江戸時代、江戸では生活用水(上水)をどのようにして確保していたかご存知でしょうか?
京や大坂などでは、「地下水」汲み上げる井戸を使って上水を確保していました。京都では明治時代になって「琵琶湖疎水」が作られて、京都に豊富な上水を供給できるようになり、現在も京都市民はその恩恵を受けています。
1.江戸の上水道
しかし江戸は、江戸城付近を除いて大半が「江戸湾の埋め立て地」であるため、地下水を汲み上げても塩分の多い「海水」で飲用には適しませんでした。
江戸の上水の歴史は1590年、徳川家康の江戸入府時に開設された「小石川上水」が起源とされ、後に「神田上水」へと発展しました。
「神田上水」など初期に作られた水道の給水可能範囲は駿河台下、大手町、神田など江戸初期に作られた町に限られていました。人口増加に伴い、江戸の町が拡張すると、給水能力が限界を迎えました。そのため新たな水源を求め、上水道整備が計画されたのです。
この計画を実現するためには大規模な「上水道施設」を作る必要がありました。
2.玉川上水
そこで、玉川から水を引いてくる大規模な「玉川上水」の土木工事が行われたのです。
3.驚くべき先進的な土木技術は誰が担ったのか?
江戸の人口は、約100~125万人と推定されており、当時、世界一の大都市でした。当時のロンドンの人口は約86万人(1801年)、パリが約67万人(1802年)です。
江戸は、人口において「世界一の大都市」だっただけでなく、「玉川上水」のおかげで「世界一の水道都市」となったわけですが、この驚くべき先進的な土木技術は誰が担ったのでしょうか?
(1)玉川兄弟
一般には、玉川兄弟が重要な役割を担ったと言われています。玉川上水の建設に大きな功績のあった「 玉川兄弟」 を永く称えるため、1958年に、ゆかりの地である羽村取水堰付近に像(上の画像)まで建てられています。
玉川兄弟(たまがわきょうだい)とは、兄の庄右衛門(しょうえもん)(1622年? ~1695年)と弟の清右衛門(せいえもん)(?~ 1696年)のことで、多摩川沿いの地域の農家であったとの説が有力です。1653年から54年にかけて玉川上水の開削の指揮をとったことで知られています。
上水工事は2度失敗していて、1回目は日野を取水口としたとき、地面に水が吸い込まれてしまう「水喰土(みずくらいど(水を吸う=水をくらう):浸透性の高い関東ローム層)」、2回目は福生を取水口としたとき、工事の途中岩盤に当たってしまったことであり、水喰土の失敗跡は今でも残されています。
1653年から羽村(はむら)を取水口として工事が行われ、1654年までに開通しました。これにより兄弟は「玉川」の姓を名乗ることが許され、上水の管理も玉川家の世襲とされましたが、1739年に職を剥奪されています。兄弟の墓所は台東区の聖徳寺にあります。
東京都羽村市を流れる多摩川にある羽村取水堰は、「投げ渡し堰」(上の画像)と呼ばれる可動堰と固定堰の2つを組み合わせた堰で、投げ渡し堰の部分を見ると、支柱の間に丸太を渡して、水をせき止めていることがわかります。投げ渡し堰は玉川が増水した際、濁流が玉川上水に流れ込むのを防ぐために役立ちます。増水時はこの丸太を外し、水を逃がすことで、取水堰の決壊を防ぎます。ちなみにこの「沈下橋」のような「投げ渡し堰」の仕組みは、現在も玉川上水で用いられています。
羽村取水堰の水門から先は玉川上水です。玉川上水は江戸に水を引くために作られた人工の水路で、羽村取水堰から四谷大木戸までその距離43㎞もあります。
(2)「利根川東遷事業」を担当した伊奈忠治
