樋口一葉と言えば、「たけくらべ」「にごりえ」などの小説で有名で、2004年からは五千円紙幣の肖像(2024年からは津田梅子の肖像に変更)にも採用されておなじみですね。
ところであれほど才能あふれる樋口一葉が、なぜ貧困のうちに肺結核に倒れ、24歳の若さで夭折しなければならなかったのでしょうか?誰か手を差し伸べる人はいなかったのでしょうか?
そこで今回は樋口一葉を取り巻いたのはどのような人々だったかを中心に、わかりやすくご紹介したいと思います。
1.樋口一葉とは
樋口一葉(1872年~1896年)は、東京生まれの小説家・歌人で、本名は「奈津」です。ただし本人は「夏子」と名乗ることが多かったようです。
彼女は幼少期から利発で言葉が出るのも早く物覚えも良かったそうです。日記「塵の中」によると、幼少時代は手毬や羽根つきなど同年代の子供の遊びに興味がなく、読書を好み、草双紙の類を読み耽っていたそうです。
曲亭馬琴の「南総里見八犬伝」を3日で読破したとも伝えられています。
ペンネームの由来は、当時彼女が困窮していたこと(お足がないこと)を、「一枚の葦の葉の舟に乗ってインドから中国に渡り、面壁九年の座禅で手足が腐ってしまった達磨大師の故事」に引っ掛けたものです。
彼女は24歳の若さで亡くなる直前の1894年12月から1896年2月の間に、「大つごもり」「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」などの名作を次々に発表しました。これは「奇跡の14ケ月」と呼ばれています。
2.樋口一葉の家族
上の写真は左から妹くに・母たき・一葉です。
(1)父母
①父・則義(のりよし)は、東京府の下級役人でした。彼は元々山梨の農家の生まれで、江戸に出てからお金を貯めて武士の地位を得た人物です。
明治維新後は東京府の官吏や不動産業・金融業などを行い、一葉が幼い頃は裕福だったようです。
しかし1889年に警視庁を退職すると、家屋敷を売った金を注ぎ込んで「荷車請負業組合」設立の事業に参画しましたが、出資金を騙し取られて失敗し、同年負債を残して亡くなりました。
その結果、一葉は17歳で一家の家計を背負うことになりました。具体的には、母と妹の3人で針仕事・洗い張り・下駄の蝉表作りなどの賃仕事をすることになりましたが、それだけでは足りず、方々から借金を繰り返す苦しい生活を強いられました。
そのような生活が一葉に「女流作家になって原稿料を得ること」を目指させたのでしょう。
②母・多喜(たき)は、「女に学問はいらない」という考えの持ち主だったため、一葉は11歳で小学校高等科四級を首席で卒業しましたが、女学校などの上級学校へ進学させませんでした。
もし母の反対がなく、上級学校に進学していれば、一葉の人生はもっと違ったものになったのではないかと思います。ただし、「たけくらべ」のような珠玉の文学作品は生まれなかったかもしれません。
(2)兄妹
①長兄・泉太郎は1885年に明治法律学校(明治大学の前身)に入学しましたが、1887年に中退し、父の知人の紹介で大蔵省出納局に勤務しましたが、同年肺結核で亡くなりました。
その結果、1887年に一葉が父を後見にして「相続戸主」となりました。
②次兄・虎之助は素行が悪く、金銭問題を起こしていたため、1881年に分家し、陶器絵付師に弟子入りするという形で勘当されています。
③妹・(くに)は。母と一葉と一緒に針仕事・洗い張り・下駄の蝉表作りなどの賃仕事をして苦労しましたが、1896年に一葉が亡くなり、1898年には母が亡くなると、樋口家と懇意であった西村釧ノ助の経営する文具店・礫川堂を譲り受け、店に出入りしていた吉江政次を婿に迎えて店を共同経営し、一葉の草稿や日記、反故紙の保存と整理・出版に尽力しました。
3.和歌・書と古典文学の師と同門生
母親の考えとは違って、一葉は向学心が旺盛であったため、小学校高等科卒業の3年後、14歳の時に父が旧幕時代の知人である医師の遠田澄庵の紹介で、歌人中島歌子の塾「萩の舎(はぎのや)」に入学させてくれました。
(1)中島歌子(1845年~1903年)
