「青天を衝け」の主人公渋沢栄一とは?「ノーベル平和賞候補」にもなった!?

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渋沢栄一

2021年2月14日からいよいよ始まったNHK大河ドラマ「青天を衝け」の主人公渋沢栄一とはどんな人物だったのでしょうか?

2024年度からの「新一万円札の表面(おもてめん)の図柄」(新一万円札の顔)に選ばれていますが、まだまだ馴染みが薄いのではないでしょうか?

そこで今回は渋沢栄一の人物像と生涯についてわかりやすくご紹介したいと思います。

1.渋沢栄一とは

渋沢栄一・家系図

渋沢栄一(しぶさわえいいち)(1840年~1931年)は、幕末期から昭和初期までの長きにわたって活躍した実業家です。農民から武士に取り立てられ、一橋慶喜の家臣から幕臣となり、明治維新後は官僚を経て実業家となって多方面に活躍し、91歳の長寿を全うしました。

日本資本主義の父」と呼ばれています。号は「青淵」です。

(1)生い立ちと幼少期(1840年~1860年)

彼は1840年に武蔵国榛沢郡血洗島(ちあらいじま)村(現在の埼玉県深谷市)に、父・渋沢市郎右衛門元助、母エイの長男として生まれました。

渋沢家は「藍玉(あいだま)」の製造販売と、「養蚕(ようさん)」を兼営し、米・麦・野菜の生産も手掛ける富農(「名主」身分)でした。

原料の買い入れから製造・販売までを担う」ため、常に「算盤をはじく商業的な才覚」が求められました。

彼も父とともに信州や上州まで製品の藍玉を売り歩くほか、原料の藍葉の仕入れ・調達にも携わりました。

14歳の頃からは、単身で藍葉の仕入れに出かけるようになり、この経験がヨーロッパ視察時に、近代的な経済システム・諸制度を理解吸収する素地となり、また後の「現実的な合理主義思想につながったとも言われています。

一方、教育面では5歳の頃より父から漢籍の手ほどきを受け、7歳の時には従兄の尾高惇忠(おだかあつただ)(1830年~1901年)(下の画像)のもとに通って、論語・四書五経・日本外史を学んでいます。剣術は元川越藩剣術指南の大川平兵衛から「神道無念流」を学んでいます。

1858年18歳の時、尾高惇忠の妹で従妹にあたる尾高千代と結婚しています。

尾高惇忠

(*)尾高惇忠(上の画像)とは

尾高惇忠は、後に実業家となり、富岡製糸場の初代場長や第一国立銀行仙台支店支配人などを務めました。

なお、渋沢家と尾高家の人々の関係については、NHKの大河ドラマ「青天を衝け」の配役をカッコ書きした「渋沢一族家系図・相関図」(下の画像)を見た方がよくわかると思います。

渋沢栄一と尾高家の相関図・大河ドラマの配役

(2)尊王攘夷派の志士から一橋慶喜の家臣となる(1861年~1866年)

1861年には江戸に出て、儒学者の海保漁村(かいほぎょそん)(1798年~1866年)の門下生となっています。

また北辰一刀流の千葉栄次郎の「お玉が池千葉道場」に入門し、剣術修行の傍ら、勤皇志士と交友を結んでいます。

その影響で「尊王攘夷思想に目覚め、1863年に従兄で義兄の尾高惇忠や同じく従兄の渋沢喜作(しぶさわきさく)(1838年~1912年)(下の画像)らと「高崎城を乗っ取って武器を奪い、横浜外国人居留地を焼き打ちした後、長州と連携して幕府を倒すという計画」を立てましたが、尾高惇忠の弟・長七郎の懸命の説得により中止しました。

渋沢喜作

(*)渋沢喜作(上の画像)とは

渋沢喜作は後に徳川慶喜の奥祐筆、彰義隊頭取等で活躍し、旧幕府軍として函館五稜郭まで抗戦し、新政府軍に投獄されましたが、出所後渋沢栄一の推挙で大蔵省に出仕し、退官後は渋沢栄一の援助で渋沢商店を創立し、回米問屋や生糸問屋を経営したほか深川正米市場を設立して頭取となり、東京商品取引所理事長にも就任しました。

親族に累が及ばないよう「父から勘当を受けた」形にして、従弟の渋沢喜作とともに京都へ出奔しました。

しかし「八月十八日の政変(1863年9月)」(*)直後であったため、勤皇派が凋落した京都での志士活動に行き詰まり、江戸遊学の頃から交際のあった一橋家家臣・平岡円四郎(1822年~1864年)の推挙により一橋慶喜に仕えることになりました。

