朝ドラ「虎に翼」のモデル三淵嘉子とは?日本初の女性弁護士で、裁判官として「原爆投下は国際法違反」と明言!

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三淵嘉子

2024年度前期放送のNHK「連続テレビ小説」(朝ドラ)は、吉田恵里香作、伊藤沙莉主演で、日本史上初めて法曹の世界に飛び込んだ、一人の女性の実話に基づくオリジナルストーリーの「虎に翼」です。主題歌は米津玄師 の「さよーならまたいつか!」、ナレーションは尾野真千子です。

モデルは、日本初の女性弁護士となり裁判官にもなった三淵嘉子ですが、一般にはあまり知られていない女性です。

そこで今回は、三淵嘉子とはどんな人物でどのような生涯を送ったのかをわかりやすくご紹介したいと思います。

1.三淵嘉子とは

三淵 嘉子(みぶち よしこ)(1914年~1984年)は、日本初の女性弁護士の1人であり、日本初の女性判事および家庭裁判所長です

2.三淵嘉子の生涯と人物像

(1)生涯

台湾銀行勤務の武藤貞雄(1886年~1947年)とノブ(1892年~1947年)の長女として、シンガポールにて生まれました。シンガポールの漢字表記のひとつである「新嘉坡」から「嘉子」と名付けられました。

東京府青山師範学校附属小学校を経て東京女子高等師範学校附属高等女学校を卒業した際に、進歩的な考えを持つ父に影響を受け法律を学ぶことを決意し、当時女子に唯一法学の門戸を開いていた明治大学専門部女子部法科に入学しました。

1935年、明治大学法学部に入学。1938年に高等試験司法科試験に合格し、明治大学を卒業。1940年に第二東京弁護士会に弁護士登録をしたことで明治大学同窓の中田正子、久米愛と共に日本初の女性弁護士となりました。

1941年に武藤家の書生をしていた和田芳夫と結婚しましたが、和田が召集先の中国で発病、1946年に帰国後長崎の陸軍病院で戦病死します

1945年に長男や戦死した弟の妻子とともに福島県坂下町へ疎開ののち、両親の住む川崎市に移り住みました。

1947年、裁判官採用願いを司法省に提出。司法省民事局局付を経て最高裁判所発足に伴い最高裁民事局局付、家庭局創設に伴い初代の家庭局局付に就任しました

1949年6月4日に初の女性判事補となった石渡満子に次いで、同月28日に東京地裁判事補となりました

1952年、名古屋地方裁判所で初の女性判事となりました。1956年、裁判官の三淵乾太郎(初代最高裁長官だった三淵忠彦の子)と再婚し、三淵姓となりました。

1956年、東京地裁判事となり、広島と長崎の被爆者が原爆の責任を訴えた「原爆裁判」(*)を担当(裁判長古関敏正、三淵、高桑昭)します。

(*)「原爆裁判」の概要

1955年(昭和30年)年4月、広島の下田隆一氏等3名が国を相手として、東京地裁に損害賠償とアメリカの原爆投下を国際法違反とすることを求めて訴訟を提起しました。東京地裁は、1963年(昭和38年)12月7日、「広島、長崎両市に対する原子爆弾による爆撃は、無防守都市に対する無差別爆撃として、当時の国際法から見て、違法な戦闘行為であると解するのが相当である。」、「原子爆弾のもたらす苦痛は、毒、毒ガス以上のものといっても過言ではなく、このような残虐な爆弾を投下した行為は、不必要な苦痛を与えてはならないという戦争法の基本原則に違反しているということができよう。」、「国家は自らの権限と責任において開始した戦争により、多くの人々を死に導き、障害を負わせ、不安な生活に追い込んだのである。しかもその被害の甚大なことは、とうてい一般戦災者の比ではない。被告がこれに鑑み十分な救済策を執るべきことは、多言を要しないであろう。それは立法府及び内閣の責務である。本訴訟をみるにつけ、政治の貧困を嘆かずにはおられない」とし、米軍の広島・長崎への原爆投下は、国際法に違反すると判決しました。

1963年12月7日、判決は請求棄却としましたが日本の裁判所で初めて「原爆投下は国際法違反」(*)と明言しました。

(*)私も原爆投下は国際法違反の戦争犯罪だと思います。また近衛文麿の早期和平を促す建言(1945年2月14日の「近衛上奏文」)を退けて原爆投下まで日本の降伏を遅らせた昭和天皇の戦争責任も重いと考えます。

