ホトトギス派の俳人(その6)水原秋桜子:明朗で叙情的な句風で新興俳句運動の先駆

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水原秋桜子

「ホトトギス派」の俳人と言えば、高浜虚子が代表格ですが、大正期には渡辺水巴(すいは)、村上鬼城(きじょう)、飯田蛇笏(だこつ)、前田普羅(ふら)、原石鼎(せきてい)が輩出しました。

昭和に入ると、山口誓子(せいし)・水原秋桜子(しゅうおうし)・阿波野青畝(あわのせいほ)・高野素十(たかのすじゅう)・山口青邨(せいそん)・富安風生(とみやすふうせい)を擁し、花鳥諷詠・写生俳句を提唱して『ホトトギス』の全盛期を形成しました。

特に山口誓子・水原秋桜子・阿波野青畝・高野素十は、「ホトトギスの四S」と称されます。

さらに中村草田男(くさたお)、川端茅舎(ぼうしゃ)、星野立子(たつこ)、中村汀女(ていじょ)ら新人を加えて、新興俳句の勃興にも伝統を堅持して揺るがず、俳壇の王座に君臨しました。

1951年、虚子は長男・高浜年尾(としお)に『ホトトギス』を継承させ、年尾没後の1979年からは年尾の二女・稲畑汀子(いなはたていこ)が受け継ぎました。

2013年(平成25)汀子の長男・稲畑廣太郎(こうたろう)が主宰を継承し、明治・大正・昭和・平成・令和の五代にわたる最古の俳誌としての歴史を誇っています。

そこで今回から、ホトトギス派の有名な俳人を(既に記事を書いている人を除いて)順番に詳しくご紹介したいと思います。

1.水原秋桜子とは

水原秋桜子(旧字表記:水原秋櫻子、みずはら しゅうおうし)(1892年~1981年)は、東京都出身のホトトギス派の俳人(後に離脱)で医師(医学博士)でもあります。本名は水原豊(みずはら ゆたか)。

松根東洋城、ついで高浜虚子に師事。短歌に学んだ明朗で叙情的な句風「ホトトギス」に新風を吹き込みましたが、「客観写生」の理念に飽き足らなくなり同誌を離反、俳壇に反ホトトギスを旗印とする「新興俳句運動」が起こるきっかけを作りました。「馬酔木(あしび)」主宰。別号に喜雨亭。

はじめ窪田空穂に師事、短歌で独自の叙情性を育てましたが、のちに俳句へ転じました。高浜虚子から指導を受け、昭和初期の「ホトトギス」を彩る四S(しいえす)の一人として活躍しました。

従来の俳句に短歌的表現を取り入れるなど、新鮮な句作を行りました。しかし、虚子流の客観写生とは合わず、俳句誌「馬酔木」を主宰、叙情の回復を図りました。

これに呼応して「新興俳句運動」が起き、無季俳句容認の道を開きましたが、秋桜子自身は無季俳句には批判的でした。

2.水原秋桜子の生涯

水原秋桜子は、東京市神田区猿楽町(現・東京都千代田区神田猿楽町)に代々産婦人科を経営する病院の家庭に生まれました。父・漸、母・治子の長男。

獨逸学協会学校(現在の獨協中学校・高等学校)、第一高等学校を経て1914年に東京帝国大学医学部へ入学し、血清化学研究室を経て1918年同医学部を卒業しました。

1919年、吉田しづと結婚。1928年に昭和医学専門学校(現・昭和大学)の初代産婦人科学教授となり、講義では産科学を担当、1941年まで務めました。また家業の病院も継ぎ、宮内省侍医寮御用係として多くの皇族の子供を取り上げました

1918年、高浜虚子の『進むべき俳句の道』を読んで俳句に興味を持ち、「ホトトギス」を購読。1919年、血清化学教室の先輩に誘われ、医学部出身者からなる「木の芽会」参加、静華の号で俳句を作りました。

同会に「渋柿」の関係者が多かったことから、「渋柿」に投句し松根東洋城に師事。ついで高浜虚子の「ホトトギス」にも投句を始めました。

1920年、短歌を窪田空穂に師事、「朝の光」に短歌を投稿しました。1921年より「ホトトギス」の例会に出席し、虚子から直接の指導を受けるようになりました。

1922年、富安風生、山口誓子、山口青邨らと「東大俳句会」を再興しました。佐々木綾華主宰の「破魔弓」同人。

1924年、「ホトトギス」課題選者に就任しました。

1928年、自身の提案で「破魔弓」を「馬酔木」に改題、のちに主宰となりました。

1929年、「ホトトギス」同人。この年、山口青邨の講演で触れられたことにより、誓子、阿波野青畝、高野素十らとともに「ホトトギスの四S(しいエス)として知られるようになりました。

