ゴーギャンと言えばゴッホやセザンヌと並んで「後期印象派(ポスト印象派)の代表的画家」として知られていますが、どのような人物で、どんな人生を送ったのでしょうか?
1.ゴーギャンとは
ポール・ゴーギャン(1848年~1903年)は、フランス後期印象派(ポスト印象派)の画家です。
印象主義的画風から出発し、浮世絵、ロマネスク彫刻、民俗工芸など多角的な影響のもとに、新しい画風を形成し、その象徴主義的テーマ、装飾的な画面構成、主観性の強い色彩などの点で、ナビ派などに直接影響を及ぼしたのみならず、現代絵画にも多くの啓示を与えました。
また、二度のタヒチ行きに彩られる波瀾(はらん)に富む人生は、ゴッホのそれとともに、19世紀末の芸術家の悲劇的な疎外を代表するものです。
2.ゴーギャンの生涯
彼は1848年6月7日、「二月革命」(*)の年にパリに生まれました。
(*)「二月革命」とは、1848年2月22日から24日にかけて、パリを中心とする民衆運動と、議会内の反対派の運動によって、ルイ・フィリップの王政が倒れ、共和政が成立した革命のことです。この革命は単にフランスのみならず、オーストリア、プロイセン、イタリアなど西ヨーロッパの諸民族にも大きな影響を与え、さまざまの政治的変動を生み出しました。
母方の祖母にサン・シモン派の女権論者フローラ・トリスタンがいます。父クローヴィスが共和主義のジャーナリストだったため、1851年の「ナポレオン3世のクーデター」のとき、一家をあげて南米ペルーに亡命しました。その船中で父を失い、叔父のもとに身を寄せました。この幼年期のリマ滞在の思い出は、後の彼の画作の一つとなります。
1855年に帰国した後、1865~1871年の間、水夫として南米、スカンジナビア航路の商船に乗り組みました。
1871年からは、パリの株式仲買商ベルタンの店員として勤務しました。1873年にデンマーク人メット・ガットと結婚し、5子をもうけました。
株式仲買人として3万フランの年収を得るとともに、画商としても同程度の収入を得ていました。その間ピサロと知り合い、印象派の作品の収集を行うかたわら自らも描きました。
1876年のサロンに出品し、1880年からは印象派展にも出品しています。おそらくその自信と、他方で経済恐慌による商売の先行きへの不安から、1883年ベルタン商会を退職し、絵画に専念することを決意しました。しかし、彼の目算は外れ、ルーアン、コペンハーゲンと彼の困窮の生活が続き、妻とは別居状態となりました。しかし1886年の印象派展には19点の油彩を出品し、すでに彼の画風の独創性をみせています。
同年夏、ブルターニュのポンタバンに滞在、翌年マルティニーク島に滞在しています。すでにこの時期から、浮世絵やセザンヌの啓示を受けて画風に変化がおこり、1888年の二度目のポンタバン滞在では『ヤコブと天使の格闘』(エジンバラ、スコットランド国立美術館)などによって総合主義を確立しました。
同年秋、アルルでのゴッホとの共同生活、1889年にはカフェ・ボルピニでのグループ展に出品し、1889~1890年には、ポンタバン派のリーダーとして、ポンタバン、ル・プールデュで制作しています。また象徴派の文学者によっても支援され、カフェ・ボルテールの集いにも出入りし、同時代の象徴主義芸術の旗手の一人となりました。
1891年、作品の売り立てを行い、第1回のタヒチ行きを実現しました。野性を求めたこの冒険は、彼にある種の幻滅を味わわせましたが、『われマリアを拝す』(メトロポリタン美術館)などの成果、あるいは著作『ノア・ノア』(シャルル・モリス編で97年より『ルビュ・ブランシュ』誌に掲載)を実らせます。
我々がよく知るゴーギャンの絵の画風は、1891年のタヒチ行き以降の作品に見られます。