これについては、「広島と長崎への原爆投下は国際法違反ではないか?その戦争責任は?」「原爆を平和にすり替えたGHQのWGIPは日本人洗脳プログラム!」「昭和天皇は終戦後、現人神をやめ人間宣言。戦争責任は無答責で退位もせず」の記事に詳しく書いていますので、ぜひご覧ください。

1963年より1972年まで東京家庭裁判所判事。少年部で計5,000人超の少年少女の審判を担当しました。

1972年、新潟家庭裁判所長に任命され、女性として初の家庭裁判所長となりました。1973年11月に浦和地裁の所長となり、1978年1月からは横浜地裁の所長を務め、1979年に退官しました

1980年に再び弁護士となり、その後は日本婦人法律家協会の会長や労働省男女平等問題専門家会議の座長を務めました。

1984年5月28日、骨肉腫のため69歳で死去しました。

(2)人物像・エピソード

・東京地裁判事時代、三淵が審理を担当していた民事事件の当事者が、法廷外の廊下で三淵に切り付けるという出来事がありました。三淵に怪我はなかったものの、「女性判事による審理の不手際から刃傷沙汰が起きたのだと世間から無根拠に言われるのではないかと思うと情けない」と吐露しました。

・新潟家裁時代も、所長をしながら自ら少年事件の審判を担当しています。当時立ち会った調査官によれば、三淵の心のこもった「説諭」が感動的だったということです。事件を起こした少年も付き添いの保護者も、三淵の語りかける言葉に涙を流したそうです。

(3)家族

父:武藤貞雄(1886年~1947年)  実業家。香川県丸亀市出身。代々丸亀藩の御側医を務めた宮武家の二男として生まれ、妻ノブの伯父で丸亀の市会議員・武藤直言の養子となりました。

一高、東京帝国大学法科大学政治科卒業後、1913年より台湾銀行シンガポール支店勤務、同行ニューヨーク支店長、同東京支店支配人を経て、台湾銀行の融資により設立された南洋鉱業公司に1925年に転じ、同社理事兼総支配人、石原産業海運顧問を務め、自身でも昭和興業合資会社を興し代表となり、その後北海鉱業、日本防災工業、昭和金属、昭和化工の社長などを務めました。

嘉子の良き理解者であり、女性が職業を持ち自立することを考えており、嘉子に「医者や弁護士などを目指すのはどうか」と提案しました。なお台湾銀行の頭取(1913年-1925年)を務めた中川小十郎とは一高、帝大政治科の同窓生。

母:武藤ノブ(1892年~1947年) 広島県出身ですが、幼い頃に父の宇野伝二郎を亡くし、香川県丸亀市で金貸し業と貸家業を営む裕福な伯父・武藤直言・駒子夫婦のもとで育ちました。

嘉子が法律家を目指す決意をした際は、「法律等を勉強しては嫁の貰い手が無くなる」と泣きながら猛反対したということです。

弟:武藤一郎(1916年~1944年) 横浜高等商業学校卒業後日立製作所に入社しましたが出征し、1944年乗船していた富山丸が米軍の魚雷で沈没し、妻子を残して早世しました。

弟:武藤輝彦(1921年2002年) 東京帝国大学文学部美学科卒業後、昭和化工重役を経て日本煙火協会専務理事となりました。

弟:武藤晟造(1923年~?)は、医師です。

弟:武藤泰夫(1928年~?)は林野庁職員。2018年以後に死去

最初の夫:和田芳夫(?~1946年)は 武藤家の元書生で、三淵嘉子の父 武藤貞雄の丸亀中学時代の親友の甥です。丸亀中学校卒業後、勤労学生として明治大学夜間部で学び、東洋モスリンに就職、嘉子に見そめられて1941年結婚しました。しかし1945年に出征し、1946年長崎で戦病死しました。

最初の夫の長男:和田芳武(1943年~2021年)は寄生虫研究者です。東京大学伝染病研究所寄生虫研究部で佐々学に師事し、1974年より東京女子医科大学寄生虫学教室で研究を続けました

二度目の夫:三淵乾太郎(1906年~1985年)は判事で、初代最高裁判所長官・三淵忠彦の長男です。前妻との間に四児。実弟に千代田生命保険社長の萱野章次郎、大東京火災海上保険常務の三淵震三郎、縁戚には反町茂作、石渡敏一、石渡荘太郎、白仁武ら政財界の大物が名を連ねています。