徳川家康とその側近は、江戸入府後に湿地帯となっていた江戸の町周辺の治水事業に乗り出しました。利根川は武蔵国北部では細かく乱流し、綾瀬川や荒川とも合・分流していて、洪水ごとに流路を変える「暴れ川」だったのです。そこで考えだした大規模工事が「利根川東遷事業」です。江戸湾に流れ込んでいた利根川を、太平洋側の銚子に河口を変更する流路変更事業です。
文禄元年(1592年)、徳川家康の命で、忍城主・松平忠吉(まつだいらただよし=徳川秀忠の弟)が、会の川の締め切り工事を始めます。
工事(利根川東遷第一期工事)以前の利根川はこの地点で2つに分かれ、川の主流は南に(加須市志多見、加須市、騎西町、久喜市、白岡町を流れ蓮田市笹山で元荒川へ合流=現在の会の川)、もう一方の日川(一部は古川落、新川用水・騎西領用水、日川水路として現存)は東に流れていました。忍城主松平忠吉は家老・小笠原三郎左衛門に命じて、南に流れる川の主流を締め切り、利根川の流路を変えたのです。
新郷に堤を築いて会の川筋を締切り、文禄3年(1594年)に利根川本流を東流させたと伝えられています。
あまりに大規模な工事、そして『新編武蔵風土記稿』に「水勢はげしかりしに」と記される激流をさえぎる難工事だったため、旅の行者が人身御供として入水したという伝説も残されています。
この工事で重要な役割を担ったのが伊奈忠治で、彼の技術が「玉川上水」工事にも生かされたのではないかと言われています。
承応2年(1653年)2月13日、利根川の東遷など江戸の治水事業に多く携わった伊奈忠治(いなただはる)(1592年~1653年)が「玉川上水道奉行」に命ぜられます。
そして工事を請け負った庄右衛門、清右衛門の2人による玉川上水開削は同年4月に始まりました。
ただし伊奈忠治は同年7月21に亡くなっています。一部小説では玉川上水工事の二度の失敗の責任を取り切腹したことになっていますが、切腹はフィクションです。
伊奈忠治は父、兄の仕事を引き継いで関八州の治水工事、新田開発、河川改修を行い、荒川開削、江戸川開削などに携わりました。江戸初期における利根川東遷事業の多くが忠治の業績であり、鬼怒川と小貝川の分流工事や下総国、常陸国一帯の堤防工事などを担当しました。
なお、この業績を称えて忠治を祀った伊奈神社が、福岡堰(現在の茨城県つくばみらい市北山)の北東、つくば市真瀬にあります。また、合併してつくばみらい市となった旧筑波郡伊奈町の町名は忠治に由来します。父の忠次も埼玉県北足立郡伊奈町の町名の由来となっており、親子2代で地名の由来となった珍しい例です。
前に「江戸時代の日本は理想的な循環型社会だった」「江戸時代のトイレ事情」という記事を書きましたが、優れた治水・土木技術による玉川上水という「上水道事業」も世界に誇るべきものです。
3.(蛇足)玉川と多摩川の違いは?
「玉川」と「多摩川」は実は同じ川です。
人々から「たまがわ」と呼ばれてきた河川の名に、かつて「多摩川」「玉川」など複数の表記方法があり、そのうち「多摩川」が河川の正式名として採用されました。
山・川・島などの自然地名の表記は、明治以降に国が統一を図っており、現在は国土地理院の地形図に採用されている名称が正式名として扱われます。 これによる河川名が「多摩川」です。
しかし、「多摩川」と統一される前から「玉川」の表記は各所で使われていたことから、それが河川の正式名以外では現在も使われています。 「玉川上水」もその一例だといえます。
今の東京都世田谷区には、川にちなんで玉川村と名づけられた地域があり、これが現在も玉川地区と総称され、「玉川」「玉堤」という表記が町名として使われています。 東急線の「二子玉川(ふたこたまがわ)」という駅は、旧玉川村にある駅です。 東急の旧・玉川線や旧・新玉川線は「玉川」という地名を意識し、現在の多摩川線は河川としての「多摩川」を意識しています。