(*)八月十八日の政変とは

「孝明天皇・中川宮朝彦親王・会津藩・薩摩藩など幕府への攘夷委任を支持する勢力」が、「攘夷親征(過激派主導の攘夷戦争)を企てる三条実美ら急進的な尊攘派公家とその背後の長州藩」を朝廷から排除した「カウンタークーデター」です。

当時慶喜は「朝議参与」として京都に常駐していました。彼の仕官後に慶喜が朝廷から「禁裏守衛総督」を拝命しましたが、御三卿は自前の兵力を持っていなかったため、兵力調達が急務となり、彼が一橋家領内を巡回して「農兵の募集で手腕を発揮しました。

(3)幕臣となりヨーロッパへ留学する(1867年~1868年)

1866年12月に慶喜が将軍になったことに伴って、彼は「幕臣」となりました。

パリで行われる万国博覧会(1867年)に将軍の名代として出席する慶喜の異母弟・徳川昭武(後の水戸徳川家11代当主)の随員として、「御勘定格陸軍付調役」の肩書でフランスへ渡航しました。

彼はパリ万博を視察したほか、昭武に随行してヨーロッパ各地で先進的な産業・諸制度を見聞するとともに、近代社会のありさまに感銘を受けました。

昭武はパリに留学する予定でしたが1868年の「大政奉還」に伴い、新政府から帰国を命じられ、彼もともに帰国しました。

(4)静岡藩、民部省・大蔵省に勤める(1869年~1872年)

帰国後は、静岡で謹慎していた慶喜と面会し、「これからはお前の道を行け」と言われましたが、旧恩に報いるため静岡にとどまって「静岡藩」に出仕しました。

静岡ではフランスで学んだ「株式会社制度」を実践し、新政府からの借入金返済のために1869年1月には「商法会所」を設立しました。

静岡での彼の活躍を聞いた大隈重信(1838年~1922年)は、新政府に出仕するよう彼を熱心に説得した結果、1869年11月には新政府に出仕し、「民部省改正掛」(当時、民部省と大蔵省は事実上統合されていました)を率いて「改革案の企画立案」を行ったり、「度量衡の制定」や「国立銀行条例の制定」に携わりました。

1872年には「紙幣寮頭」に就任し、ドイツで印刷された「明治通宝」(通称「ゲルマン紙幣」)を取り扱いましたが、偽札事件の発生も少なくありませんでした。

その後予算編成をめぐって大久保利通(1830年~1878年)や大隈重信と対立し、大蔵大輔の井上馨(1836年~1915年)と共同で「財政改革建議書」を出して、1873年に井上馨とともに大蔵省を退官しました。

この間、旧幕府軍として戦って投獄されていた従兄の渋沢喜作の出獄を引き受け、大蔵省への仕官を世話したり、養蚕製糸事業調査の名目でヨーロッパ視察に送り出しています。

また、同じく戊辰戦争を幕府軍として戦った従兄の尾高惇忠には「富岡製糸場」の初代場長として事業を託しています。

(5)実業家となり銀行・事業会社・経済団体設立や教育・国際交流など多方面に活躍する(1873年~1908年)

①銀行

大蔵省を辞職した彼は、1873年に自ら設立を指導した「第一国立銀行」(後の第一銀行、第一勧業銀行、現在のみずほ銀行)の「総監役」に就任し、大株主の三井組(三井財閥のもと)・小野組(江戸時代の豪商)の「頭取」2名の上に立って、日本最初の銀行の創業を担いました。

1874年に二大株主の一つ小野組が破綻し、新銀行は経営危機に陥りましたが、彼は被害を最小限に食い止め、三井組による銀行経営の独占を退けました。

そして自ら単独の「頭取」となり、「公益に資する民間取引を軸に据えた銀行」の路線を確立し、「財閥の機関銀行」的な運営とは一線を画し、新興の商工業者の創業指導や資金支援を積極的に展開しました。

また全国に設立された多くの国立銀行の指導・支援を第一国立銀行を通じて行いました。

1892年に小口の貯蓄を集める「貯蓄銀行」制度ができると、彼や第一銀行役員の出資により、「東京貯蓄銀行」(後の協和銀行、現在のりそな銀行)を設立し、取締役会長を務めました。

郷里の埼玉では、1894年に「熊谷銀行」(後の武州銀行、埼玉銀行、現在の埼玉りそな銀行)の設立発起人となり、1899年設立の「黒須銀行」(後の武州銀行、埼玉銀行、現在の埼玉りそな銀行)では顧問役を引き受けています。