1893年に帰国しましたが、1895年に再度タヒチへ行き、再び困窮、土地の官憲との抗争、病気の中での制作を行いました。しかし、『ネバ・モア』(1897・コートールド美術館)、『われらいずこより来たり、いずこへ行くか』(1897・ボストン美術館)など、最も充実した作品が生み出されました。
ただし、ゴーギャンの絵が初めてまともな価格で売れたのは「われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか」(1898年作)で、完成から3年後の1901年、2500フランでようやく買い手が付きました。
1898年には自殺を試みて失敗します。しかし、その後ボラールや若干の愛好家たちの援助によって多少のゆとりを得て、『花を抱える娘』(1899・メトロポリタン美術館)などの魅惑的な作品を制作しています。概してこれらのタヒチ時代の作品は、かならずしも同地の風俗の忠実な描写ではなく、さまざまな発想源から構想されたもので、楽園の神話を求めるゴーギャンの内面の産物です。
1901年、マルケサス諸島のヒバ・オアのアトゥアナに移り、1903年5月8日、同地に没しました。享年54でした。
ゴーギャンは前述の『ノア・ノア』以外にもいくつかの著作を残していますが、彼自身の生涯と作品に関するなかば小説的な回想『アバン・エ・アプレ』はアトゥアナでの著作です。
1903年のサロン・ドートンヌでの回顧展は、その後のゴーギャンの評価と影響の契機となりました。また画作以外に、木彫、陶器、版画など多様な技法を試みましたが、これらもゴーギャンの芸術の重要な側面です。
精神的な不安定さと画商出身というのは、ゴッホとの共通点ですね。
3.ゴーギャンの作品
(1)『ヴォージラールの市場の庭』1879年。
(2)『冬の風景』1879年。
(3)『ゴーギャン夫人の肖像』1880-81年頃。
(4)『縫い物をする女』1880年。
(5)『ヴォージラールの庭』1881年。
(6)『水浴する女たち』1885年。
(7)『ブルターニュの羊飼い』1886年。
(8)『ブルターニュの4人の女』1886年。
(9)『ブルターニュの少女』1886年。
(10)『水浴するブルターニュの少年』1886年。
(11)『黄色いキリスト』1889年。
(12)『ラヴァルの横顔のある静物』1886年。
(13)『マルティニークの風景』1887年。
(14)『林の中の小屋』1887年。
(15)『海辺II』1887年。
(16)『池』1887年。
(17)『熱帯の立ち話』1887年。
(18)『マンゴー摘み』1887年。
(19)『ヴァヒネ・ノ・テ・ティアレ(花を持つ女)』1891年。
(20)『イア・オラナ・マリア(我マリアを拝する)』1891年。
(21)『タヒチの女(浜辺にて)』1891年。
(22)『ファタタ・テ・ミティ(海辺で)』1892年。
(23)『アレオイの種』1892年。
(24)『死霊が見ている』1892年。
(25)『テフラ(テハーマナ)』1891-93年。
(26)『ジャワ女アンナ』1893年。
(27)『マハナ・ノ・アトゥア(神の日)』1894年。
(28)『ナヴェ・ナヴェ・モエ』1894年。
(29)『オヴィリ』1894-95年。
(30)『ナヴェ・ナヴェ・ファヌ(かぐわしき大地)』、『ノア・ノア』の木版画、1894年。
(31)『ネヴァモア』1897年。
(32)『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』1897-1898年。
(33)『3人のタヒチ人』1899年。
(34)『邪悪な精のついたタヒチの女性』1899-1900年、モノタイプ。
(35)『扇を持った若い女』1902年。
(36)『未開の物語』1902年。
(37)『赤いケープをまとったマルキーズの男』1902年。
(38)『自画像』1903年。
(39)『海辺の騎手たち』1902年。
(40)『豚と馬のいる風景』1903年。
(41)『異国の鳥のある静物』1902年。