ホトトギス派の俳人(その7)阿波野青畝:市井の生活を素材に鷹揚で自在な句境

フォローする



阿波野青畝

「ホトトギス派」の俳人と言えば、高浜虚子が代表格ですが、大正期には渡辺水巴(すいは)、村上鬼城(きじょう)、飯田蛇笏(だこつ)、前田普羅(ふら)、原石鼎(せきてい)が輩出しました。

昭和に入ると、山口誓子(せいし)・水原秋桜子(しゅうおうし)・阿波野青畝(あわのせいほ)・高野素十(たかのすじゅう)・山口青邨(せいそん)・富安風生(とみやすふうせい)を擁し、花鳥諷詠・写生俳句を提唱して『ホトトギス』の全盛期を形成しました。

特に山口誓子・水原秋桜子・阿波野青畝・高野素十は、「ホトトギスの四S」と称されます。

さらに中村草田男(くさたお)、川端茅舎(ぼうしゃ)、星野立子(たつこ)、中村汀女(ていじょ)ら新人を加えて、新興俳句の勃興にも伝統を堅持して揺るがず、俳壇の王座に君臨しました。

1951年、虚子は長男・高浜年尾(としお)に『ホトトギス』を継承させ、年尾没後の1979年からは年尾の二女・稲畑汀子(いなはたていこ)が受け継ぎました。

2013年(平成25)汀子の長男・稲畑廣太郎(こうたろう)が主宰を継承し、明治・大正・昭和・平成・令和の五代にわたる最古の俳誌としての歴史を誇っています。

そこで今回から、ホトトギス派の有名な俳人を(既に記事を書いている人を除いて)順番に詳しくご紹介したいと思います。

1.阿波野青畝とは

阿波野青畝(あわの せいほ)(1899年~1992年)は、奈良県出身のホトトギス派の俳人です。本名は敏雄。旧姓・橋本。原田浜人、高浜虚子に師事。昭和初期に山口誓子、高野素十、水原秋桜子ととも「ホトトギスの四S(しいえす)」と称されました。「かつらぎ」主宰。

市井の生活を材に、鷹揚な表現で自在な句境を構築しました。古典を素地にした叙情性も特徴です。句集に『万両』(1931年)、『除夜』(1986年)など。

2.阿波野青畝の生涯

阿波野青畝は、奈良県高市郡高取町に橋本長治・かね夫妻の四男として生まれました。父は八木銀行高取支店長で士族の家系。幼少の時に耳を患い難聴となります。

1913年、奈良県立畝傍中学校(現・奈良県立畝傍高等学校)に入学。

1915年、「ホトトギス」を知り、県立郡山中学校で英語教師をしていた「ホトトギス」同人の原田浜人(ひんじん)のもとで俳句を学ぶようになりました。

1917年、原田浜人宅で催された句会で郡山に来遊中の高浜虚子と出会い、師事するようになります。虚子は難聴であっても大成している俳人・村上鬼城を紹介し、彼を激励しました。

1918年、畝傍中を卒業。難聴のため進学を諦め八木銀行(現・南都銀行)に入行。

1919年、叙情句を志していたことから、この頃に虚子が唱導しはじめた「客観写生」の説に対し虚子に抗議の手紙を送りました。(この「抒情句」という考え方は、後に水原秋桜子が唱えた俳句の本質に通じるものです。)

これに対し「あなたの芸術を大成するために大事なこと」「他日成程と合点の行くときが来る」と返書で諭され、自らの方向を定めました。

1922年、野村泊月の「山茶花」の創刊に参加。1923年、大阪市西区京町堀の商家の娘・阿波野貞の婿養子となり阿波野姓となりました。

1924年、25歳にして「ホトトギス」課題選者に就任。1929年、郷里奈良県八木町(現・橿原市)の俳人・多田桜朶らが中心となり俳誌「かつらぎ」を創刊、請われて主宰となりました。同年「ホトトギス」同人。

1933年、妻・貞が病没し、阿波野秀と再婚。1942年、戦時下の統制令で「かつらぎ」が他誌と合併し「飛鳥」となりました。

1945年、妻・秀が死去。1946年、「かつらぎ」を復刊、発行人となりました。この年、田代といと再婚。

1947年カトリック教会に入信。洗礼名はアシジの聖フランシスコ阿波野敏雄。1951年、虚子が「ホトトギス」の選者を辞め長男年尾に譲ったのを機に「ホトトギス」への出句を止めました。1948年、株式会社かつらぎ社を創立。

1969年、よみうり俳壇大阪本社選者。1973年、 『甲子園』他で第7回蛇笏賞、西宮市民文化賞を受賞。1974年、大阪府芸術賞を受賞。俳人協会顧問。1975年、勲四等瑞宝章を受章。俳人協会関西支部長。