中島歌子が主宰する塾「萩の舎」では、和歌のほかに千蔭流の書や王朝文学の講読がありました。「萩の舎」は当時、公家・旧大名などの旧体制名家、明治政府の特権階級である政治家・軍人の夫人や令嬢らが通い、門人は千人を超える歌塾でした。
一葉は「士族」とはいえ、下級役人の娘だったので、「平民」の伊東夏子や田中みの子と仲良くなり「平民三人組」と称しました。
一葉は1890年に「萩の舎」の内弟子として住み込みましたが、歌塾の手伝いだけでなく女中のような勝手仕事までさせられたため、5か月で辞めています。
(2)田辺花圃(たなべかほ)(1868年~1943年)(結婚後:三宅花圃)
「萩の舎」に入門の翌年二月に行われた新春恒例の発会の歌会で、一葉は最高点を取りました。
名家の令嬢であった田辺花圃(本名:龍子)は、自伝「思い出の人々」の中で、一葉との出会いを次のように書いています。
「萩の舎」の月例会で、友人と床の間の前で寿司の配膳を待ちながら、「清風徐(おもむ)ろに吹来って水波起らず」という「赤壁賦」の一節を読み上げていたら、給仕をしていた猫背の女が「酒を挙げて客に属し、明月の詩を誦し窈窕の章を歌ふ」と口ずさんだのに気付いて「なんだ、生意気な女」と思っていたら、それが一葉で、先生から「特別に目をかけてあげてほしい」と言われて紹介された。
「一葉は女中と内弟子を兼ねた働く人のようだった」とも書いています。
この時、一葉15歳、花圃18歳で、後に二人は「萩の舎の二才媛」と呼ばれました。花圃は1892年に哲学者・評論家の三宅雪嶺(1860年~1945年)と結婚し、「三宅花圃」となった歌人・小説家です。
花圃が1888年に小説「藪の鶯」を出版し、33円という多額の原稿料を得たのを知った一葉は、1889年頃から小説を書く決意をします。
4.婚約者
(1)阪本三郎(旧姓:渋谷)
父の則義が亡くなる前に、一葉には阪本三郎という婚約者がいましたが、父の死後に婚約は解消されました。
阪本は則義と同郷で、上京後の則義を支援した真下晩菘の妾腹の孫であった縁です。当時彼は東京専門学校(早稲田大学の前身)の法科で学んでいて高等文官試験(司法試験の前身)を目指していました。
婚約解消の原因は、阪本が則義の死後、学費や生活費の支援を求めたことに母・多喜が怒ったためのようです。阪本が後に高等文官試験に合格し、検事になってから人を通じて一葉と復縁しようとして再び母・多喜を怒らせています。
ちなみに阪本は後に東京地裁判事・東京控訴院判事・早稲田大学教授・秋田県知事・山梨県知事などを歴任しています。
母の反対がなく阪本と結婚していれば、一葉にも別の人生が開けたようにも思えます。
ところで余談ですが、一葉には夏目漱石(1867年~1916年)の長兄・大助との間で縁談の話があったそうです。一葉の父・則義が東京府の官吏だった時の上司が、漱石の父・小兵衛直克だった縁からです。ところが、則義が直克にたびたび借金を申し込んできたことを快く思わなかった直克が、「上司と部下というだけで、これだけ何度も借金を申し込んでくるのに、親戚になったら何を要求されるかわからない」と言って、破談にしたそうです。
「たられば」の話になりますが、「一葉が夏目漱石と結婚していたらどうなっていたか」と想像するのも楽しいものです。ただ漱石の父・小兵衛直克が一葉の父・則義を毛嫌いしていたので、現実には無理だったでしょうが・・・
5.小説の師
(1)半井桃水(なからいとうすい)
1891年に「枯れ尾花」などいくつかの習作を執筆し、妹・くにの知人の野々宮菊子の紹介で、東京朝日新聞専属作家の半井桃水を訪ね、師事することにしました。
半井は1892年3月に同人誌「武蔵野」を創刊し、一葉は「闇桜」を「一葉」のペンネームを初めて使用して創刊号に発表しました
半井は東京朝日新聞主筆の小宮山桂介に彼女を紹介しましたが、一葉の小説は採用されず、新聞小説で原稿料を得ようとした彼女の目論見は外れました。
一葉は半井に恋心を抱いていたようです。二人の仲を噂する醜聞が「萩の舎」に広まったため、中島歌子や伊東夏子に交際を反対され、半井と絶交しています。
