太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。
次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。
三好達治と言えば、私は上に掲げた「雪」を最初に思い出します。
そして、この詩の風景としては白川郷の合掌造りの萱葺の家々が似合っているのでしょうが、私はなぜか与謝蕪村の「夜色楼台図」(上の画像)を思い浮かべます。
ほかにも「甃(いし)のうへ」「乳母車」などの詩がありますが、彼はどのような人物だったのでしょうか?
彼は大阪府高槻市の本澄寺に墓がある「わが郷土の詩人」でもあります。
そこで今回は三好達治についてわかりやすくご紹介したいと思います。
1.三好達治とは
三好達治(1900年~1964年)は、大阪府出身の詩人・翻訳家・文芸評論家です。
日本語の伝統を近代に生かした独自の詩風で、「昭和期における古典派の代表的詩人」と称されました。高い格調と清新な感覚で純粋な抒情性を追求しました。
(1)生い立ちと幼少期
彼は、印刷業の父・政吉と母・タツの長男として大阪市西区西横堀町に生まれました。
小学生の頃から病弱で神経衰弱に苦しみ、学校は欠席がちでしたが、図書館に通い、高山樗牛・夏目漱石・徳富蘆花などを耽読しました。
旧制市岡中学に入学し、俳句に没頭したほか、俳句雑誌「ホトトギス」を購読しています。
しかし学費が続かず2年で中退し、大阪陸軍地方幼年学校・陸軍中央幼年学校本科で学んでいます。ここで後に「二・二六事件」の首謀者として死刑となる西田税に出会い、親友となっています。
(2)青年時代
1920年に陸軍士官学校に入学しました。しかし翌年に脱走して退校処分となりました。このころ実家が破産し、父親が失踪したため、大学までの学費は叔母に出してもらったそうです。
1922年に旧制三高に入学し、ニーチェやツルゲーネフを耽読するとともに、同級の丸山薫の影響で詩作を始めています。
三高卒業後、東京帝大文学部仏文科に入学し、梶井基次郎・中谷孝雄・外村茂の創刊した同人誌「青空」に参加しています。
(3)詩人・翻訳家・文芸評論家としての活動
1927年に梶井基次郎(1901年~1932年)の転地療養先の伊豆湯ヶ島で「日本近代詩の父」と呼ばれる萩原朔太郎(1886年~1942年)と知り合い、朔太郎の住む東京の「馬込文士村」の地に下宿し、詩誌「詩と詩論」創刊に携わっています。
彼は朔太郎の妹アイ(23歳で2度の離婚歴あり)に一目惚れして求婚しますが、大学を卒業したばかりの27歳の貧乏書生で、文士を生活無能力者とみなしていた彼女の両親の大反対にあって断念します。
そこで彼は朔太郎が「月に吠える」を再刊した版元の「アルス」に朔太郎の口利きで就職し、アイと婚約します。しかし、会社が倒産してアイとの結婚は破談となります。
絶望した彼は、シャルル・ボードレールの散文詩集「巴里の憂鬱」の全翻訳を始めました。
1930年に処女詩集「測量船」を刊行して、「画期的な昭和新詩」と評価され、抒情的な作風で人気を博しました。
1934年には堀辰雄らと、主知的抒情詩の拠点となった第二次「四季」を創刊し、戦前の詩壇を牽引しました。
十数冊の詩集のほか、詩歌の手引書として「詩を読む人のために」、随筆集「路傍の秋」「月の十日」、評論集「萩原朔太郎」などを著しています。
また、中国文学者吉川幸次郎との共著「新唐詩選」(岩波新書青版)は、半世紀を越えて絶えず重版されています。
(4)日中戦争への従軍
1936年2月26日に「二・二六事件」が起こり、陸軍士官学校時代の旧友・西田税が刑死しました。
1937年7月7日に「盧溝橋事件」が起こり、日中全面戦争に突入すると彼は10月に「改造」「文芸」の特派員として上海に渡り、1ケ月あまり従軍しています。
このころ、「列外馬」「おんたまを故山に迎ふ」を発表しています。
(5)太平洋戦争中の「戦争詩」
1941年12月8日に対米開戦すると、「十二月八日」「アメリカ太平洋艦隊は全滅せり」「九つの真珠のみ名」を発表しています。
1942年にアイが再々婚した作詞家佐藤惣之助が亡くなると、彼は妻・智恵子(佐藤春夫の姪)と離婚して、アイを妻としました。この時達治41歳、アイ37歳でした。よほど諦めきれなかったのでしょう。しかし1945年には離婚しています。