「半官半民の特殊銀行」が設立されるようになると、1896年「日本勧業銀行」(後の第一勧業銀行、現在のみずほ銀行)、1900年「日本興業銀行」(現在のみずほ銀行)、「北海道拓殖銀行」のいずれにおいても「設立委員」として開業を指導しました。

②事業会社

1873年には、大蔵省在職時から計画を練っていた抄紙会社(現在の王子ホールディングス、日本製紙)の設立認可を得て経営を始めました。

同年、東京府の「瓦斯掛」(現在の東京ガス委員となってガス事業を計画しました。

その後も「石川島平野造船所」(現在のIHI、いすゞ自動車、立飛ホールディングス)、「秀英舎」(現在の大日本印刷)、「中外物価新報」(現在の日本経済新聞)、「東京海上保険会社」(現在の東京海上ホールディングス)、「日本鉄道会社」(現在の東日本旅客鉄道)、「共同運輸会社」(現在の日本郵船)、「東京電灯会社」(現在の東京電力ホールディングス)、大阪紡績会社(現在の東洋紡)、「浅野セメント工場」(現在の太平洋セメント)、「ジャパンブリュワリー」(現在のキリンホールディングス)、「清水組」(現在の清水建設)、「東京人造肥料会社」(現在の日産化学)、「東京製網会社」(現在の東京製網)、「東京ホテル」(現在の帝国ホテル)、「札幌麦酒会社」(現在のサッポロホールディングス、アサヒグループホールディングス)、「日本土木会社」(現在の大成建設)、「足尾鉱山組合」(現在の古河機械金属、古河電気工業、富士通、富士電機、横浜ゴム)、「東洋経済新報社」、「日本精糖」(現在の大日本明治製糖)、「汽車製造」(現在の川崎重工業)、「浦賀船渠」(現在の住友重機械工業)、「東京建物」、「澁澤倉庫部」(現在の澁澤倉庫)、「京阪電気鉄道」(現在の京阪ホールディングス)、「帝国劇場会社」(現在の東宝、東京会館)等、現在も有名な大企業を含む500以上の会社の設立や経営に関与しました。

③経済団体

1877年には「択善会」(現在の東京銀行協会)を組織して、銀行経営者の連携により、政府に対して各種の提言を実施しました。

このほか、「東京商法会議所」(現在の東京商工会議所)、「東京株式取引所」も設立しています。

④福祉・医療

1874年から、生活困窮者救済事業である「養育院」(現在の東京都健康長寿医療センター)の運営に携わり、後に事務長、院長となっています。

1877年に佐野常民が西南戦争の傷病兵を敵味方無く救護する目的で設立した「博愛社」(後の日本赤十字社)の運営や、1884年に高松凌雲が生活困窮者に無料で診療・治療を行う目的で設立した「同愛社」の運営にも携わっています。

1907年には「東京慈恵医院」(現在の東京慈恵会)の相談役・委員長となり、財団化に尽力しました。1908年には「癌研究会」(現在のがん研究会)の設立にも尽力しています。

⑤教育

1875年、当時は実学教育に関する意識がまだ低く、実学教育を実施する機関がなかったことから、彼は森有礼とともに、「商法講習所」(後の東京商科大学、現在の一橋大学)を設立しました。また1900年には大倉喜八郎の「大倉商業学校」(現在の東京経済大学)に設立委員として協力しました。

男尊女卑の風が強い当時にあっても、「女子への高等教育の必要性」を唱え、1887年に伊藤博文勝海舟らとともに、「女子教育奨励会」を設立し、これを母体として「東京女学館」を設立しました。1901年の「日本女子大学」の創立も支援しました。

そのほか、私学設立・運営への協力にも積極的で、1888年の新島襄の「同志社」設立の基金の募集や管理に尽力し、1908年の「東京専門学校」(現在の早稲田大学)の事業拡張計画に際しても、基金管理委員長として協力しています。

⑥国際交流・民間外交

1879年アメリカ前大統領グラント夫妻の訪日に際して、東京商法会議所・東京府会に働きかけ、「接待委員会」を組織し、福地源一郎と共同で接待委員総代を務め、歓迎行事を準備しました。飛鳥山の自邸(迎賓接待用の別邸)でも、歓迎会を実施しました。

1893年には海外からの賓客に対応するための組織として「貴賓会」を設立し、幹事長となりました。

1902年にはアメリカ・ヨーロッパ各地を視察し、各地の商工会議所メンバーと交流したほか、セオドア・ルーズベルト大統領とも会談しています。

(6)実業界引退後も民間外交や教育・福祉など多方面の活動を行う(1909年~1931年)