その後、一葉は上野図書館に通い、独学しています。そして1892年11月に、「萩の舎」の同門生だった「三宅花圃」の紹介で、これまでとはスタイルの異なる幸田露伴風の理想主義的な小説「うもれ木」を雑誌「都之花」に発表し、初めて原稿料11円50銭を受け取りました。
さらに「三宅花圃」の紹介で1893年3月にロマン主義の月間文芸雑誌「文學界」創刊号に「雪の日」を発表しました。
その後筆が進まなくなった一葉は、生活苦打開のために1893年7月、吉原遊郭近くの下谷龍泉寺町で荒物と駄菓子を売る雑貨店を開業しました。この時の経験が、後の代表作「たけくらべ」の題材となりました。
1893年12月には「琴の音」、1894年12月には「大つごもり」を「文學界」に発表しました。
6.出版社博文館の大橋乙羽
1895年には半井から、出版社「博文館」の大橋乙羽を紹介されました。「博文館」は1887年創業の出版社ですが、「太陽」「文藝俱楽部」などを発刊し、当時「春陽堂」と並んで出版界をリードする存在でした。
大橋社長夫妻は、一葉に活躍の場を与え、経済的にも支援しました。大橋の妻は一葉から和歌を習っています。
1895年1月から「たけくらべ」を7回にわたって発表し、そのほか「ゆく雲」「経つくえ」「にごりえ」「十三夜」などを次々と発表しました。
一葉研究家の和田芳恵氏はこの時期(1894年12月~1896年2月)を「奇跡の14ケ月」と呼びました。
1895年4月から、一葉の家には島崎藤村や馬場孤蝶など「文學界」同人や斎藤緑雨と言った文筆家などが毎日訪れ、さながら「文学サロン」のようになったそうです。
一葉は着るものにも困る生活でしたが、来客を歓迎し、鰻や寿司を取り寄せてふるまったそうです。
7.文壇の大御所幸田露伴と森鴎外
1896年に「たけくらべ」が「文藝俱楽部」に一括掲載されると、森鴎外や幸田露伴は同人誌「めざまし草」で一葉を高く評価しました。
8.樋口一葉の和歌
一葉の和歌は、小説の師である半井桃水への恋心を歌ったものが多いようです。与謝野晶子(1878年~1942年)の恋の歌が「動」とすれば、一葉の恋の歌は「静」です。
・いとゝしく つらかりぬべき別路(わかれじ)を あはぬ今よりしのばるゝ哉
・うき名をば 惜しむあまりに今はただ 逢ふ由もなくなりにけるかな
・梅が香の 身にしむばかり夜も更けぬ 契し友を待つとせし間に
・おもふこと すこし洩らさん友もがな うかれてみたき朧月夜に
・書き交す この玉章(たまずさ)のなかりせば 何をか今日の命にはせ
・行水の うき名も何か木の葉舟 ながるゝまゝにまかせてをみん
・来ん人も 今は待たじの雨の夜に 名のりもつらき虫の音ぞする
・よそながら かげだに見んと幾度(いくたび)か 君が門をば過ぎてけるかな
9.樋口一葉の言葉
・身をすてつるなれば 世の中の事 何かはおそろしからん
・みなさまが野辺をそぞろ歩いておいでの時には、蝶にでもなって、お袖のあたりに戯れまつわりましょう。
・分けのぼる道はよしかはるとも、終には我も人もひとしかるべし。
・色に迷う人は迷えばいい。情に狂う人は狂えばいい。この世で一歩でも天に近づけば、自然と天が機会を与えてくれるだろう。
・せつなる恋の心は、尊きこと神のごとし。
・恋とは尊くあさましく無残なものなり。
・只世にをかしくて、あやしく、のどかに、やはらかに、悲しく、おもしろきものは”恋”とこそ言はめ。
・丸うならねば思う事は遂げられまじ。
・利欲にはしれる浮き世の人あさましく、厭わしく、これゆえにかく狂えるかと見れば、金銀はほとんど塵芥の様にぞ覚えし。
・恐ろしきは涙の後の女子心なり。
・こころにいつはりはなし、はた又、こころはうごくものにあらず、うごくものは情なり。此涙も、此笑みも、心の底よりい出しものならで、情にうごかされて情のかたち也。
・この世ほろびざるかぎりわが詩はひとのいのちとなりぬべきなり。
・行水(ゆくみず)にも淵瀬(ふちせ)あり、人の世に窮達(きゅうたつ)なからめやは。
樋口一葉自身の言葉ではありませんが、「にごりえ」に出てくる主人公の不遇な酌婦お力の言葉は、彼女の気持ちを暗示しているようです。
・これが一生か、一生がこれか、ああ、いやだ、いやだ。