しかしこの頃、虚子は「秋桜子と素十」(『ホトトギス』1928年11月)において、叙情的な調べによって理想美を追求する秋桜子の主観写生と、高野素十の純客観写生の表現とを並べ後者をより高く評価すると宣言していました。

さらに1931年、この論を補強する中田みづほと浜口今夜との「まはぎ」での対談記事が「ホトトギス」3月号に転載されたことで秋桜子は態度を硬化させ、「馬酔木」1931年10月号にその反論として「『自然の真』と『文藝上の真』」を掲載しました。

高浜虚子らの自然を模写する俳句を批判し、「個性を通して自然を把握する」俳句を打ち出しました。ただ単に自然の美しさをうたうのではなく、自らの視点を通すことが大切と唱えたのです。このことは、俳句においての「感情の主体性」を確立し、近代俳句に新しい側面を与えるものでした。

素十の句、ひいては虚子の客観写生論を自然模倣主義として批判しつつ主観性を称揚し、論文発表と同時に「ホトトギス」を離脱しました。

1935年には「四S」の山口誓子や橋本多佳子が「ホトトギス」を離れて「馬酔木」に加わり、やがて「馬酔木」内外で反虚子、反ホトトギスを旗印とした新興俳句運動の流れが起こりました

彼は俳句の本質について、次のように主張しています。

俳句を論ずるに当たつて、まづ第一に明らかにして置くべきことは、「俳句は抒情詩である」といふことであります。抒情詩とは、自己の感情を詠嘆する詩で、その感情が強ければ強いほどこれを端的にあらはしますから、従つて形は短いものになります。さうしてその短い詩句の中に、作者の感情のあふれてゐるものを尊しとするのであります。

出典:『俳句の本質』(交蘭社、1937(昭和12)年刊)

「ホトトギス」がほぼそのまま俳壇を意味した当時の俳句界の中、秋桜子の主張は「客観写生」に飽き足らない後進の俳人たちの共感を呼びました

戦時中は日本文学報国会理事。1955年、医業を退き俳句に専念するようになりました。

1962年、俳人協会会長に就任。1964年、日本芸術院賞受賞。1966年、日本芸術院会員。1967年、勲三等瑞宝章を受章しました。

1978年11月18日には、昭和大学創立五十年記念式典で特別功労者として表彰され、式典の記念品のひとつに昭和大学五十年を詠んだ秋桜子の句「すすき野に大学舎成りぬああ五十年」の色紙が配られました。

この句の句碑は、大学キャンパスの中庭に建てられています。1981年7月17日、急性心不全のため杉並区西荻南の自宅で死去しました(88歳)。墓は東京都豊島区の都営染井霊園にあります。

3.水原秋桜子の俳句

馬酔木

<春の句>

・来しかたや 馬酔木咲く野の 日のひかり

・葛飾や 桃の籬(まがき)も 水田(みずた)べり

・梨咲くと 葛飾の野は との曇り

・おのが声 わすれて久し 春の風邪

・天わたる 日のあり雪解 しきりなる

・ 旅の夜の 茶のたのしさや 桜餅

・高嶺星(たかねぼし) 蚕飼(こがい)の村は 寝しづまり

・夕東風(ゆうごち)や 海の船ゐる 隅田川

・雛壇や 襖(ふすま)はらひて はるかより

・山桜 雪嶺天に 声もなし

・暮雪(ぼせつ)飛び 風鳴りやがて 春の月

<夏の句>

・ふるさとの 沼のにほひや 蛇苺

・瀧落ちて 群青世界 とどろけり

・麦秋の 中なるが悲し 聖廃墟

・蕗(ふき)生(お)ひし 畦に置くなり 田植笠

・雪渓は 夏日照るさへ さびしかり

・ナイターの 光芒大河 へだてけり

・誰も来て 仰ぐポプラぞ 夏の雲

・月見草 神の鳥居は 草の中

・紫陽花や 水辺の夕餉(ゆうげ) 早きかな

<秋の句>

・啄木鳥や 落葉をいそぐ 牧の木々

・はたはたの 羽音ひまなし 月待てば

・暗きまま 黄昏(たそが)れ来り 霧の宿

・竜胆(りんどう)や 月雲海(うんかい)を のぼり来る

・わがいのち 菊にむかひて しづかなる

・雨ながら 朝日まばゆし 秋海棠(しゅうかいどう)