1942年に「シンガポール占領」があると「新嘉坡(シンガポール)落つ」「ジョンブル家老差配ウィンストン・チャーチル氏への私言」などを発表しています。
1943年に「山本五十六戦死」があり、「学徒出陣」が始まると「「草莽私唱」「日本の子供」「われら銃後の小國民」「ゆけ学徒」「聖なる朝」などを発表しています。
1944年に「学童疎開」が始まり、「神風特攻隊」「東京空襲」が開始されると「太平洋波濤高し」「僕らは疎開する」「神風隊てふ」などを発表しています。
1945年に「東京大空襲」が行われ「米軍の沖縄上陸」が開始されると「人みな心をあはし物みな力をあはせ」「日まはり」を発表しています。
(6)終戦直後の「天皇への退位進言」
1946年の「なつかしい日本・三」(「新潮」6月号)では、次のように昭和天皇の責任に言及しています。
この「昭和天皇は退位して責任を取るべき」だったという考え方には私も同感です。「天皇の戦争責任」については、占領軍であるGHQの判断で「天皇制存続」となったため、戦犯にもならず不問に付されましたが・・・
私は先に陛下の御責任は身自ら陸海軍の大元帥陛下として、名ありてその實のなかりし疎慢の點にかかって存することを指摘したが、陛下の御責任は精しく考へればなほ決してそれのみではない。陛下は一國の元首として、戦争中の統率にも情況の判断にも臨機の措置にも人材の選択起用にも取捨にも民情の観察にも、また戦争の切り上げ時に関しても、一向見栄えのするお手柄の拝せられなかっただけ、それだけ御責任を今日おとりになってよろしい。それが至當である。
陛下は事情のゆるすかぎり速やかに御退位になるがよろしい。
彼の墓は大阪府高槻市の本澄寺にあり、彼の甥である住職によって、境内に「三好達治記念館」が建てられています。
2.太平洋戦争中の「戦争詩」の批判・評価について
太平洋戦争が始まると、彼は日本の勝利や国家国民を賞賛称揚する「戦争詩」を精力的に作り、「捷報いたる」「寒柝」「干戈永言」といった詩集にまとめて発表しています。
フランス文学研究者で評論家の桑原武夫(1904年~1988年)は、戦後「三好達治君への手紙」という文章で、「自由をもたぬ日本人が戦争を歌ふとすれば、戦争は天変地異にほかならぬわけであり、自然詩となるのは当然である。(中略)したがって君のみならず日本の詩人は、ヴィクトル・ユーゴーのやうに、またアラゴンのやうに(「世界評論」にのった嘉納君の断片訳をみたのみだが)戦争の内へ入って、その悲惨と残忍を描きつつ、なほかつそれらがより高きものの実現のためには不可避だとし、つまりその戦ひをよしとしてこれを歌ふことはできなかった。」と評しました。
また俳人の石原八束は、「開戦当初の捷報がこの知識人一般をも狂わせたのである。三好の詩業にとってもこの詩集がその汚点となり無限の悔恨となったことは云うをまつまい」と指摘するとともに、軍隊経験のある彼が「国のために命を捧げている軍人に対してできるだけのことはしなければいけない、ということだったのではないでしょうか」と述べています。
ちなみに彼は「日本文学報国会」から委嘱されて、「決戦の秋は来れり」の作詞も手掛けています。
私は、桑原武夫の辛辣な批判よりも、石原八束の同情的な批評の方に共感します。
「君死にふことこと勿れ」という反戦詩を書いた与謝野晶子も晩年は戦争賛美の歌を詠んでいます。太平洋戦争中の高村光太郎も戦意高揚の詩を書いており、「日本文学報国会」の詩部会長を務めました。俳人の高浜虚子も「日本文学報国会」の俳句部会長を務めています。
また「長崎の鐘」「栄冠は君に輝く」や「東京オリンピック・マーチ」などで有名な作曲家の古関裕而も、戦時中は「暁に祈る」や「露営の歌」「若鷲の歌」などの「軍歌」「軍国歌謡」の人気作曲家でした。彼も戦後しばらくの間は立ち直れないほど苦悩したようです。そして終生、自分の作品で戦地に送られ戦死した人への自責の念を持ち続けていたそうです。
3.三好達治の代表作
(1)甃のうへ
あはれ花びらながれ
をみなごに花びらながれ
をみなごしめやかに語らひあゆみ
うららかの跫音〔あしおと〕空にながれ
をりふしに瞳をあげて
翳〔かげ〕りなきみ寺の春をすぎゆくなり
み寺の甍〔いらか〕みどりにうるほひ
廂〔ひさし〕々に
風鐸〔ふうたく〕のすがたしづかなれば
ひとりなる
わが身の影をあゆまする甃〔いし〕のうへ
(2)乳母車