<2023/9/28追記>NHK朝ドラ「らんまん」の堀井 丈之助は坪内逍遥がモデルだった!
私はNHK朝ドラ「らんまん」を最初から欠かさず見て来ました。十徳長屋に住む東大文学部の落第生である堀井 丈之助も、誰かをモデルにしているように思っていました。
「西洋文学」「新聞小説」「シェイクスピアの翻訳」「遊女の身請け」「早稲田」などのキーワードから、坪内逍遥がモデルではないかと、以前から薄々感じていましたが、今週の「シェイクスピア全集の翻訳完成」との発言から、それを確信しました。
坪内逍遥と言えば、「小説神髄」「当世書生気質」やシェイクスピアの翻訳で有名ですが、どのような人物だったのでしょうか?
今回は坪内逍遥の人生を辿ってみたいと思います。
1.坪内逍遥(つぼうちしょうよう)とは
坪内逍遥(1859年~1935年)は、幕末の美濃国(現在の岐阜県)出身の小説家・評論家・翻訳家・劇作家で、本名は雄蔵です。
別号の「春廼屋朧(はるのやおぼろ)」は、「朧ろ月夜に如(し)ものぞなき」の古歌にちなんだものです。
代表作に小説論の「小説神髄」、小説の「当世書生気質」およびシェイクスピア全集の翻訳があり、近代日本文学の成立や演劇改良運動に大きな影響を与えました。
(1)生い立ちと幼少期
父は尾張藩士でした。美濃国で生まれましたが、明治維新とともに一家で実家のある名古屋の笹島村に戻っています。
父から漢籍書類を読まされたほか、母の影響で11歳頃から貸本屋通いを始め、読本・草双紙などの江戸戯作や俳諧・和歌に親しみ、ことに滝沢馬琴に心酔しました。
(2)青年時代
1876年に東京開成学校に入学、東京大学予備門を経て、1883年に東京大学文学部政治経済科を卒業しました。
大学在学中は西洋文学を学び、詩人の作品のほか、同級の友人・高田早苗(1860年~1938年)の勧めで、西洋の小説も幅広く読んでいます。
大学在学中の1880年に、ウォルター・スコットの「ランマームーアの花嫁」の翻訳「春風情話」を刊行しています。
(3)結婚
妻センは、東大近くにあった根津遊郭の大八幡楼の娼妓・花紫で、彼が学生時代から数年間通いつめた後、1886年に結婚しました。
ちなみに松本清張の「文豪」はこれを題材にした小説です。
(4)文学論・小説・翻訳など幅広く活動
高田早苗に協力して、東京専門学校(早稲田大学の前身)の講師となり、後に早大教授となっています。
1884年にはウォルター・スコットの「湖上の美人」の翻訳「泰西活劇 春窓綺話」、シェイクスピアの「ジュリアス・シーザー」の翻訳「該撤奇談 自由太刀余波鋭鋒」を出版しています。
1885年に「小説神髄」を発表しました。小説を美術(芸術)として発展させるために、江戸時代の「勧善懲悪の物語」を否定し、小説はまず「人情」を描くべきで、「世態風俗」の描写がこれに次ぐと論じました。
彼は19世紀末にフランスのエミール・ゾラ(1840年~1902年)によって提唱された「自然主義文学」に影響を受けたものと思われます。「自然主義文学」とは、「自然の事実を観察し、『真実』を描くために、あらゆる美化を否定する文学」です。
この「心理的写実主義」によって、日本の近代文学誕生に大きく貢献しました。また、この理論を実践すべく、1885年から1886年にかけて「当世書生気質」を発表しました。
しかし、彼自身がそれまでの「戯作文学」の影響から脱しきれておらず、不完全なものに終わりました。このことは後に、二葉亭四迷の「小説総論」や言文一致体で写実主義の小説「浮雲」によって批判的に示されました。
なお、この流れは小杉天外、永井荷風、島崎藤村や田山花袋の「自然主義文学」へと受け継がれて行きます。