・月山(がっさん)の 見ゆと芋煮て あそびけり

・萩の風 何か急(せ)かるる 何ならむ

・秋晴や 釣橋かかる 町の中

・颱風(たいふう)の 空飛ぶ花や 百日紅

<冬の句>

・冬菊の まとふはおのが ひかりのみ

・山茶花(さざんか)の 暮れゆきすでに 月夜なる

・薄氷の このごろむすび 蓮(はす)枯れぬ

・北風や 梢(こずえ)離れし もつれ蔓(つる)

・ぬるるもの 冬田(ふゆた)になかり 雨きたる

・寒苺(かんいちご) われにいくばくの 齢のこる

・鰭酒(ひれざけ)も 春待つ月も 琥珀色

・むさしのの 空真青(まさお)なる 落葉かな

<新年の句>

・羽子板や 子はまぼろしの すみだ川

4.水原秋桜子にまつわるエピソード

(1)短歌から俳句に転じた変わり種

『万葉集』の研究家であった窪田空穂のもとで学んだ経験から、古語を生かし、万葉調と言われる叙情的な調べを作り出しました

アララギ派の黄金時代を作る一人となりながらも、その後アララギを離れて新興俳句に転じました。

(2)新しい試みを積極的に行い「新興俳句運動」の先駆となった

従来の俳句に似ず、印象派風とも言われる明るさを持つことも特徴で、それまであまり詠まれなかった高原帯の雑木や野草・野鳥などを詠み込むことも試みられ、これらの傾向は「馬酔木」の俳人たちを通じて俳壇全体に広まっていきました。

また初期には連作俳句の試みも積極的に行っています。空穂や斎藤茂吉の連作短歌に影響を受けたもので、この連作俳句も新興俳句運動における特色のひとつとして俳壇に広まりました。

秋桜子の連作は絵巻物を想定したもので、あらかじめ考えられた全体の構成にしたがって連作を行い「設計図式」と呼ばれます。

他方で、山口誓子による映画理論にヒントを得たモンタージュ式の連作があり、追随して連作俳句をつくる俳人たちの間で両者が議論されました。

またこのような連作俳句の中から無季俳句を作る流れが登場しますが、秋桜子自身は一貫して無季俳句を否定する立場を取り、新興俳句運動の急進的な立場からは距離を置きました。

やがて連作俳句自体も、一句の独立性を弱めると考えるようになり廃止することとなりました

(3)熱心な野球ファン

秋桜子は中学時代には野球に熱中しており、晩年も西武ライオンズのファンとして熱心に野球観戦もしていました。「ナイターの光芒大河へだてけり」など、ナイター(夏の季語)を詠んだ句も多く残しています。

(4)華麗なる一族

妻しづは国文学者・吉田弥平の長女。弥平の次男が山の上ホテルの創業者・吉田俊男であり、次女が歴史哲学者の由良哲次に嫁いでいるため、吉田俊男と由良哲次はともに秋桜子の義弟にあたります。

またイギリス文学者の由良君美は由良哲次の長男であり、下河辺牧場代表の下河辺俊行は吉田俊男の娘婿であるため、由良君美と下河辺俊行はともに秋桜子の義理の甥にあたります。

長男の水原春郎(聖マリアンナ医科大学名誉教授)は、秋桜子の没後に「馬酔木」発行人を経て1984年より主宰を務めました。

2012年より、孫の徳田千鶴子(水原春郎の長女)が「馬酔木」主宰を継承しています。

(5)出生地の神田猿楽町にまつわるエピソード

水原秋桜子は、東京市神田区猿楽町に生まれました。1889年(明治22年)から1943年(昭和18年)まで、東京都は「東京府」と呼ばれ、さらに府の中に「東京市」が置かれていました。この東京市(15区)と周辺の郡町村が、のちの東京23区となります。

猿楽町という地名の由来は、慶長(1596年~1615年)頃、猿楽や能楽関係者の屋敷が並んでいたことに由来しています。

俳句にもゆかりのある地で、例えば正岡子規が学生時代に下宿し、高浜虚子が一時住まいを構えた町としても知られています。