に入党を申し込みました。日本青年共産同盟の同盟員としてビラ貼りや演説会の勧誘など下積み活動を経験して、1947年頃、正式な党員として認められました。東大細胞(共産党が地域・職場・学園などに設けた末端組織の旧称、現在の「支部」)に所属し、他大学でも演説を行い党員を増やしました。1947年9月、カスリーン台風の被害に対する共産党の考えをきっかけに党の思想に疑問を抱き、反マルクス主義の東大新人会運動の展開を開始。1947年12月に自ら離党届を提出し党から除名処分を受け、東大細胞も解散となりました。
(3)佐野学
佐野学(さの まなぶ)( 1892年~ 1953年)は、社会主義運動家で、昭和初期の非合法政党時代の日本共産党(第二次共産党)の中央委員長です。獄中から転向声明を発表し、大きな反響を呼びました。
彼は東京帝国大学法学部を卒業後、大学院で2年間、矢作栄蔵の下で農政学を学び、新人会創立に参加しました。
日本勧業銀行に短期間勤めた後、兄彪太の岳父後藤新平の伝手で1919年、満鉄東亜経済調査局に嘱託社員として勤務し、翌1920年4月、早稲田大学商学部講師となって経済学と経済史を講義しました。1921年7月、論文「特殊部落民解放論」(雑誌『解放』所収)を書いています。
1922年7月、荒畑寒村の勧誘で日本共産党(第一次共産党)に入党。翌年2月の党大会(市川大会)で執行委員・国際幹事に選出されましたが、同年5月末、第一次共産党事件(6月5日)による検挙を避けソ連に亡命しました。
その際に後藤新平は、佐野の亡命に関する情報を、後藤との日ソ国交交渉のために来日していたアドリフ・ヨッフェ経由でソ連に流し、亡命を援助しました。
1925年7月に帰国して共産党を再建(第二次共産党)。1925年1月の日ソ基本条約調印によりソ連大使館が開設され、そこに商務官の肩書きで派遣されていたコミンテルン代表のカール・ヤンソンから活動資金を得て、『無産者新聞』の主筆を務めました。1926年3月、第一次共産党事件で禁錮10ヶ月の判決を受け、同年末まで下獄。1927年12月に中央委員長に就任、労働運動出身の鍋山貞親とともに党を指導しました。
1928年、「三・一五事件」の前日に日本を発って検挙を免れて訪ソし、コミンテルン第6回大会に日本共産党首席代表として出席、コミンテルン常任執行委員に選任されました。モスクワでは日本史の講師としてモスクワ東洋学院の教壇にも立っています。その後、のちのソ連外相モロトフと共にオルグとしてドイツ共産党に派遣され、ベルリンを経て、ロッテルダムからインドに向かい、インド共産党の内紛を調停し、1万ドルの資金を渡しました。1929年3月14日に中国・上海に到着し、中国共産党の周恩来に会い、彼の紹介でコミンテルン代表となっていたリヒャルト・ゾルゲに会っています。
後藤新平死去直後の6月に上海で検挙され、1932年に東京地裁で治安維持法違反により無期懲役の判決を受けました。
1933年、鍋山とともに獄中から転向声明「共同被告同志に告ぐる書」を出しました。これはソ連の指導を受けて共産主義運動を行うのは誤りであり、コミンテルンからの分離や満州事変の肯定、天皇制の受容、日本を中心とする一国社会主義の実現を目指すという内容でした。