「影武者」とは、「権力者や武将などが、敵を欺いたり味方を掌握するため、自分とよく似た風貌や体格・年恰好の人物を身代わりとさせること。またその身代わりの人物のこと」です。
英語では「political decoy」(政治的なおとり)や「victim」(身代わり)と呼ばれます。
戦闘の際に、部下に武将と同じ衣服や甲冑を着用させて敵を欺いて陽動作戦を行ったり、武将が自らの戦病死や不在を隠すために用いられました。
昔は写真などがなく、名の知られた王様や将軍、天皇でも、実際に本人の顔を知っている人は少なかったことから、年齢や体格の似通った人物を「影武者」や「替え玉」に仕立てることは、そう難しいことではなかったと思われます。
「影武者」や「替え玉」は、現代で言えば、「要人警護のSP」のような役割も果たしていたものと思われます。
今回は、「影武者」や「替え玉」にまわる面白い話をご紹介したいと思います。
1.日本の影武者・替え玉
(1)平将門
平安時代の武将の平将門(たいらのまさかど)(903年?~940年)には、7人の影武者がいて、「平将門の乱」に際して藤原秀郷が平将門を討とうとして困惑したという「七人将門伝説」があります。
(2)武田信玄
1980年に公開された黒澤明監督・仲代達矢主演の映画「影武者」は、カンヌ国際映画祭で「パルム・ドール」を受賞した名作です。これは、戦国時代に武田信玄(1521年~1573年)の影武者として生きる運命を背負わされた信玄と瓜二つの小泥棒の悲喜劇を描いたものです。
実際、武田信玄には3人の「陰(影)法師」と呼ばれる影武者がおり、平生の行事や戦場で活躍したそうです。
(3)徳川家康
戦国大名の多くは、特に戦場において命を奪われないように「影武者」を仕立てたことで知られています。徳川家康(1543年~1616年)にも複数の影武者がいたと言われています。
また「影武者説」とは別に、「徳川家康は人生のいずれかの段階で別人と入れ替わったという仮説(すり替え・別人説)もあります。明治時代の地方官吏の村岡素一郎氏は著書「史疑 徳川家康事蹟」の中で「徳川家康は桶狭間の戦いで今川義元軍の先鋒として活躍した数年後に「不慮の死」を遂げ、以後は別人(世良田二郎三郎元信)に入れ替わった」と主張しています。
村岡素一郎氏は、この本の序論で「貴賤顛倒」説を唱えています。「日本の歴史は約300年毎に政変があり、「貴・賤の顛倒」(上下階級の交代)が行われた」とし、これが「歴史の自然法」だとしました。
大化の改新で蘇我氏を倒した藤原氏の祖・藤原鎌足、宇多天皇・醍醐天皇の時代に異例の出世を遂げた菅原道真、地下人から太政大臣に上り詰めた平清盛、庶民の出自であることが明らかな豊臣氏などの例を挙げ、徳川氏が豊臣氏のような下層に属する出身でなく、三河松平氏の貴公子と言われるのは、歴史の自然法から見て疑惑が生じると論じました。
隆慶一郎氏の時代小説「影武者徳川家康」は、「関ヶ原の戦いで西軍に暗殺された」としています。
どちらも史実かどうかは定かでありませんが、フィクションとしては面白いと思います。
(4)明治天皇
これは、厳密には「影武者」ではありませんが、次のような話があります。
明治天皇は北朝系統のはずなのには、「自分は南朝の流れを汲む」と発言したことから、南朝系統の大室寅之祐という人物にすり替わったという話です。にわかには信じがたいことですが、無きにしも非ずという気もします。
もしこれが本当なら、「天皇家の祖先」に関する疑問を惹起する「成りすまし」あるいは「替え玉」と言うべきかもしれません。
2.外国の影武者・替え玉
(1)古代メソポタミアの「身代わり王」
古代メソポタミアでは、将来を予測するための占いや占星術が盛んに行われていました。このような中で王の身に災いが訪れることを示す凶兆(日食や月食、気象異常など)が現れた時に、王を災いから守るために、影武者とも呼ぶべき王が立てられました。これが「身代わり王」です。
(2)ルイ14世
これについては、前に「ルイ14世のすり替わり説とは?『鉄仮面』についても紹介」という記事に詳しく書いていますので、ご一読ください。
(3)アドルフ・ヒトラー
アドルフ・ヒトラーは、連合国軍によるベルリン占領直前の1945年4月30日に自決したとされていますが、遺体は焼却されて本人確認ができないほど破損し、しかもソ連軍が持ち去ったため、ベルリンで死んだのは替え玉(影武者)で、本人は南アメリカ他に落ち延びたとする説が、現在も一部に残っています。
(4)その他の独裁者
ほかにも、ソ連のヨシフ・スターリン、イラクのサダム・フセイン、北朝鮮の金正日、リビアのカダフィ大佐にも影武者がいたとする説があります。
3.コピペチェックツールとしての「影武者」
最近、学術論文や大学生のレポートだけでなく、ブログ記事などの「コピペ」や「盗用」が問題になっています。
記憶に新しいのは、世紀の大発見かと騒がれた小保方晴子さんの「スタップ細胞」ほかの学術論文で「コピペ」があったことです。
粗悪学術誌の「ハゲタカジャーナル」に掲載される学術論文は、ろくに審査もしていないようなので、「コピペ」が多い可能性があります。
「コピペ」とは、「コピーアンドペースト」の略で、「パソコンで文書などのデータを複製し、貼り付けるという一連の操作」のことです。
最近の大学生の論文・レポートにも、「コピペ」が少なからずあるようです。
ブログ記事でも、「コピペ」が問題になっており、それに対する対策ツールとして、高性能の「有料コピペチェックツール」と、簡易な「無料コピペチェックツール」があります。
(1)有料コピペチェックツール
「影武者」(無料版もあり)、「COPIPERIN」(コピペリン)、「コピペルナー」、「Turnitin(ターンイットイン)」、「CIA Shadow」などがあります。
(2)無料コピペチェックツール
「CopyContentDetector」、「こぴらん」、「剽窃チェッカー」、「Copydetect」(有料版もあり)などがあります。
4.勝新太郎の映画「影武者」の「降板」裏話
武田信玄の影武者を描いた黒澤明監督の映画「影武者」の主役は当初、勝新太郎・若山富三郎兄弟(若山富三郎の方が兄)の予定でした。
ところが、若山富三郎が健康上の理由で出演を辞退したため、勝新太郎が「一人二役」を演じることになりました。
ところが、勝新太郎は「座頭市」を監督・主演するような天才的な役者馬鹿で、しかも自分の考えを押し通すような所があり、次第に黒澤明監督と摩擦や軋轢が生じるようになってきました。
黒澤明監督は何事も自分の思い通りにしないと気が済まないタイプなのに対し、勝新太郎は黒澤明監督の指示通りに素直に演技する役者ではなく、自分の考えを前面に出す方なので、両者の思い描く方向が違ってきて行き違いや衝突が生じ、黒澤明監督をして「監督が二人いたら仕事にならない」と言わしめるに至ったのです。その結果、「君には辞めてもらうしかない」ということになり、撮影が途中まで進んでいたにもかかわらず、勝新太郎は「降板」することになったのです。
なお、最終的に決裂したきっかけは、勝新太郎が「リハーサルのビデオを撮らせてくれ」と頼んだのに対して、黒澤明監督が「断る!」と言ったことのようです。