1990年、「かつらぎ」主宰を森田峠に譲り、名誉主宰に就任。1992年、『西湖』により第7回詩歌文学館賞を受賞。同年12月22日、兵庫県尼崎市の病院で心不全により93歳で死去しました。

3.阿波野青畝の句風

阿波野青畝は、関西語特有の滑らかな調子万葉の古語や雅語を生かした独特の美と飄逸味のある句を作りました。

眼前のものをそのまま書き写すのではなく、相応しい言葉を取り出して写実風景を一句の上に構成するという手法をとっており、「客観写生」に濃やかな主観を調和させたおおらかな句風です。

四Sの他の3人のように革新的でなく、仏教を好んで題材に取るなど(特に涅槃会の題材を得意としました)、四人のなかでも特異な立ち位置にありました。素十と対照的に主観語の使用も多く、山本健吉は「四Sの中で句風はいちばん軽く、物足りなさを感ずる場合も多いが、自由さと、愛情と、ユーモアを湛えた生活感情の陰影深さにおいては、第一等であると思う」と評しています。

余談ですが、阿波野青畝が生まれた奈良県高市郡高取町には、「ホトトギスの四S」のもう一人である高野素十(すじゅう)も一時期住んでいました。素十は、一高から東京帝大を経て医学を修め、昭和9年から35年まで奈良県立医科大学の法医学教授を務めました。この間の一時期、昭和20年前後高取町大字観覚寺に住んでいて、ここから奈良医大に通っていました。

素十の俳句は、視覚を中心とした厳格なリアリズムを漂わせる「厳密な意味における写生」と虚子が評価した作風です。片や青畝の句は、しみじみとした情のぬくもりを感じさせます。

4.阿波野青畝の俳句

<春の句>

・葛城(かつらぎ)の 山懐(やまふところ)に 寝釈迦(ねしゃか)かな

・なつかしの 濁世(じょくせ)の雨や 涅槃像(ねはんぞう)

・山又山 山桜又 山桜

・畑打つや 土よろこんで くだけけり

・飯にせむ 梅も亭午(ていご)と なりにけり

・しろしろと 畠(はたけ)の中の 梅一本

・満山の つぼみのままの 躑躅(つつじ)かな

・白魚(しらうお)は 仮名ちるごとく 煮えにけり

・山吹の 三(み)ひら二(ふた)ひら 名残りかな

<夏の句>

・さみだれの あまだればかり 浮御堂(うきみどう)

・水ゆれて 鳳凰堂へ 蛇の首

・牡丹百 二百三百 門一つ

・虫の灯に 読み昂(たかぶ)りぬ 耳しひ児(ご)

・大空に 長き能登あり お花畑(はなばた)

・蟻地獄 みな生きてゐる 伽藍(がらん)かな

・遠花火(とおはなび) この家を出し 姉妹

・住吉に 住みなす空は 花火かな

・鑑真(がんじん)の 目を玉虫の 走りけり

・石をもて 固むる民家 海は夏

・蝮(まむし)には 心ゆるすな 丑湯治(うしとうじ)

<秋の句>

・朝夕が どかとよろしき 残暑かな

・露の虫 大いなるものを まりにけり

・みのむしの 此奴(こやつ)は萩の 花衣(はなごろも)

・供藷(そなえいも) 眼耳鼻舌身(げんにびぜっしん) 意もなしと

・十六夜(いざよい)の きのふともなく 照らしけり

・赤のまま 天平雲(てんぴょうぐも)は 天のもの

・うつくしき 芦火(あしび)ひとつや 暮の原

・翡翠(ひすい)砥(と)ぐ 石冷やかに 割れにけり

・目つぶれば 蔵王権現 後の月(のちのつき)

・ますぐには 飛びゆきがたし 秋の蝶

<冬の句> 

・狐火や まこと顔にも 一くさり

・ルノアルの 女に毛糸 編ませたし

・モジリアニの 女の顔の 案山子(かかし)かな

・居酒屋の 灯の佇(たたず)める 雪だるま

・息白き 子のひらめかす 叡智(えいち)かな

・寒波急 日本は細く なりしまま

・人吉の 雨にゆびしき 衾(ふすま)かな

・雪の音 警策(きょうさく)の音 永平寺

・みちのくの 子の赤足袋の 鞐(こはぜ)見え

・国敗れ たりし山河を 鷹知れり

<新年の句>

・一軒家より 色がでて 春着(はるぎ)の児

・初富士を 隠さふべしや 深庇(ふかびさし)

・若水に 奈良井の宿の 杓卸す

・薮入のや くらがり峠 降り来しと

・口開いて 矢大臣(やだいじん)よし 初詣