1909年、数え七十歳の古稀で実業界引退を表明しました。しかし実業界引退後も民間外交や教育・福祉など多方面の活動を行いました。

1924年には「日仏会館」を発足させ、1927年には「日本国際児童親善会」を設立し、アメリカの人形(青い目の人形)と日本人形(市松人形)を交換し、親善交流を深めることに尽力しました。

彼は1926年と1927年の「ノーベル平和賞」の候補にもなっています。候補となった理由は、「カリフォルニアでの日本人労働者の法的地位に関する日米関係の改善に取り組んだこと」です。

1917年には自然科学の研究機関「理化学研究所」の設立者総代となっています。1918年には旧主(慶喜)の事績を正確に後世に伝えたいとの思いから「徳川慶喜公傳」を著しています。

1918年には「田園都市株式会社」(現在の東急電鉄)の設立発起人となり、都市近郊の住宅開発の事業化を後援しています。

1923年の「関東大震災」に際しては、政府・東京市に臨時対応を献策しつつ、自ら被災者に供給するための食糧を自費で近県から取り寄せ、配給を行いました。

2.渋沢栄一の思想

彼は「士魂商才」(武士としての崇高な精神と商人としての才能とを併せ持っていること)、「義利両全」(正義と利益を両立させること)の言葉とともに、「道徳経済合一説」(道徳と経済の両立)を提唱しました。「論語と算盤」という著書に彼の思想がよく現れています。

人間の世の中に立つには、武士的精神の必要であることは無論であるが、しかし、武士的精神のみに偏して商才というものがなければ、経済の上から自滅を招くようになる。ゆえに士魂にして商才がなければならぬ。

「論語と算盤」(角川ソフィア文庫)

世の中を渡っていくのは、とても難しいことだが、「論語」をよく読んで味わうようにすれば、大きなヒントも得られる。だから私は普段から孔子の教えを尊敬し、信ずると同時に、「論語」を社会に生きていくための絶対の教えとして常に自分の傍から離したことはない。

正しい道理の富でなければ、その富は完全に永続することができぬ。ここにおいて論語と算盤という懸け離れたものを一致せしめることが、今日の緊要の務めと自分は考えているのである。

『現代語訳 論語と算盤』(渋沢栄一 現代語訳:守屋淳 ちくま新書)

アメリカの経営学者P・F・ドラッカーは、彼を次のように評しています。

私は、経営の『社会的責任』について論じた歴史的人物の中で、かの偉大な人物の一人である渋沢栄一の右に出るものを知らない。彼は世界のだれよりも早く、経営の本質は“責任”にほかならないということを見抜いていた。

                  『マネジメント』(ダイヤモンド社)

3.渋沢栄一の子孫

彼には生涯で2人の妻がいました。というのは先妻の千代(1841年~1882年)がコレラで若死にしたからです。千代は歌子・琴子・篤二の3人の子供を産みました。

歌子の夫は法学博士・穂積陳重です。琴子の夫は龍門社(現在の渋沢栄一財団)理事長や大蔵大臣を務めた坂谷芳郎です。篤二は澁澤倉庫や第一銀行に勤務しましたが、女癖の悪さを咎められ「廃嫡」となっています。

余談ですが、篤二の息子(栄一の孫)の敬三はとても優秀な人で、第一銀行取締役、日銀総裁、大蔵大臣を歴任したほか、経営に関わった企業は300社以上に上ったそうです。

後妻の兼子(1852年~1934年)は武之助・正雄・愛子・秀雄の4人の子供を産んでいます。

武之助は石川飛行機製作所の二代目社長です。正雄は石川飛行機製作所の初代社長です。愛子の夫は澁澤倉庫会長、第一銀行頭取、龍門社理事長を務めた明石照男です。秀雄は田園都市株式会社で土地開発に従事した後、東京宝塚劇場、東宝会長などを務めました。

これだけでも7人の「子沢山」ですが、彼には愛人が多数いたため、庶子を含めると20人以上も子供がいるとも言われています。

ところで、「プラチナ世代」の女子プロゴルファー・澁澤莉絵留(しぶさわりえる)(20歳)も、渋沢栄一の子孫だそうです。これからの活躍が楽しみです。

ちなみに彼女の名前「莉絵留」は大変珍しいですが、これはお母さんが考えたもので、

「悟得る(の意味)で『りえる』。常に何事にも落ち着いた心でいられるように。画数の関係でこの漢字になってしまったが、平仮名にするか迷った」そうです。

澁澤莉絵留

現代語訳 論語と算盤 (ちくま新書 827) [ 渋沢 栄一 ]


漫画版 論語と算盤 [ 近藤 たかし ]

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