日本古代史最大の謎と言えば、「邪馬台国」がどこにあったのか?具体的には「九州」なのか「畿内」なのかということです。ただし「四国」「出雲」「越前」などの少数説もあります。
しかし、1700年以上経った今になってもなぜ確定できないのでしょうか?これが最大のミステリーのゆえんです。
1.邪馬台国とは
「邪馬台国(やまたいこく/やまとのくに/やまい(ち)こく)」とは、中国「三国時代」の史実を記した正史「三国志」(280年~297年)の「魏志東夷伝」の倭人の条(魏志倭人伝)にみられる2世紀後半から3世紀半ば(弥生時代中期~後期)に日本列島に存在したとされる小国家です。
邪馬台国は、倭女王卑弥呼の宮室があった人口7万戸余りの女王国であり、倭国(邪馬台国)連合の都があったとされています。魏志倭人伝には、地理・風俗・産業・社会などの記述もあり、水田耕作を開始した階級社会であったことが知られています。
邪馬台国はもともと男王が治めていましたが、国の成立(1世紀中頃か2世紀初頭)から70~80年後(2世紀後半)に長期間にわたる大乱(倭国大乱)が起こりました。
卑弥呼はこの大乱で、分裂していた30ほどの小国家が共立した女王で「鬼道に事(つか)え、能(よ)く衆を惑わしていた」とあり、「シャーマン」(巫女(みこ)、呪術者)だったようです。
卑弥呼は儀式を行う役割を担って人前に姿を見せず、政治的なことは全て弟が行っていました。また生涯独身で、彼女のもとには食事を運ぶ一人の男だけが出入りしていたようです。
卑弥呼は238年と243年の2回、魏(220年~265年)に使節を派遣しています。238年の使節派遣の時に「親魏倭王」の金印を与えられていますが、これは発見されていません。
ちなみに福岡県志賀島で発見された「漢委奴国王印(かんのわのなのこくおういん)」という金印は、57年に「奴国(なこく)」が後漢の光武帝から与えられたものです。
卑弥呼は248年頃、狗奴国(くぬのくに)との戦乱の際に亡くなり、その後男王が就きましたが国中が服さなかったため、卑弥呼の一族の13歳の少女・「壹與(壱与)(いよ)」(または「臺與(台与)(たいよ)」を巫女女王として擁立し、安定を取り戻したと言われています。
壹與は266年に晋の武帝に朝貢しています。しかし3世紀末から600年の遣隋使の派遣まで、大陸との交渉記録がなく、消息不明となっています。
古くから「大和国(やまとこく)」の音訳として認知されていましたが、江戸時代に新井白石(1657年~1725年)が通詞今村英生の発音する当時の中国語に基づき音読したことから、「やまたいこく」の読み方が広まりました。
なお、「やまいこく」という読み方があるのは、現存する三国志の版本では「邪馬壹國」(新字体:邪馬壱国)と表記されているためです。これは「台」の旧字体「臺」が「壱」の旧字体「壹」に似ているため、晩唐以降の写本で誤写したのが原因のようです。
2.邪馬台国の所在地がいまだに確定できない原因
(1)魏志倭人伝の邪馬台国への「行程」の方角・距離が不正確な可能性があること
「畿内説」を取ると方角に問題が出て来ますし、「九州説」を取ると距離に問題が出て来ます。やはり、魏志倭人伝の邪馬台国への「行程」の方角・距離が不正確なため、場所が確定できないのです。
(2)日本の神話や歴史書に邪馬台国や卑弥呼が登場しないこと
中国の「魏志倭人伝」にも明記されているので邪馬台国が「実在」したことは間違いありませんが、それにぴったり対応する記載が「古事記」(712年)にも「日本書紀」(720年)にもないからです。
(3)魏が卑弥呼に与えた「親魏倭王」の金印が発見されていないこと
卑弥呼は238年の魏への使節派遣の時に「親魏倭王」の金印を与えられていますが、これが発見されていないからです。