(5)近松門左衛門の研究と戯曲の発表、シェイクスピアの研究と翻訳
1889年に発表した「細君」を最後に小説の執筆はやめ、1890年からはシェイクスピアと近松門左衛門の研究に着手しました。
1891年には雑誌「早稲田文学」を創刊しました。1897年前後に戯曲として新歌舞伎「桐一葉」「お夏狂乱」などを書き、演劇の近代化にも大きく貢献しました。
1906年には島村抱月らと文芸協会を開設し、新劇運動の先駆けとなりました。1913年以降にも戯曲「役の行者」「名残の星月夜」などを執筆しています。
1909年の「ハムレット」に始まり1928年の「詩編其二」に至るまで独力でシェイクスピア全作品を翻訳刊行しました。
(6)森鴎外との「没理想論争」
1891年から1892年にかけて森鴎外との間で、「早稲田文学」と「しがらみ草紙」を舞台に、有名な「没理想論争」という文学論争が繰り広げられました。逍遥の「没理想」に対して、鴎外は「理想なくして文学なし」と応酬しました。
逍遥は、「理知的な人間が、自然(事実、事象)に対してどんなに緻密な解釈をしようとしても、所詮、自然の無限性を前にしては非力で歯が立たない。だから、自分は理知に頼った解釈を控えて、自然そのままを記述することに徹したい」「事物や現象を客観的に描くべきだ」とする「没理想の写実主義」の立場です。
これに対して鴎外は、「人間が自然(事実)を観察して、そこに何らかの意味や価値を見い出すからには、自然の内部に理想(観念、本質)が潜んでいるのを捉えるからであって、この理想の存在を否定したら、自然の意味や価値もなくなってしまう」「文学においては理想や理念など主観的なものを描くべきだ」という「理想主義」の立場でした。
2.坪内逍遥の小説の代表作
(1)小説神髄(しょうせつしんずい)
彼は1885年に発表した「小説神髄」で、道徳や功利主義的な面を文学から排して、客観描写に努めるべきだと述べ、心理的写実主義を主張することで、日本の近代文学の誕生に大きく寄与しました。
(2)当世書生気質(とうせいしょせいかたぎ)
彼が大学時代に高田早苗らの友人と神保町の天ぷら屋に通った経験が、この「当世書生気質」(1885年~1886年刊行)という小説の題材になっています。
彼は「はしがき」で、この小説が「小説神髄」で示した「勧善懲悪を否定し、写実主義を主張する文学論を実践したもの」であることを明らかにしています。
明治初年の書生社会の風俗と気質を写すことを主眼とし、下宿生活・牛肉屋・楊弓店などで書生らが遊ぶ様子も描いていおり、「日本で最初の近代的写実小説」とされています。
正岡子規もこの小説を愛読したそうです。「写生俳句・写生文」を提唱した子規は、西洋絵画のスケッチにヒントを得たようですが、この小説にも刺激を受けたのかもしれません。
ただし、文体は彼が幼少期に親しんだ江戸時代の「戯作」の影響が強く、内容も上野戦争(彰義隊の戦い)で生き別れになり芸妓に身を落とした妹と兄との再会など通俗的な側面もありました。
余談ですが、この小説を読んだ医学生野口清作(後の野口英世)は、自堕落で素行の悪い人物として作中に登場する野々口精作(ののぐちせいさく)が、自分の名前とよく似ており、しかも自分と同じ医学生の設定だったため、自分がモデルではないかと誤解されるのを恐れて、自分の名前を「英世」に改名したというエピソードがあります。
実際は、この小説が出版された時、野口清作は9歳の子供で、坪内逍遥も関連性を否定しています。ただ、野口英世が恐れたのは、名前の類似性もさることながら「自堕落で素行の悪い人物」というのが自分とそっくりだったからではないでしょうか?